夜のラーメン
夜の魅惑にはご用心。
三鷹駅の改札を出れば、冷たい夜風が吹き抜けた。
「うおっ」
突風に身体が押される。
枯れ葉が宙を舞い、交通ICカードをコートのポケットに入れ損ねた。達川流と記名されたカードが落ちる。
「疲れてんなあー」
新年のご挨拶、という営業回り。アンド、新年会と称した飲み会接待、皆勤賞。
「そりゃ、疲れるわ」
カードを拾ってポケットに仕舞った。
びょう、と風が吹く。
「さむっ」
何か温かいものを食べてから帰ろう。そうしよう。
夜の十一時四十四分。最終バスは行ってしまったので、アパートまで歩くしかない。
「正月なんて、あっという間だったなー」
車通りの少ない夜道は静かだ。
ぽつぽつと立つ街灯が、アスファルトの上に光の円を描いている。シャッターを下ろした飲食店の軒先に、もう門松はない。
「ファミレス……は、飽きたな」
全メニュー制覇しそうな勢いで、連日お世話になっている。安くて早くて味は変わらないが、深夜の男の独りメシ。どうしても、人情味が欲しくなる。
「あー、カノジョできないかなー。アパートでメシ作って待っててくれないかなー」
良い子にしてたのに、サンタさんはプレゼントしてくれなかった。実家の家族で行った初詣、引いたおみくじは末吉。縁談:望みを持つこと。
「自然なカンジで出会うのがいいなー。角を曲って、ぶつかるとか。飲み会帰りで、うっかり道に迷って駅がわからなくなっちゃったとか……」
びょう、と生温い風が吹いた。
視界の端に、ぼんやりとした赤い光が見えた。
「何だ?」
立ち止まり、路地を覗きこむ。
高架線の下で、提灯がひとつ揺れていた。
「こんなとこに、店なんかあったっけ?」
夜風が運ぶ、食べ物の匂い。
肉のような、油のような、醤油のような。胃袋にクリティカルヒット。999のダメージ。
ぐう、と腹が鳴った。
「ぼったくりっぽかったら逃げよう」
逃げ足には自信がある。元・陸上部をなめんな。六年前の話だけど。
路地に入る。
暗い細道を抜ければ、提灯に照らされた小さな屋台。
赤い暖簾が風に揺れる。
「こうこう、らーめん? ……あ、香香拉麺か」
ご丁寧にルビが振ってあった。
「屋台って、まだあったのか」
警察の取り締まりと店主の高齢化で、都内では絶滅危惧種になったと聞いていた。
それが目の前にある。
なんだろう、この気持ちは。実家の庭先で、ヤンバルクイナと遭遇したような感じ。いや、したことないけど。
赤い提灯は、煌々と明るい。
四つ並ぶ丸イス、その内の一つにスーツ姿の先客が座っている。店主と何か話している。客の顔も店主の顔も、暖簾の向こうで見えない。
ぐう、と腹が鳴った。
「背に腹はかえられぬ……。腹が減っては軍はできぬ……」
屋台に近づけば、唐突に話し声が止んだ。
びょう、と風が吹く。
赤い暖簾が翻った。
店主と目が合う。
「――いらっしゃい」
手ぬぐいを頭に巻いた男。二十代前半ぐらいか。若い。
「一見さんでも大歓迎ですよ。さ、ドーゾ」
「あ、はい」
暖簾をくぐり、空いている丸イスに座った。
「何にしますか?」
「えーと」
掲げられたメニューを見る。
味噌ラーメンからはじまり、塩、醤油、とんこつ、坦々麺。
トッピングが豊富だ。
メンマ、海苔、煮卵、角煮、チャーシュー、ねぎ、コーン、もやし、梅干し、ワカメ、しぐれ煮、きゃべつ増し増し、オクラ、チンゲン菜、シーチキン、バター、はちみつ、紅ショウガ、エビフライ、ブロッコリー、レタス、薄切りニンジン、などなど。
「迷うなあー」
いつもだったら、とんこつで海苔、もやし、煮卵にするが。
初めて見つけた店だ。今まで食べたことのないメニューに挑戦するものありだ。
「ご主人のオススメは?」
「ゼーンブ。自信ありますよ」
店主が片目をつぶって見せた。茶目っけのある、面白い若者だ。
「ナルナルさんは、いっつも醤油ですよね」
店主が先客に話を振る。
「うん。美味いから、ここの醤油ラーメン」
短い黒髪に愛嬌のあるどんぐり眼。朗らかな笑みは、少年らしさが残る。店主に名前で呼ばれるぐらいには、通い詰めているということか。
「あー、じゃあ。オレも醤油で」
