ほんの少しの世界を映し出す。
いつもと同じような夏の日だった。
いつもの公園で、彼女は今日もいつものように一眼レフのカメラを掲げる。
陽炎に写る彼女を僕はただ眺めていた。
パシャリと、シャッター音が微かに聞こえる。
「暑い......何でいつも同じところばかり撮ってるだよ。そろそろ帰らない?」
「待って」
またパシャリ。いつもこうだ。彼女はことある事にカメラを起動し、目の前の風景を撮り続けている。
まあいいけど。分かってて僕も彼女といるのだし。
何よりカメラを掲げる彼女の瞳は何時だって凛と澄んでいて、僕はただ見蕩れていた。あんな風に何かに熱中できる事なんて僕にはないから。
「写真って何が楽しい?」
ただの興味本位で僕はそう質問をした。
「楽しい......? んーどうだろ」
「楽しくないのにやってるのかよ」
「たいてい、そんなもんだと思うよ。自分でも分からないや」
「じゃあ何で」
彼女が写真を撮り始めたのは割と最近だけど一度も理由は聞いていない。何だか犯してはいけない、聞いたらいけない禁忌の領域な気がしたから。それくらいに写真に熱中する彼女は僕には余りにも眩しく思えるのだ。
「この唯一を残したいから、かな」
「?」
「この一瞬と全く同じ景色を私達は二度と見ることは出来ないでしょ? 一見同じでもきっとそれはたった一つの唯一。だから残すの」
彼女の言っていることはよく分からなかった。彼女も僕と同じ中学生なのに達観し過ぎている、不思議な人だとしか思えない。
「そう」
ぽつりとただ僕は相槌だけを打つ。
シャッター音が静かな緑の中でまた響いた。
視野の狭い僕にとってはこの時間こそが僕の世界だ。僕自身には何も無くたって、それさえあればそれで良かった。
だから、僕らの間に確かに存在する徹底的な差からは今は目を逸らす。
僕にはまだ君は眩しすぎるから。
数年後、僕は高校生になるまでただ無為に時間を過ごし、彼女は――この日から間もなくの中二の夏に交通事故でその命を散らした。
その傍らに年季の入った一眼レフのカメラを遺して。
===
それから数年が経つ。
僕の毎日は何をしても空虚に満ちている。
元々、自分が何がしたいのかも分からなくて明確な意志を持たずに生きてきた僕だが、幼なじみである春野千咲を事故で亡くしたことで何も分からなくなった。
今思えば、彼女は唯一の友達だったのかも知れない。それを失って更に僕は空虚の奥深くに堕ちた。
昔は周りとの関わりがゼロという訳ではなかったけど僕はどうにも意思だったり自分というものが希薄だ。
そのせいで何となくの人間関係しか気づけなかったので引きこもり期間でおよそ全部の交友関係が消失した。本当に虚しい。
結局、その穴が失意なのか悲しみなのかも分からぬまま、僕は彼女が死んでから学校に行かなくなり、今もこうして冷房をガンガンにした部屋で怠惰に時間を浪費している。
最悪最低、社会のお荷物。そんな言葉が浮かぶ。それは確かにそう。学生にして理由もなく引きこもり、文字通り最底辺に落ちた僕は間違いなく最悪最低だ。あの青春のエンドロールはとうに過ぎ、僕だけは席を立たずにいる。
過去の僕が今のこの有様を見たらきっと失望で笑うしかないだろうな。
部屋の片隅に置かれた、彼女が遺したカメラを見遣る。彼女の死とともに、とっくに壊れたカメラ。SDカードからデータだけは取り出そうと思ったけどそれも破損していた。
何故僕が持っているのかと言うと、彼女の母親から譲り受けたからだ。僕も詳しく追求はしなかった。その頃も、今も全部がどうでも良い。
彼女を真似て所々ひしゃげたカメラを掲げてみる。シャッターを押すとパシャリと音が鳴った気がして――ふと、何となく、あそこに行きたくなった。
何だかインスタント食品の買い出し以外で久々に外に出る気がする。
