朝露に濡れた君
僕は、朝露に濡れた彼女に一目惚れした。
彼女の瞳はくりっとして瑞々しくて可憐だ。
彼女の黄色や緑や赤色の色鮮やかなお腹は、ぷっくりと丸みを帯びていてとても愛らしい。
そして、枝葉の間に張られた、中心から放射状に伸びる縦糸と、螺旋状の横糸からなる円形の透明な網の中央にいる、朝露に濡れた彼女の黒い八本の足はスラリと長く、木々の梢から差し込む朝日の光に照らされて、この世のものとは思えないほどの美しさだった。
僕は、その姿を一目見た時から、彼女を孕ませることこそが僕の天命なのだと悟った。
しかし、今まで、体の関係どころかまともに恋などしてこなかった僕は、彼女にどうアプローチしていいのか分からないまま、彼女の作った巣の前の濡れた葉の上で二の足を踏んでいた。
決心がつかないまましばらく居ると、僕の隣にひょこひょこと雄蜘蛛が一匹やって来た。その雄蜘蛛は、彼女の姿を認めると、ピタッと動きを止め、しばらく見詰めてから溜息混じりに呟いた。
「美しい・・・・・」
どうやらこの雄蜘蛛も彼女に惚れたらしい。雄蜘蛛はようやく僕に気がついて振り向くと、気さくに声をかけてきた。
「やあ、もしかして君も、彼女を狙っているのかい」
ストレートにそう尋ねられると妙に気恥ずかしくて、僕はモゴモゴと返事をする。
「ああ、まあ、それは、ど、どうかな・・・・・」
僕が曖昧に答えると、雄蜘蛛は嬉しそうに二つの鋏角をカチカチと鳴らした。
「そうなのかい?じゃあ、彼女は僕が貰っちゃってもいいね!」
そう言うと、雄蜘蛛は動けない僕を尻目に彼女の巣へと向かっていった。僕は内心穏やかではなかった。こんなにも彼女のことを思っているのに、僕が不甲斐ないばかりに、あいつに彼女を獲られてしまう。そんなのは嫌だ。なんとかして踏み出そうとするが、一歩目で止まってしまった。
こんな、なんの取り柄のない僕が行って、一体何になるというんだ。彼女のような美しい人に僕が言いよったって結果は見えている。僕は彼女にふさわしくない。きっとあの雄蜘蛛みたいな明るくて気さくな奴の方がお似合いに決まっている。そう考えると、僕の小さな八本の足は鉛の様に重くなった。
一方雄蜘蛛は、慣れた足取りでススイと巣に登ると、彼女の近くまで寄って、こう話しかけた。
「へい彼女。君はなんて綺麗なんだ。もしよかったら、僕と一緒にお食事でもどうですか」
淀みなく口上を述べた雄蜘蛛は、彼女に気取ったお辞儀をして見せた。彼女の方は、ようやく雄蜘蛛に気がついたらしく、その瑞々しい八つの瞳で奴の事をじっと凝視している。これはモノにしたなと思ったのか、雄蜘蛛は鋏角を擦り合わせて得意げな顔を僕に向けてきた。なんと下衆な野郎なのだ!一言言ってやりたかったが、もう殆ど勝負に負けた僕は、その場でほぞを噛むことしかできなかった。
束の間の沈黙ののち、彼女は朝露を振るい落とし、一目散に雄蜘蛛の方へと駆け寄った。そして ―――――― ガブッ。
「あれっ」
彼女は雄蜘蛛をむしゃむしゃと食べ始めた。
「ちょ、やめ」
雄蜘蛛の小さな体は悲鳴を上げる間も無くみるみると彼女の腹の中に収まってゆき、あっという間に平らげられた。一本の雄蜘蛛の脚が、ポトリ、と僕の傍に落ちてきた。雄蜘蛛を食べ終わった彼女は、何事もなかったかのように澄ました態度で再び巣の中央へと戻っていった。
その一部始終を見ていた僕は戦慄していた。無策で彼女の元へ突っ込んでも、きっと奴の二の舞になってっしまうのは明白だった。なぜならば、あんなにも完璧な彼女が僕のように矮小な存在を気にするとは思えないからだ。彼女からしたら僕なんかきっと一人の男としてではなく、あの雄蜘蛛のように単なる餌としてしか見なされないだろう。僕の足取りはなおさら重々しくなってしまった。