「ハーイ。トッピングはどうします?」
「えっと……」
メニューではなく、先客の器を見てしまう。
「俺はいつも、煮卵、もやし、チンゲン菜です」
「へえ。オレも必ず煮卵入れます」
「いいですよね。煮卵」
「じゃあ、煮卵同盟だ」
そう言えば、先客が嬉しそうに笑った。
「ねえ、タヌさん。煮卵サービスしてやってよ」
「ナルナルさんに頼まれちゃ、断れないなー」
麺をゆでている店主が困ったように、それでいて楽しそうに言った。
「あ、いや。悪いっすよ」
「これも何かのご縁です。初回限定来店サービスにさせてください」
初回限定ときたか。次はない。意外と強かだった店主。
「ありがとうございます。じゃあ……あと、もやし、ワカメで」
「ハーイ」
ざっざっざ、とリズミカルに湯切りをする。
どんぶりにスープ、するりと麺を滑り込ませる。
基本トッピングの海苔とねぎに、煮卵、もやし、ワカメが乗せられた。
「ハイ、お待ちどうサマ」
目の前に、ラーメンのどんぶりが置かれる。
熱々の湯気が立っている。醤油スープの香ばしい匂い。胃を刺激する脂の匂い。ぱりっとした海苔に、つやつやとした煮卵。
割り箸を手にして、合掌する。
「いただきます!」
一口、麺をすする。
もちもちとした食感の縮れ麺。
醤油スープがよく絡む。ベースは魚介かな。さっぱりとしたスープの奥に、どっしりとした脂の旨さがある。味の奥行きがあって、すぐ二口目に進む。
もやしのシャキシャキ感。ワカメの噛み応え。レンゲでスープを飲む。喉を通って胃袋へ。じんわりと、体の内から温まる。
煮卵。かぶりつく。白身なぞ最初からなかったかのように、すべて茶色く味が浸みていた。ほろほろと崩れる黄身。スープを飲む。麺をすする。
「あー……、しあわせ」
ぐずぐずと鼻を鳴らせば、先客がティッシュ箱を取って渡してくれた。新聞で折った小さなごみ箱付き。気が利く。
「美味いでしょう、ここの醤油」
「ええ!」
良い店を見つけた。当たりだ。大当たりだ。
たとえ、ぼったくりでした、というオチでも諭吉さんでなければ札を出そう。
先客が苦笑した。
「大丈夫ですよ。この店はぼったくりナシです」
「やっば、声に出てました? すみません!」
店主にも笑われた。恥ずかしい。
「〈こっち〉じゃ、ぼったりしませんよ。ナルナルさんに怒られます」
「こっち?」
オレの疑問に、店主が湯気の向こうで頷いた。
「ナイショですがね。品川辺りじゃ、ちょいと価格高めにしてます。それでも納得済みの人しか食べませんから。ウチ、美味いですから」
店主の青年が胸を張る。確かに美味い。店を構えても十分なぐらいだ。
「三鷹から品川じゃ、遠いでしょう」
「いろんなところを回りますよ。また、何処かで見掛けたら寄ってください」
「是非!」
ラーメンを平らげて、ごちそうさまをする。満腹になり、とろりとした眠気が瞼を覆う。
「あー、いいですよね。こういうの。人心地っていうか、人情味というか」
ぶっは、と店主が噴き出した。
先客が何故か店主を睨む。
「え。オレ、面白いこと言いました?」
「タヌさんの笑いのツボが変なんですよ。気にしないでください」
ニヤニヤ笑いを浮かべて、店主が言う。
「人心地に人情味。お若い方ですのに、ずいぶん苦労なさっているんですね。世知辛い世の中だ」
店主も十分若いだろう。手ぬぐいを頭に巻いた、二十代ぐらいの男。
「――そういえば、お兄さん。お住まいは三鷹駅から近いんですか?」
会話の流れをぶった切って、先客が訊ねた。
「見たところお疲れのようですし、帰り道わかりますか?」
「ああ、はい。だいじょうぶです。路地を戻れば、大通りなんで」
ぶっは、と店主が笑いだした。
「……タヌさん。道を変えてないですよね?」
先客の視線が尖っている。
「あっしは変えてません。周囲が変わることはありますがね」
はー、と重たい息が先客の口から零れた。
「俺、まだ勤務なんですけど。結構、飛んでます?」
「ウーン。三、四駅ぐらいですかね」
「マジか。……俺、まだ勤務なんですけど」
「ソレいま聞きました。ナルナルさんは裏道通ればすぐでしょ。別にいいでしょ」
