第45話「欅祭準備」
「……戻ってない、か」
昨日、音谷ママからあんな話しを聞いたものだから、もしかしたら! なんて思ったけど、入れ替わりはまだ継続中だった。
僕が、鏡に映る姿を見て、小さなため息をついたと同時に、RUINが鳴った。
――おはよう。戻ってなかったな――
送り主は、もちろん音谷。
彼女も、僕と同じことを思っていたみたいだ。
――おはよう。だね――
――それじゃ、学校で――
――うん。また後で――
僕は、音谷のRUINに返信すると、いつものようにリビングへ向かう。
しかし、キッチンに立つ音谷ママへの挨拶は、これまでとは違う。
「お、おはようございます。音谷ママさん」
「ふふ。おはよう。角丸くん。まだ戻ってないみたいねぇ。今日も萌ちゃんのこと、よろしくね。さぁ朝食どうぞ」
「……」
「どうしたの? 食べないのぉ?」
「……えっと、その、いいんですか?」
音谷ママは、にっこり微笑むと言う。
「当たり前じゃない。中身は角丸くんでも、体は萌ちゃんだし。それにねぇ、角丸くんはもう、家族みたいなものよぉ」
「家族、ですか」
「うん」
「……ありがとうございます。いただきます!」
音谷ママは、本当に優しい人だ。
僕は、少し瞳を潤ませながら、ロールパンをひとかじりした。
今日の朝食は、スクランブルエッグとシーザーサラダ、それとロールパンが2個。飲み物は牛乳。
これと言って特別なメニューというわけではないが、音谷ママお手製の朝食。
けれども昨日、あんなカミングアウトがあったせいか、見慣れたはずの食事が、今日は、まるでホテルの食事かの様に見える。
そんな、どこかよそよそしい感覚に苛まれながらも、なんとか食事を終えた僕は、音谷ママに向かって、手を合わせ言う。
「ご、ごちそうさまでした。えっと……学校、行って来ます」
「はぁい。行ってらっしゃい。気をつけてねぇ」
いつもと変わらない笑顔と挨拶で送り出してくれた音谷ママに、どことなく他人行儀な態度をとってしまった罪悪感を抱きながら、僕は音谷邸を後にした。
学校に到着し、教室に入ると、そこには既に音谷の姿があった。
「おはよう」
「お、おはよう。大丈夫、だったか?」
「うん。大丈夫だった」
「そうか……って、なんか、ちょっと嬉しそうな顔、してないか? 本当は、何かあったんじゃないのか?」
眉間にシワを寄せ、険しい顔で僕を見下ろす音谷。
「本当に何もなかったって。でも……」
「でも?」
「音谷ママが、僕のこと、家族みたいだって、言ってくれた」
「……そうか。ママがそんなことを。あ、美馬さんたちが来た。席に戻れ」
「うん」
席に着くとすぐに、僕の周りには、美馬さんと大鷲さんが集まり、音谷のところには、前島が寄る。
ここ最近、定番となった朝の風景だ。
なんでもない話で盛り上がっていると、教室のドアが、勢いよく開いた。
「お前らー! 席に着けー!」
渋江先生の登場だ。
ぷらぷらと出席簿を揺らしながら、教室に入ってきた先生は、教卓に出席簿をバンっと勢いよく叩きつけると、両手をつき、前のめりで僕たちを見回し言う。
「おはよう! お前ら! わかってると思うが、今日から1週間は、欅祭の準備期間だ! うちのクラスは……あれだ。えー、だから、あれは、あれの、あれで……」
「メイドカフェですか?」
「そー! それ! メイドカフェ! 男子もメイドの格好をするという話は、既に校内で話題になっているぞ! お前ら、気合い入れて取り組め! なんなら、欅祭クラス部門大賞取ってこいや!」
渋江先生の掛け声に、生徒たちがおー! と一斉に声を上げた。
「角丸くんと音谷さんは、部活の方だよね?」
「うん。クラスの方手伝えなくて、ごめんね」
「ぜんぜんいいよー。文化部は部活優先だもん。私たちもこっちが落ち着いたらすぐに行くから。ね、あやちゃん」
「うん!」
大鷲さんは、美馬さんの言葉に右手の親指をグッと立て答えた。
さてと、それじゃ僕たちも、理科室に移動して、準備に取り掛かるとしよう。
「えっと、何から始める?」
「お菓子は、前日と当日の朝に用意する。それまでは、展示物や会場設営の準備を進めたい」
「了解」
僕たちは、サイエンススイーツのレシピや化学反応の解説などを書き出したポスターを壁に貼ったり、受付やお菓子を陳列する机を配置したりと、お菓子以外の作業を進めた。
欅祭前日。
今日も、僕と音谷は、理科室にいる。
準備期間に突入して以来、朝と帰りのホームルーム以外は、ここに張り付き、欅祭の準備に明け暮れていた。
「展示物と会場設営はほとんど終わったから、いよいよお菓子を準備しなくちゃだよね? この状況だと買い出しからかな?」
僕は、材料1つ無い見当たらない理科室をぐるりと見回し言った。
すると、音谷は、ニッと小さく笑う。
「大丈夫。材料は事前に手配してある。もうすぐ届くはず」