僕は夜が好きだ。こんな時でも夜空は泣きたくなるくらいに綺麗で、夜の匂いは僕を世界を純粋に美しいと思えた過去へ導いてくれる気がする。
秋の夜の熱すぎず寒すぎない丁度いい涼しさの夜風を浴びながら近くの公園へと向かう。
小さな高地にその公園はあり、緑に周囲を覆われている。規模は小さいし、こんな時間には人も来ないけど思い出の場所だ。
公園にある唯一のベンチに腰かけ、またもや彼女を真似て誰もいない夜の世界をレンズに写す仕草をしてみる。
当然、何も起こらない。そう思われた。
――刹那、視界の全てが光を帯びた。文字通り、空が青い光を帯びて光ったのだ。
直後に頭上に目をやると太陽が浮かんでいる。昼だ。
さっきまで夜だったはずだから照度の差で目が痛くなる。
一体どういうことだ? 僕はさっきまで夜の公園にいたはずだ。なのに今は真昼間である。
更に一拍遅れて、カメラを持っていないことに気づいた瞬間だ。
「ねぇ、一緒に写真撮らない?」
見間違える筈がない。あの時と同じ声と容姿。
春野千咲が僕に近づいてきた。
「ち、さき?」
僕は泣いていた。
きっとこれは夢だ。意地の悪い神様が見せている幻覚だろう。
だけど、だとしても、そんなことはどうでも良かった。もう一度君に会いたかった。声を聞きたかった。カメラを掲げる君をずっと見ていたかった。
そんな胸に秘めていた感情が涙に変換される。絶対に会えないと思っていた人に夢で会える。それだけでこんなにも嬉しいだなんて知らなかった。
「蒼? どうして泣いてるの?」
「何でもない。何だか千咲がこの世界から消えた気がして」
「え? あぁ、そういう事か」
彼女は何かを察したような表情をして、一呼吸する。
「ねぇ、未来から来たんだよね? 君は私が居なくなった、死んだ世界でどうしてる? 何を見てる?」
夢だと言うには僕に都合が悪すぎるように思える。彼女はどうしてか、自らの辿る死の運命を知っているようだった。
「ごめん」
僕はそれだけしか言えなかった。
「どうして謝るの? 私が死んでから何かあった?」
どうしてだろう、涙はぽろぽろと止めどなく溢れ続けて、止めたくても止まらない。執着も無力もかき消すくらいの夢だと思った。
「僕には、何も無かった。だから、今こんなにも嬉しいんだと思う」
「そっか。よく分からないけど頑張ったんだね」
彼女はそれだけしか言わずに僕の隣に腰掛ける。
人の少ない公園で僕は子供みたいに泣いた。泣き虫は卒業したはずだけど根っこは変わらず子供のままだ。
涙が止まると彼女は撮った写真を精査し始める。その横顔はやはり綺麗だ。
僕は未だ何も言えない。言ってはいけない気がする。
「千咲はさ、前、一瞬とか唯一とか言ってたよな」
何故か昔のような距離感で話すことが出来た。なぜかは分からないけど僕の時間は千咲が死んでからずっと止まっていたからかも知れない。
「そうだね。君には知って欲しかったからかも」
「今ならわかる気がする」
今だって唯一の一瞬だ。どれだけ悔やんでも、後悔しても本来は戻ってこないもの。
だからこそ、彼女は一度きりの一瞬を写真という形で残そうとしたのだろう。
「ありがと。でも今はそれが全てじゃないって思うよ」
「と言うと?」
「君に私の心の中を当てられたくないなぁ......恥ずかしいし。だから内緒」
「失礼じゃない?」
「むしろ礼儀だけどな。心配しなくてもいいよ。最期に全部言うつもりだし」
「最期なんて言うなよ。こんな時に」
「じゃあ変えて見せてよ」
皮肉っぽく彼女は言った。
「私は全部分かってる。だから全部墓場に持っていくつもり。君はどうなの? 私が死んで何か変わった?」
「分からない」
言葉を濁す。そう、僕は変わった。それも最悪の方向に。
でも言いたくない。夢だとしても彼女に失望されたくないから。
