第七章:来訪者 7-1:玉座の狼狽
王宮の大会議室は、死んでいた。
数日前、聖女セシリアの無力さが露呈し、アルフレッド王子の現実逃避によって一度「沈黙」したこの場所は、今や、大蝗害という動かぬ現実がもたらした「腐敗臭」と「絶望」によって、その機能を完全に停止していた。
国王は玉座に座したまま、虚空を見つめている。 その瞳には、かつて王国を統べた王の威光はなく、ただ終わりの日を待つ老人の諦観が浮かんでいるだけだ。 アルフレッド王子は自室に閉じこもり、この悪夢の会議にすら出席していない。 聖女セシリアは高熱にうなされ、もはや神の言葉どころか、人の言葉すら耳に届かない状態が続いていた。
集まった貴族や大臣たちは、この数日間、意味のない議論を繰り返した。王都の備蓄庫の確認、他国への援助要請、魔術師団による食料生成の可能性。 だが、どれも焼け石に水。 備蓄は貴族と軍隊が生き延びるためのものであり、民衆に回す余裕はない。 他国も蝗害の影響を少なからず受けており、援助など期待できるはずもなかった。
王国は、飢えて死ぬのを待つだけの、巨大な牢獄と化したのだ。
重苦しい沈黙が、まるで鉛の外套のように、その場にいる全員の肩にのしかかる。窓から差し込む光は、もはや希望の象徴ではなく、王都の庭園や森が食い尽くされ、茶色く変色した「死の世界」を無慈悲に照らし出す、残酷なスポットライトだった。 植物の腐敗が始まったのか、会議室の密閉された空気の中にさえ、かすかな甘酸っぱい死臭が漂い始めている。
「……もう、終わりだ」
誰かが、絞り出すように呟いた。それが、この場にいる全員の総意だった。
その、絶望が飽和しきった、その瞬間だった。
コン、コン、と、場違いなまでに乾いたノックの音が、重厚な扉を震わせた。
そのあまりにも「日常的」な音に、死を待つばかりだった貴族たちの肩が、ビクリと異様に大きく跳ねた。 幽霊でも見たかのように、全員の視線が扉に集中する。
「……入れ」
国王が、数日ぶりに、かろうじて王としての威厳を絞り出した。
扉がゆっくりと開き、一人の文官が、まるで処刑台に登る罪人のように真っ青な顔で、しかしその手には一枚の羊皮紙を握りしめ、転がり込むように入室してきた。
「き、緊急報告! 申し上げます!」
文官の声は恐怖と、それとは異質の何か、理解を超えた「興奮」のようなもので上擦っていた。
「商人ギルドより! 緊急の魔導通信が!」
「……商人ギルド、だと?」
宰相が、その老獪な顔を、重々しく上げた。彼の顔にも、この数日間の心労で、死相にも似た深い影が落ちていた。 「今更、商人に何ができる。流通が完全に途絶えたという、わかりきった報告か」
「そ、それが……!」 文官は、羊皮紙を握りしめたまま、その場でガタガタと震え始めた。「マルコとかいう商人が、ギルド本部に送ってきた報告が、あまりにも……あまりにも信じ難く、確認のため、こちらに……!」
「何をぐずぐずしておる!」 一人の侯爵が、溜まりかねたようにヒステリックな声を上げた。 「これ以上の悪い知らせなど、最早ありえん! 早く言え!」
「は、はいっ!」
文官は、この世の終わりよりも恐ろしい貴族たちの視線に射抜かれ、ヤケになったかのようにその羊皮紙を読み上げた。彼の声が、死んだ会議室に狂ったように響き渡る。
「――バルケン領! 被害、ゼロ!!」
「…………」
時が、止まった。
会議室の空気が、一瞬、完全に凍り付いた。
宰相が、その老体を信じられないほどの敏捷さで動かし、文官から羊皮紙をひったくった。 その手は、老いによるものではなく、激しい「動揺」によって、わなわなと震えている。
「……何を、馬鹿な……!」
宰相は、その羊皮紙に書かれた文字を、何度も何度も、その老眼鏡越しに読み返した。
「……あの不毛の赤土の土地が、被害ゼロだと……? 蝗害の通り道から、都合よく外れていたと、そういうことか……?」
「い、いえ! それが、報告の続きに!」
文官は、もはや自分が何を報告しているのか、半分も理解していないようだった。ただ、そこに書かれた事実を、オウムのように叫ぶ。
「商人マルコの報告によれば……!」
「『――バルケン領、蝗害の直撃を受けるも、謎のスキル結界により、蝗の一匹たりとも領地に入れず』!!」
「なっ……!?」
「『スキル結界』だと!? あの【害虫駆除】が、あの蝗の群れを防いだとでもいうのか!?」
貴族たちが、理解不能な情報に、パニックを起こしかけていた。それは、絶望とは違う、別の種類の、脳が焼き切れそうなほどの混乱だった。
「さらに!」
文官は、最後の、そして最大の爆弾を投下した。
「『――同領、ファティマ・フォン・バルケン様の、独自の農業指導により、土壌、完全に回復せり!』」
「『――結果、赤土は黒土に変わり、本年度、例年(王都)を遥かに凌駕する、未曾有の大豊作を達成せり』……と!!」
しん、と静まり返った。
今度こそ、本当の、絶対的な沈黙が、大会議室を支配した。
「……ばるけん、りょうが……」
「……あか土、が、黒土に……?」
「……ファティマ、だと……?」
「……豊作……?」
貴族たちが、まるで初めて聞く単語のように、その言葉を復唱する。
アルフレッド王子がファティマの「呪い」だと言っていた。 そのファティマが? 聖女セシリアが完敗した、あの大蝗害を? たった一人で?
宰相の震える手から、その、王国にとって唯一の「希望」とも、あまりにも残酷な「皮肉」ともとれる羊皮紙が、ハラリと床に落ちた。
絶望の暗闇に包まれた王国に、今、最も遠い、最も見捨てられた、あの辺境の地から、一条の、ありえないほどの眩い「光」が差し込もうとしていた。
国王が、虚ろだったその瞳に、数日ぶりに「意志」の光を宿し、震える声で、しかしはっきりと、命じた。
「……宰相」
「……は」
「……行け」
「……御自ら、確かめて、まいれ。……そして、もし、もし、その報告が、真であるならば……」
国王は、言葉を区切った。
「……何としてでも、その『食料』を、王都へ」
その言葉は、もはや「命令」ではなく、溺れる者が掴む、最後の「藁」にも似た、か細い「懇願」だった。
老宰相は、この国一番の老獪な政治家は、その床に落ちた羊皮紙を、ゆっくりと拾い上げ、深々と、一度だけ、頷いた。