音谷がそう言い切ったと同時に、理科室のドアがゆっくりと開き、2人の女性が入ってきた。
「お前らー! ちゃんとやってるか? 例のブツ、持って来てやったぞ」
「先生、材料は私たちが持ってたのですから、まだ始めてはないと思います」
「おぉ! そうだな。桜花の言う通りだ。こりゃ先生、1本取られたな。あははは」
うん。渋江先生は、今日も通常運転でなによりだ。
「渋江先生、桜花部長、お疲れ様です」
「うん。お疲れ様」
「お疲れぃ!」
軽く会釈した桜花部長の隣りで、渋江先生が音谷とハイタッチを交わす。
「それにしても今回は、珍しく副部長じゃないやつが頼みに来たんで、ちょっと驚いたぞ。なにせ、先生、角丸が化学部の部員だったこと、知らなかったからな」
「渋江先生、角丸殿の入部届けは、私が先生の机の上に置いておいたはずですが?」
ため息混じりにそう言った桜花部長の顔は、半分呆れていた。
「え? そうなのか?」
「まぁ、先生の机は、ジャングルですからね」
「桜花、お前……上手いこと言うな! 自分で言うのもなんだが、あそこは、魔境だ」
桜花部長は、渋江先生のことを決して褒めたわけではないというのに、先生は上機嫌だ。
まぁ、先生ならポジティブに受け止めて当然なんだけどね。そこが、先生の良いところだし。
「角丸、これは、ここでいいか?」
「はい。ありがとうございます」
渋江先生と桜花部長は、それぞれ両手に抱えてきた何かをテーブルの上に置いた。
テーブルに置かれたものも気になるが、僕は、それよりも、渋江先生の事が気になって仕方がなかった。
「ねぇ、なんで渋江先生が?」
「なんでって、渋江先生にサイエンススイーツの材料を頼んでいたからだよ」
首を傾げる僕にジト目を向ける音谷。
「え? 何で? 渋江先生にそんなこと頼んだの?」
「なんで、なんでって。聞きたがりなやつだな。そんなの渋江先生が化学部の顧問だからに決まってるだろ。他に頼める当てなんてない」
「へ? ちょっと待って。渋江先生って、化学部の顧問なの?」
「……ん? あれ? 言ってなかったか?」
「初耳だよ」
そういえば、化学部の顧問が誰かなんて、これまでいっさい気にしてなかったけど、まさか、渋江先生が顧問だったなんて。
「私は、ちょっとクラスの方を見てくる。また後で手伝いに来るから。よろしく頼んだぞ!」
渋江先生はそう言い残すと、駆け足で理科室を出て行った。
「萌さまぁ! 先生帰って来ないうちに、お菓子作っちゃいましょうよ!」
「ぶわはぁ! ちょ、ちょっと桜花部長!」
渋江先生の姿が見えなくなったことを見計らい、僕に飛びついて来た桜花部長だったが、なぜかスッと離れ、冷めた視線を向ける。
「萌さま、おーちゃん」
しまった! そうだった。 僕たちだけの時は、桜花部長のこと『おーちゃん』って呼ぶ決まりだった!
「お、おーちゃん。ごめんなさい」
「はい。おーちゃん頂きましたっ! さぁ萌さま、お菓子、作るっスよ!」
僕は、音谷にアイコンタクトを送ると、音谷もうんうんと深く頷いた。
「えっと、作るのは琥珀糖とべっこう飴、それと色が変わるゼリーだったよね?」
「あと、試験管アイス」
「あ、それだ。で、何から作る?」
「ゼリーとアイスは当日。それ以外はどれから作ってもいい」
「はい、はーい。それなら、べっこう飴から作ってほしいッス!」
僕が迷っている間に、なぜか桜花部長が、右手をまっすぐ挙げ言った。
「角丸くんは、それでいい?」
僕が問うと音谷は、こくりと頷き、さっそくべっこう飴作りに取り掛かった。
「あの、部長」
「おーちゃん!」
「あ、おーちゃん」
「はい、萌さま。なんスか?」
おーちゃん呼び、ぜんぜん慣れなくて、正直ちょっと疲れる。
「おーちゃんは、なぜ、べっこう飴からが良かったんですか?」
「食べたかったからッス」
「それだけ、ですか?」
「それだけッス。飴なら、他のお菓子を作りながらでも食べられるッスからね!」
あ、そういう事ね。
この質問、美馬さんに聞いてもきっと同じ答えが返ってくるだろうな。
桜花部長とそんな会話をしていた矢先、甘い匂いが鼻をくすぐった。
「はぁ、いい匂いッスね!」
片手鍋を覗く桜花部長の瞳には、プツプツと気泡が立ち、煮詰まってきた砂糖と水が映っていた。
「……美味そうッス」
そんな桜花部長の口から、ジュルリとよだれが垂れる。
「はぁぁぁ……」
鼻から深く息を吸い込んだ桜花部長が、パタリと床に倒れ込む。
普通なら、大丈夫ですか⁉︎ と駆け寄るところだろうけど、桜花部長にいたっては心配ない。
なにせ、ただ死にかけているだけだからね。
ほら、あの幸せそうな顔、まったく問題ない。
「ほら、出来た。さてと、次は琥珀糖だな」
音谷は、出来上がったべっこう飴を1本、僕に手渡すと、自分も1本くわえ、琥珀糖作りに取り掛かった。




