第7話
「はぁ……」
「お疲れさまでした、榊さん」
「ええ、ありがとう」
黒塗りの高級車、その後部座席に乗り込み黒の長髪が美しい妙齢の女性──榊詠子は深くため息を吐いた。そんな痛く疲労感の伺える彼女の様子に、一緒にここまでのお供を務めていた一人の部下が労う。
探索者協会が出資し、提携をしている都内でも有数の大病院、そこに今日は迷宮から運び込んだ担当探索者の様子を見に来た訳だが、彼女がたかが探索者のお見舞いでこうも疲れを表に出すのは珍しかった。……いや、そもそもこうして一探索者の見舞いをするなんてのも異例なことだ。
何せ、探索者協会探索者支援課の榊詠子と言えば、課内は勿論のこと他部署でもその敏腕ぶりは有名であった。〈探索者協会〉と言う機関が存在する大本でもある迷宮と探索者たちに一番多く、そして深く関わる「探索者支援課」はその仕事内容は激務も激務であり、通常の事務作業のほかに探索者たちのカウンセリングやクレームなんかの対応までも請け負う。
探索者と言うのは往々にして常人とは違った思考回路、行動理念を持った生き物であり……端的に言えば変人狂人の集まりである。そんなイカレ集団の相手の片手間で様々な事務作業を熟さなければいけないとなれば、その大変さは理解していただけるだろう。
正直に言えば、そんな激務を熟す彼女たちはそれなりの高給取りな訳であるが、だからと言って金額とその仕事内容が釣り合っているかと聞かれれば否である。そんなブラック企業も興醒めする程の激務を難なくこなし、平然としているのが榊詠子であり、更に言えばそんな鉄人に疲労感を覚えさせる空木普は探索者の中でも相当な変人であった。
度重なる迷宮攻略の失敗、最近ではめっきり減ったが最初の頃は迷宮に潜るたびに病院に送還され傷が癒えればまた次の日にでも迷宮へと突っ込みまた攻略に失敗する。そもそも一年間も初心者迷宮を攻略できていないのもそうだが、空木普と言う少年は本当に探索者としての才能の殆どが皆無だった。
加えてあの支離滅裂な言動だ。他の職員では数日で発狂して彼の担当を辞退することだろう。ハッキリ言ってあの青年の相手を一年も務めるなんて正気の沙汰ではない。その自覚は彼女自身にもあった。
「はぁ……」
けれども、だからと言って詠子は空木普の事を嫌っているわけでもなかった。寧ろ、公人に有るまじきほど彼に入れ込んでいた。
それは偏に空木普と言う人間の性根の部分が異常なほどに善行であり、そしてどれほど文句は言えど苦境や逆境にめげることなく立ち向かう精神性に詠子はとても好感を持てたからであった。だからこそ、彼女も文句は言えども逐一彼の同行を確認し、何かあればすぐに対応する。それが例え、他の探索者の対応中であったとしても。それぐらいに榊詠子は空木普と言う探索者のファンであり、理解者でもあった。
「気になることが多すぎるわね……」
だからこそ今回の件はとても引っかかった。彼の口から語られたその一部始終……彼女も実際に件の探索配信をリアルタイムで視聴していたので把握はしていたが、やはりにわかには信じがたい。
「あれだけ検証されつくした初心者迷宮で数年ぶりに、探協側でも把握してない未確認の転移罠。しかもその転移先が謎の空間で、突然のエルダーゴーレムの出現……」
何よりも気になるのは彼が体験したと言う「依頼」だ。
その詳しい内容を詠子は知りたかった訳で、いち早く彼とコンタクトを取り、確かに彼の口からその内容を聞いたはずなのに、彼の説明の殆どがうまく聞き取れなかった。それは一緒に連れてきた部下も同様であり、そうしてその奇妙な体験は配信上で不適切な発言が出た時に掛かるフィルターのようでもあり、何度聞き返しても理解できなかった。
「証拠を隠滅するかのように配信アーカイブもサイト運営の方で強制削除されている……」
改めて彼の配信アーカイブを確認しようとしたが、唯一の手掛かりもいつの間にか消えていた。これはますますきな臭くなってきた。
本来、探索者本人が申請しない限り、配信アーカイブが消されることは無く。その内容がどんなに過激なモノになろうがフィルターを掛けてサイト上にアーカイブは残り続ける。決して運営側の意向でアーカイブが消されることはこの未だ正体不明のサイトが現れてからは一度もなかった。
「いったい、キミはどんな面倒ごとに巻き込まれていると言うの……?」
全く再生回数が回っていない過去の配信アーカイブ、その最上にあった最新のアーカイブだけが不自然に閲覧不可能になっている。そうしてこれまで決して増えることの無かった彼のチャンネルの登録者が異様な速度で増え始めている。
とある掲示板サイトから始まり、今では彼の今回の迷宮配信はちょっとした騒ぎとなっている。反応を示すその大多数が野次馬共であるが、その野次馬の中には本職も混じっている。
「スマホは探索で壊したって言っていたし、彼がこの状況を知るのはもう少し先になりそうね」
きっと倹約家な彼の事だから生活必需品として上位に位置するスマートフォンですら即座に買い直すことは無いだろう。
「寧ろ、無駄な出費が減ったとか言って喜びそうね」
その姿を詠子は頬を緩めながらも簡単に想像できてしまう。本当ならば、去り際にでもこのことをあの少年に伝えるつもりであったが、前述した衝撃の所為で忘れてしまっていた。それに──
「こういうのは人から聞くよりも自分の目で視た方が嬉しいものよね」
色々な不幸が重なり陽の目を浴びることの無かった一人の探索者が少しづつ世界に気づかれ始めている。それは空木普が探索者に縋る理由を知る詠子ならば喜ぶべきことであり、この機会を逃さないように応援するべきなのだが、
「はぁ、これが厄介古参厨の心境なのね」
自分だけが知っていた自分だけの探索者が、少しずつそうではなくなっていってしまうその感覚に寂しさと嫉妬心を覚える。
それでも詠子の思考は直ぐに彼の安否に切り替わる。これから空木普は本当の意味で探索者としての道を歩み始める。それは今まで以上に辛く、苦しく、危険な、死と隣り合わせの魔境の領域だ。
「願わくば、彼が迷宮から生きて帰ってこれますように────」
心地良い車内の振動に揺られつつ、陰ながら榊詠子はそう祈るのだった。