「……あの、話が見えないのですが」
そろそろと、オレが片手を挙げれば、先客が唸った。
「えーと、んーと……」
「お帰りですか? 忘れ物には気を付けて」
先客が店主を睨むが、彼はにこりと笑うだけだった。
「そうですね……夜ですし、真っ暗ですし。一緒に戻りましょう」
帰り支度をする先客に促され、お勘定を済ませた。値段は普通だった。
「また、ドウゾ」
手ぬぐいを頭にまいた店主が、ひらりと手を振る。すぐに赤い暖簾で顔が見えなくなった。
「あ、こっちです」
先客が店の東側を指差す。暗い小道。
「あれ? オレ、反対方向から来たんですけど」
「えーと、道が変わっちゃって。さらに飛ばされました」
「はい?」
意味がわからない。
「まあ、まあ。タヌキに化かされたと思って、ついて来てください」
どんぐり眼の朗らかな笑顔に、断りづらい。
「じゃ、行きましょう」
さっさと夜道を歩きだしてしまう。慌ててその後を追った。
「ナルナルさん? は、タヌキなんですか?」
「まさか。俺はただの公務員です」
「でも、まだ勤務があるって。さっき言ってましたよね」
「ありますよ。データ解析と報告書作成もろもろ。腹が減っては軍はできぬ、で抜けてきました」
「公務員って、こんなに夜遅くまで働くんですか?」
「ウチはシフト制なんです。あと万年人手不足。マジ、ブラックです。よかったら一緒に働きませんか?」
「ブラック間に合ってるんで。結構です」
「世知辛い世の中だ」
ナルナルさんが笑った。
暗い夜道を二人で歩く。歩く、歩く。
角を三つ曲った。小さな踏切をひとつ越えた。両側に迫る建物の壁、体を横にして通る。
「ほ、本当にこの道で合ってます?」
「すみません。安全な道を選んでいるもので。あと、もう少しですから」
ふっと彼の姿が消えた。
「ナルナルさん?」
手探りで進む。
真暗。
背中とお腹側は壁。じりじりと進む。
「ナルナルさーん」
外灯ひとつない。
完全な暗闇で、食後の眠気はとうに吹っ飛んでいた。
「ナルナルさーん……」
かくん、と足元が消えた。
浮遊感。
え、うそ。マジ? 落ちてる?
何で。
ぱっと、光が弾けた。
「無事、着きましたよ。達川さん」
ナルナルさんが俺の腕を支えていた。
「え、ちょ。何で三鷹駅?」
煌々と電燈が灯る。少し前に通った改札。定期を落として拾った場所。
「最寄り駅ですよね」
「そうですけど。……待って聞きたいのはそうじゃない。オレたち、狭い夜道を歩いていませんでしたか?」
「そうですよ」
あっさりと彼が頷く。
「いやいやいやいや。おかしいでしょ。どう考えてもおかしいでしょ。ワープしたんですか?」
「ああ、そう捉えていただければ」
本当にタヌキに化かされたようだ。
「俺はタヌキではないですが」
オレの心を読んだように、ナルナルさんが言う。
「本当にただの公務員?」
「そうですよ」
たぶん、と付け加えられた言葉が謎。
「タヌキじゃなくて、本当に公務員なら。なんか証明証、見せて」
「達川さんは疑り深いですね」
ナルナルさんが両手を合わせた。
首から提げる身分証を一瞬にして出す。え、手品?
オレに向けられた身分証には、所属部署と名前と顔写真。気象庁管轄三鷹特殊観測所、鳴海貴矢。
「気象庁? 国家公務員じゃないですか。ただの公務員じゃないですか」
「公務員には変わりありませんよ。……たぶん」
その付け加えられる言葉が謎。
「もう、いいですか?」
彼が名札をポケットにしまった。
がたたん、と駅舎に響く振動。
時計を見れば、終電の時間だった。
「では、これで。おやすみなさい、達川さん」
朗らかな人好きする笑顔で、彼は頭を下げた。
その肩を掴む。
「ごめん。最後の最後に、これだけは確認させてください」
「はい? なんでしょう」
びょう、と風が吹く。
微かに醤油スープの匂い。
「名乗ってないのに、なんでオレの名前を知ってんの?」
『夜のラーメン』
どこかで、どこかが繋がっています。
2021年4月4日に気づきました。
純文学日間ランキング18位に入りました。
ありがとうございます。
皆様、やっぱりラーメンお好きなんですね。