「ほら、言いたくないんじゃん。私も一緒」
「ぐうの音も出ないな」
隠し事ばかりだ。本心を隠して、繕うだけの上辺だけの関係。僕らは結局それだけだったのかもしれない。
「でも私にとってはそれも含めて大事なんだと思う」
「千咲にしては月並みね」
「別に特殊な人間になりたいとは思ってないし」
「僕の勝手なイメージだったか」
「そういうものだと思うよ私も蒼はこういう人間だってイメージを前提に置いて今話してる訳だし」
懐かしい感覚が戻ってくる。千咲は聡かった。僕は彼女の語ることをただ聞いて相槌を打つだけ。それでもその時間が何より心地よかった。我ながら薄っぺらな人間だと思うけど。
僕は彼女に何も出来なかった。彼女が居眠り運転のトラックにはね飛ばされるのをただ無力に傍観していただけだ。どうしようもない。
「蒼はさ、なんで戻ってきたの?」
彼女が口を開く。
「分からない。千咲が残したカメラ持ってこの公園に行ったら突然飛ばされた」
「んー何か理由があると思うけどな。まぁいっか」
「そうそう。僕は千咲ともう一度会えただけで十分だ」
「いや、さっきの『まぁいっか』はまた別の意味だよ」
「つまり?」
「君さ、私の死を見届けてよ」
体がフリーズする。これまた意味がわからないと思った。どうにかしてでも助けてでもなく、「見届けて」とそれだけ。
そうだこの世界であれば助ける方法ももしかするとあるのかの知れない。
そんな僕の考えを他所に彼女は続ける。
「私が死ぬことを知ってる君に私が死ぬ所を見ていて欲しい。何も知らない君に悲しんで欲しくないからさ」
残念ながら、その要望には答えられそうにない。
「いや無理だ」
「どうして。私は君に......」
「どうせなら、僕に助けさせてくれ」
「? 助ける?」
「今日は何年の何日?」
「え? あぁ二千二十年の八月二十日だけど」
告げられたその日付、それは彼女の命日だった。
いける、助けられる。そんな希望に似た確信が僕の中でどんどん募っていく。
「えぇ......まぁ、よく分からないけど、頑張れー」
彼女は無気力そうにぽつりとそう言った。
「でも、具体的にはどうするの? 君に何か出来る?」
彼女の言い方はらしくなく刺々しい。確かに未来はそう簡単に変わるものでは無いのかもしれない。だとしても僕はほんの少しの可能性に懸けたいと思った。
公園にある時計を見遣ると時刻は三時。事故が起きたのは三時半。もう余裕は無い。
彼女の生死が僕に掛かっていると思うとプレッシャーで胸がじんじんと痛くなってきた。
構っていられるものか。
とは言ってもやる事は単純だ。
三時半よりも前に安全地帯であろう彼女の家か僕の家に辿り着く。
本当に申し訳ない事に、これくらいしか思いつかなかった。
事故が起きたのは公園から彼女の家に行こうと移動しようとした最中のことである。
これを踏まえると、下手に道を出歩くのもリスクになりかねないし、かと言って公園にずっといるのも最善だとは思えない。
僕の家に行こうにもそもそも家が隣同士なので同じこと。
ならいっその事三時半になるまでは何も起きないと仮定するしかない。まぁ僕の頭脳ではだけど。
結局、夢かどうかもどういう理屈で時間が戻ってるかも分からない以上僅かな可能性に賭けるしか出来ない。だけど可能性がゼロって訳でも無いだろう。
「千咲、早く家に戻ろう」
「え、私まだここいたいんだけど」
「早くしろ」
「え? ほんとにどしたの?」
「助けるって言っただろ」
「はぁ......助ける、ねぇ」
彼女は渋々と言った様子で立ち上がる。
「行こう」
「まぁ、わかった」
===
僕らの家は公園から歩いて五分圏内の距離にあるので行くのにさほど時間はかからない。
汗をかきながらせかせかと見慣れているけど懐かしい町を歩く。