僕が悲観している間に、一匹の羽虫が彼女の巣に掛かった。糸が絡まって身動きできなくなった羽虫はなんとか脱しようと必死にもがいている。彼女はそこへ瞬時に駆け寄ると、無駄のない動きで羽虫を糸でぐるぐる巻きにした。そして少ししてからその羽虫を頬張り始めた。一心不乱に食事をする彼女はとても可愛らしく、彼女への想いはより一層募っていく。しかし、どうやっても、僕には彼女に言い寄るだけの度胸がなかった。
半ば諦めて、踵を返そうとしたその時、一羽の黄色い蝶がひらひらと飛んできた。その蝶は朝ぼやけの中を気持ちよく舞っていたが、彼女の巣に引っかかってしまった。
バタバタともがく、もがけばもがくほどに、糸が絡まって身動きが取れなくなっている。ああ、こいつも彼女の餌食になるんだなぁ、とただ茫然とその光景を眺めていた僕は、ふと気がついた。
彼女が一向に蝶の方へとやってこない。不思議に思って彼女の方に目を移すと、彼女は先ほどの糸で丸めた羽虫をムシャムシャとうまそうに貪っていて、蝶が自らの網に引っかかったことなぞ、全く気がついていない様だった。その間に、蝶は身を捩らせ捩らせ、やっとの思いで巣から抜け出し、朝日の中へと飛び去っていった。
一筋の光明が、僕には見えた。彼女が食事をしている間は、襲われることはない。タイミングを見計らって彼女に近づけば、もしかしたら、彼女を孕ませることができるかもしれない!
彼女は、すでに羽虫を平らげ巣の中央に戻っていた。僕は息を殺して、彼女の次の獲物が透明な網に引っかかるのを、息を殺して待ち続けた。
次第に朝日が昇り、空が赤くなり、闇の中に月が浮かぶ。ぽつりぽつりと小雨が降る。その間も僕は身じろぎ一つせずじっとその場で待っていた。そして、彼女への想いは時間が経つにつれてどんどんと募っていった。
次の日の朝、ついにその時がやってきた。一匹のウスバカゲロウが、水滴滴る彼女の巣に引っかかったのだ。彼女は一目散にウスバカゲロウのところまで行くと、首元を一噛みして身動き出来なくし、匠の技で糸を巻いていく。ぐるぐる、ぐるぐると巻いてゆく。
そして、糸を巻き終わると、尻からワシワシと食べ始めた。
今しかない!
僕の身体は、見えざる手に押されたかのように、気がつくと彼女の巣の中に飛び込んでいた。透明な網の上には、朝露の水滴や、細かい枝の切れ端や、葉などが引っかかっており、なかなかに歩きづらい。しかしながら、僕は一心不乱に彼女の元へと突き進んだ。全ては、彼女を孕ませるため!どれだけ乱暴に駆け回っても、やはり彼女は食事に夢中なままだ。これなら、行ける! そしてついに、その時がやってきた。
僕は数多の障害物を抜け、彼女の背後から腹の下に潜り込み、彼女の腹部にある生殖口に僕の触肢を差し込んで、
ドクン、ドクン。
僕は愛の液を目一杯彼女に注ぎ込んだ。
ドクン、ドクン。
彼女は僅かに身を震わせる。僕は天にも昇る心地だった。僕は無事、彼女を孕ませることができた。
行為を終えた僕は、えも言われぬ満足感で胸をいっぱいにしながら、フラフラと彼女の巣を後にしようとした。すると、彼女は食事を中断して、僕の方へと駆け寄ってくると、そのスラリと長くて綺麗な足で僕の体を包み込んで抱擁した。
なんと、彼女も僕のことを想ってくれていたのか。こんなに幸せなことはない。僕は振り返り、彼女の黒々と瑞々しい八つの眼を見つめ、抱きしめた。僕は朝日を望みながら、一生をかけて君のことを幸せにしていくことを誓った。
しかし、次の瞬間―――――
「あはん」
彼女は僕の首筋に噛みついた。僕の全身を弛緩させた彼女は、大きくて艶のある鋏角を震わせながら、僕を貪り始めた。彼女の眼は、もう獲物をたらえた時のそれだった。ああ、僕も彼女にとっては有象無象に過ぎなかったのか。そんな思考もする暇もなく、僕の身体はみるみるとなくなってゆく。
薄れゆく意識の中、最後に目にした君は、朝露に濡れていて、キラキラと輝くその姿は、それでも美しかった。