もうすぐ家に着くし、彼女が事故に遭った地点は既に過ぎた。まだ気は抜けないが、多分大丈夫そうだと思いつつも冷や冷やしながら横断歩道を渡る。
その刹那だった。明らかに信号無視をしたトラックがこちらに迫ってきた。
咄嗟に彼女の手を引いて走り、その勢いで歩道に彼女を突き飛ばす。これはこれで危ないだろうけどまた目の前で死なれるよりマシだ。
トラックが迫ってくる。なのに何故だか足に力が入らない。重い。
そうだ、もういいのかもしれない。僕は彼女を救ったのだ。
悔いは無い。別に死にたい訳じゃなかったけど本望だ。
元々、あの事故からは何も無いロスタイムのような人生を送ってきた訳だし。仮に夢だとしてもただ目が覚めるだけ。だから、もういい。
「蒼!」
ふと、手が握られたと思えば僕は宙に浮いていた。全体重をかけて引っ張られ僕は歩道に投げ飛ばされる形となった。
受け身を撮る暇もなく、腰を派手に打ち付け、鈍い痛みが走る。
「馬鹿!」
見ると、千咲はかなり怒っているようだった。
「どうしてさっき逃げなかったの? 見届けるって言ったのに」
「分からない」
またお決まりの逃げをした。
そうだ。僕はさっき自分勝手に死のうとしたのだ。自分の人生なんてどうでもいいと、勝手に妄想して。
「ごめん。元々、ただ僕は君を助けたかったんだと思う」
「自分が良ければそれでいい?」
今僕は確かに僕は目の前にいる彼女を傷つけたのだ。忘れるなよ。今目の前に誰がいるのか。
僕を大切に思ってくれる人がそこにいるだろうが。
「良くない、けど」
「なら!」
「分からないんだよ。僕には何も。何がしたいのかも、何ができるのかも」
「そう」
彼女は深呼吸し、再びこちらに視線を向ける。
「もういいや。私の前で死なないって約束して」
「あ、ああ」
「それで、全部話して。私も覚悟決める」
失いたくはないと、覚悟の籠った優しい眼を向けられる。
もう隠しては居られないようだった。
===
彼女の部屋に入ると、そこには何冊ものアルバムや手入れの為の諸々が置かれている。他にはベタに漫画やゲームだが。
かつて見慣れていたはずの部屋。今は懐かしさに胸が暖かくなるような心地がする。ここに来てからいつだって僕は過去と共鳴している気がする。
忘れかけた思い出を思い出すと共にその時の匂いや感情がもう一度溢れ出してくるのだ。
そんな事を考えていたが、彼女の声で我に返る。
「さてと、色々食い違ってそうだけど......私から話そうか?」
「いや、元々僕が何も言ってなかったんだし僕からでいいよ」
「冷静に考えれば私も悪いからそこはお互い様にしない?」
「そう、だな」
確かにこの状況で過度に自分を責めるぎるのも良くないだろう。
彼女は昔から、そういうことに深く傷つく人だった。
自分よりも他人が侮辱されることが許せない。誰よりも優しいが故に、その怒りでで自分が傷つくことすら厭わない。
僕はそんなことすら愚かにも忘れていた。
「申し訳ないとかそう言うんじゃなくてほんとにお互い様。これからは隠し事はしない。それでいい?」
「ああ」
もう隠す必要はないと思った。今の僕に色々問題がある事はさっきの件で分かったろうし、不安にさせたくもない。
落ち着いてから僕は洗いざらい話した。
これまでの事も、僕が抜け殻のように生きて来たことも、戻った時千咲を事故から救えると思ったことも、さっき助けられて安心していることも。全部話した。
「そっか」
「驚かないのか?」
「まあ、明らかに変だったし。そういう事があっても不思議じゃないなって。そう言うってことは、未来の蒼は知らないのか」
「何を?」
「私はもうすぐこの世界から居なくなるの」
「え?」
「昔からの病気でね。もう長くないって」
頭の中が真っ白になる。彼女が、病気? ってどういうことだ?
「でも、本当にありがとう。助けてくれて」
「......」
余りにも重すぎる事実が鉛のようにのしかかる。銃弾が胸をぶち抜いたようなそんな衝撃と虚無。
何より僕はその事を少しだって知らなかったのだ。
「辛そうな顔しないで。さっきまで蒼が居た世界では私は世の中に何も残せなかったんでしょ?」
残せなかった、僕がこういうことを言うのは烏滸がましいが、事実として彼女の写真は誰にも知られずにカメラとともに消えていったのだ。
「多分......」
「なら、死ぬにしてもこの世界での私にはまだ猶予が生まれたんだから。この人生で何も残せない、何も変えられない、そんなのは嫌だから。ありがとう」
「どうして......死ぬ事がわかってるのにそんなに強く在れるんだよ」
まだやりたいこともあるはずなのに。悔しいだろうに。
「そりゃあ、やりたい事は沢山あるよ。でも私は小さい頃からの持病で私は時間が少ない前提で生きてきた。まさか中学生になれるとは思わなかったなぁ......」
胸が痛い。隠されたこともそうだけど彼女はそういう世界の中で生きてきたのだという事実を突きつけられる。僕は何も知らないで無神経な事を口走っていたのかもしれない。
誤魔化すように口だけが動いてしまう。
「どうして、僕に隠してたんだよ」
「ごめんね。私は性格悪いから、何も知らない君に泣いて欲しかった。後悔して欲しかった。我ながら最低だね」
「お互い様って千咲が言ったろ? なら僕も同じだ」
「ふふ、そうだったね」
重苦しい空気が少しだけ軽くなる。僕らは多分こっちの方がいい。
「僕に出来ることは何かない?」
少しでも手伝いたいと思った。何も出来なかった僕はこれから彼女の為にもう一度生き直すのだと、そう決意する。
「じゃあお願いするね」
深い息が、緊張がこちらにも伝う。
「君は――私の遺す全てを見届けて」
さっきと同じような内容だ。だけどねそこに込められた意味はまた違うのだろう。
「結局僕は見届けるだけか」
「そのだけが重要だよ。残り時間が少ないなら、せめてこの人生を懸けて遺そうと思ったの。私は誰かの胸を確かに打つ写真を、見た人が、こんなに綺麗なものがこの世界にあったんだって、ふと思い出すような写真を、遺したい」
「そうか。僕とは大違いだな。君は」
「そんな事ないよ。君もいつか何か大切なものを見つけるんじゃない?」
今の僕にはそんな事を考える余裕はなかった。
ただ、この眼に君を焼き付けたい。それだけを強く思う。
「ねぇ、私じゃ君の想い出にはなれない?」
言うまでもない。
「なれるし。君は一生忘れられない、僕の全部だ」
「そっか。じゃあ、行こうか。今から撮る一枚は私の愛がこもってるから特別製ね」
そう軽口を飛ばして彼女は足早に部屋から飛び出す。
「待てって」
待ち受けていた事実は決して軽い物では無かったけど、見届けようと思った。彼女の人生も、彼女が遺すものも。
それがこれからの僕が生きる意味だ。
===
彼女に連れられてやってきたのは近所にある湖だった。
僕は昔からこの場所が好きだった。今でもここに居ると心が凪ぐような気がするのだ。まるで遠くまで広がる水と同化するように。
「千咲、僕が昔からここを好きなの知ってるよな」
「うん。だからここにしたんだよ。じゃないと意味が生まれないでしょ?」
やはり彼女には敵わないなと思う。
湖のほとりでカルガモが泳いでいる、そんな当たり前の風景。
そこに彼女はカメラを向ける。
適切な光度、構図、陽光の入れ方のバランス。それらを考慮しながら一枚、また一枚と撮り続ける。
ひとしきり撮り終えた彼女はその写真を僕に見せてくる。
カルガモが湖を中睦まじげに泳いでいるだけのシンプルな写真だ。なのに、それだけじゃない気がする。
写真の中での彼らは水紋に陽光と木々が反射して形作られた美しい幻想の中を泳いでいる。
そこに映し出されたのものが、確かに現実であったとしてもそこにあるのは紛れもなく彼女だけの世界に思えた。
これは彼女が残された時間で培った技術なのだろう。
「これはあとで君にあげるね」
「ありがとうな」
「ねぇ、写真を撮るってことは現実のほんの少しの綺麗な部分を映し出す事なんだよ」
「大部分は全然綺麗じゃないけどな」
「それでも、だよ。私もこの世界を全然手放しで綺麗だなんて言えないけど、二度とない唯一の一瞬を切り取ったこれには誰かにとっての希望や救いになって欲しいと思う」
そう言いながら彼女は僕におもむろに手を差し出した。
「君にも、私やこの写真をふと思い出して欲しいな」
そう言って彼女は微笑んだ。夕方近くの淡い光が彼女の背後を照らし出すものだから余計に目を奪われてしまう。心から、綺麗だと思った。
「あぁ思い出すよ、必ず。死ぬまで忘れない」
「でも君は幸せになってね。この世界の景色だけでも綺麗だって思えるくらいはにさ。それで自分の人生を生きろ!」
僕は、幸せになれるだろうか。今は無理だと思うけど、きっと人は変わるのだろう。
この感情すらもいつかは忘れてしまう。今の僕はそれでいいとも思わない。分からないことはやはり怖い。
「突然命令口調かよ。まぁでも、僕はこの苦しさも抱えたまま幸せになるよ」
それが今の僕が導き出せる理想論で結論だった。
「何それ。でも、君らしいや。蒼って奴は滅茶苦茶めんどくさいもんね」
「千咲にだけは言われたくないな」
「えー」
僕は未来の世界で彼女のように在れるだろうか。
何かを遺そうと未来の僕は思うのか、それとも何も残せぬまま死ぬか。分からない。
だけど、少しでも前を向いて生きていこうと思った。今すぐには当然無理だし、今は彼女の隣が全てだ。だけど、彼女が居なくなった後も僕の人生は続いていくから。
「僕はちょっと用事があるから先に帰っていいよ」
「あ、うん。じゃあまたね。明日写真渡すから」
そうは言ったものの、別に用事は無い。でも何だか濃密な数時間だったと思う。
彼女に遺された時間は長くないし当然今だって悲しくて、悔しくて無力で、どうしようもない。だけど、今日が無駄だとは絶対に思わない。
たとえこの世界が夢だとしてもだ。
彼女はこれからも写真を限界まで撮るのだろう。そこに僕が居ないとしてもそれでいい。
その写真に心を動かされる一人の観客になればいい。僕はそうやって生きて、見届けるのだ。
そうこうしているうちに公園に着く。
ここに来て、時間が戻って、まぁ人生どうなるか分からないものである。
僕は精一杯にやり直そうと思う。彼女が隣にいなくとも。
ふと、ベンチに壊れたカメラがあることに気づく。
「!?」
過去に来た時と同じような光に包まれる。つまりは――この夢の終わりだろう。
生き直すって決めたのにな。
いや、これから頑張ればいいだけだ。頑張るなんて言葉を僕が積極的に使うなんて昔は考えもしなかった。
どう考えてもこの夢は夢にしては僕らに都合が悪いけど、この世界で少しでも強く在ろうとする彼女の生き方は美しいものだった。
僕の大切なものは何だろう。いつか、彼女のようにそれを見つけられるのだろうか。
分からない。けど、僕も美しく在りたいと思った。
この世界の延長線上の未来の彼女は、誰かの心に残るようなものを残せるだろうか。そうだといいな。
===
自室のベッドで目が覚める。まぁやはり夢か。
そう思ったけど何か諦めきれなくてカメラが置いてある場所に目をやる。
――壊れていない。
つまり夢じゃないってことだ。
スマホを直ちに起動し彼女の名前を検索してみる。遺せたのだろうか? それとも今も生きてる?
スマホの小さい液晶に映ったのは彼女の顔写真と何枚もの美しい写真だった。
検索候補に表示されたサイトには若くして亡くなった天才写真家とある。
僕は深夜にもなって自室でただ泣いた。悲しいだけじゃない。彼女は遺していたのだ。沢山のこの世界に何枚もの世界の美しさを、唯一を、その生き様を。
彼女の人生は確かに短いものだったけど、何人もの記憶にその名前を刻んだ。その事実に胸が熱くなる。嬉しいやら悲しいやら色々な感情が入り乱れて整理しきれないくらいだ。
僕はそんな風に刹那的に美しく生きられやしないけど、過去の世界でした決意も約束も確かに僕のものだ。
特集が組まれたサイトを見ていると見覚えのある写真が目に入る。
タイトルは『この「唯一」を君に捧ぐ』
カルガモが泳いでいるだけのシンプルな写真。彼女が僕に渡そうとしていた写真だった。
この君が誰なのかは大体理解出来る。彼女の最期に、ちゃんと僕は居たってことなのだろうか。
分からないけど、それもじきに思い出す気がする。
僕の記憶が過去に戻ったことを忘れたとしても、上書きされたとしても、この世界では彼女の生き様は僕にも刻まれているはずだ。根拠もなくそう思う。
その日は寝られなかった。忘れたくないと思ったから。
だけど昼を回った辺りだろうか。僕の意識は段々と朦朧としてくる。
「まずい」
僕が見てきた大切な過去の記憶が消える、消えてしまう......
視界が暗転した。
===
僕はいつだって大切な何かを取りこぼしてきた気がする。
大学受験や高校受験ももれなく失敗したし、別にリアルが充実してる訳でもない。こんな事を言ってると自分で悲しくなってくる。
何より僕は高校一年生の時に春野千咲というずっと仲が良かった幼馴染の女の子を亡くしたのだった。
どうしようも無い感情で溢れて、失意と、果てしない虚無と否応なしに向き合わされた。
だけど一言で言うならば悔しい。乏しい語彙だけどそれに尽きる。
彼女が病気であることは容態が重篤になるまで知らされなかった。
それまでの僕は彼女に嫉妬していた。写真の才能があって何度も賞をとって。特筆するような才能が僕には何もなくて。
だから目を逸らした。見えないフリをした。彼女のことが嫌いになった訳では無いけど自分の小ささを直視させられる気がしたから。
彼女が亡くなってからようやくその写真に向き合おうと思った。いざ見てみると物凄く綺麗だった。
この世界はこんなにも綺麗なもので満ちている事を僕はこれまでの人生で知らなかったのかと恥ずかしい気持ちにすらなった。やはり悔しかった。
中でも目を引いたのは『この「唯一」を君に捧ぐ』という題の写真だった。
カルガモが泳いでいるだけの他と比べてシンプルな写真。
問題は撮影場所だ。
僕は昔からこの湖が大好きだった。何でかは分からないけど子供はそういうものだ。
だけど、今でもあそこに行くと嫌な事を全部忘れられる気がする。
彼女はそれを知ってかその湖でよく写真を撮っていた。それの意味する所を僕に関連付けるのは自意識過剰だろうけど全部タイトルが示して居るのだと察することが出来た。
やはり、また、悔しかった。
と、何だか暗い話に感じるかもしれないけど別にそういう事を言いたいわけじゃないな。
ただ、このことをきっかけに色々なものに目を向けたことで、最近ようやく、この世界も悪くないんじゃないかって思えるようになった。
それでちゃんと自分の未来と向き合おうと思えた。それだけだ。
彼女は死の間際に大切な物を沢山残せたとそう言っていたらしい。
明日も明後日もきっと人生は続く。死にたくなった時に僕はふとあの写真を思い出すのだと思う。遺したのだ、彼女は。
あの公園に久々に来たものだから色々思い出してしまった。
ふと、木立の当たりからシャッター音が聞こえる。けど辺りを見渡しても何も無い。
彼女の笑い声が聞こえた気がした。