コヨーテ
冷たい風の吹いている夜だった。男は荒野のなかで仰向けで寝ていた。ただ、たんに地面に寝そべっているのではなかった。まっすぐと伸びる単線の鉄路、その並行に並んでいるレールの片方に自身の頭を乗せていた。しばらくすれば、最終列車がやってくるはずだった。とりわけ、彼は気を失っているわけでも、誰かに薬を飲まされて連れてこられたわけでもなかった。自発的にやってきて、レールの上に頭を乗せたのだ。だれがどう見ても、そのままではいずれ彼が悲惨な事態に見舞われることは明らかだった。荒涼とした大地、その周囲に男以外の人のいる気配はなかった。遠くに、星の輝きに混ざって街の明かりが見えるだけだった。
男は傍から見れば平均的な生活を送っていた。まだ独り身だが、職にも就いていて友人もいた。決して裕福ではないが、みすみす捨てるにはもったいない人生に思われた。それがどうして、こうも自己破滅的な行動をしているのか? 実は彼自身にもよくわかっていないのかもしれなかった。ただ、日々を過ごしているうちに、彼のなかには徐々に耐え難いような感情がわいてきていたのだった。早く終わらせたい、自身のすべてを……と。そしていよいよ、それを実行せずにはいられなくなっていたのだった。
遠くで汽車の警笛が鳴っているのが聞こえた。街中の駅を出発したのであろう。ここにやってくるまで、時間はそう掛からない。男はそう思って目をつぶった。しばらくすると、レールがかすかに振動して音を発しているのを感じた。彼に恐怖は無かった。
いよいよレールはキンキンとを音を立てて、汽車の規則的な蒸気を吐く音が聞こえた。目をつぶっていても汽車のヘッドライトの明かりが感じられた。
「危ないよ!」
唐突だった。その声に引っ張られるように、男は思わず起き上がった。
直後、ゴウゴウと音をたてながら、客車を引き連れた蒸気機関車は彼をかすめるようにして通過した。彼は風圧に押されて線路から離れた地面に倒れた。
列車の明かりが流れて行った後、再び辺りは静寂に包まれた。雲が晴れて月明かりがあたりを照らした。男の心臓はバクついていたが、それは死に損なったことよりも、突然に声をかけられたことに対してだった。
起き上がり、砂まみれになった顔を払った。
「誰だ? どこにいる?」
男は周囲の暗闇に向かって言葉を放った。
「おいらはここだよ」
さっきと同じ声の返事があった。男は目を凝らして声のした方を見た。きらりと光る二つの小さな点があったかと思うと、そこには一匹のコヨーテの姿があった。それはゆっくりと近づいてきた。
「危なかったね。おいらが声をかけてなかったら、あんた死んでたよ」
声の主は、間違いなくそのコヨーテだった。
「余計なことをしてくれたな」男はつぶやくように言った。「いや……コヨーテが人の言葉を話すなんて、そんなはずはない。きっとこれは、幻覚に違いない」
「どう思おうと勝手だけど、おいらはちゃんとここに存在してるよ」
男は人の言葉を話すコヨーテがあらわれたことに戸惑いを覚えた。あるいは自分はもうすでに死んでしまったのではないかとさえ思った。
「あんたは何者だ? それとも、死者を導くあの世からの使いか何かか?」
「なんのことだか分からないな」コヨーテはゆっくりとした足取りでさらに男の傍まで近づいた。
「おいらは、おいらさ」
「まあ、どうでもいい」男は身構えて少し警戒する様子だった。「それで、どこで言葉を覚えたんだ? 学校に通ったわけじゃないだろう」
「違うよ。元から知ってるの。昔はおいらだって人間だったのさ」
「ほう、そりゃ驚きだ」男は唖然としたもの、のどこか現実離れしているように感じていた。
「それじゃあ、どうしてそんな、コヨーテの姿になったんだ?」
「呪いさ。おいらは流浪の詩人だったんだ。あるとき、どこの街だったかな、酔った勢いで酒場の外にいたジプシー連中と喧嘩になってね。相手を甘くみていたよ」
コヨーテはどこか遠くを見つめるようにして続けた。「いつ、どこのことだったかな……思い出せないや。ともかく、激しくやりやってね。相手は何か罵りの言葉とともに、なにか呟いていたんだ。それから宿に戻って寝た。翌朝、目が覚めたらこの姿になってたのさ」
「それで?」
「あのときは大変だったなぁ……宿は大騒ぎになったよ。最初おいらは、自分がどうなってるかも分かっていなかったからね」
男にもその様子を想像するのは難くなかった。
「周りの連中は驚いたろうね」
「ああ……実はおいらも、君がさっきしていたことと同じようなことをしようとしたことがあるんだ」
コヨーテはちらりと鉄路の方へ視線を向けた。「でも、怖かったね……とうてい、自分から死に向かうのは無理だと思った」
「それで、俺の邪魔をしてくれたわけだ」
「別においらは、そんなつもりも、何か目的があったわけじゃないよ。偶然ってやつだよ。あるいは、空腹だったら別だったかもね」
その言葉に男はドキリとした。「俺を襲って食う気か?」
「でも今日は、夕食にありつけたから、腹は減ってないよ」
「そうかい、そりゃよかったな」
「正直言うとね。少しでもいい、話相手が欲しかったんだ。皆、たいていは僕の姿を見ただけで逃げ出しちゃうし、街中に行くなんて論外だろうから」
「俺が逃げるとは考えなったのか?」
「レールを枕代わりにして列車が来るのを待っていた君なら、もしかしたらと思ってね。現に、逃げずに僕と会話をしてるじゃないか」
男は内心、逃げるタイミングを逃したのさ。と思いつつも、あえて口には出さなかった。
「孤独が好きなのと……」コヨーテはそっと月を見上げた。「ずっと孤独でいること。そこには大きな隔たりがあるっていうのを、身をもって知った」
その声にはどこか哀愁を感じさせる響きがこもっていた。男はなんと返したらいいのか、すぐには言葉が見つからなかった。しかし、コヨーテはさして気にしていない様子だった。
「でも、だいぶ状況には慣れたよ」
「これから、どうするんだ?」
「さあね。流浪を……旅を続けるよ。たぶんそのうちに、自分が人間でいたことも忘れてしまうのかもしれない。もしかすると、それが救いになるのかもね」
「俺は、何もしてやれそうにないな。すまないな」
「お気遣いをどうも。でも、こうして話ができてよかった」
「そうか……」
するとコヨーテはくるりと向きを変えて男に背を向けた。
「さようなら。そして、ありがとう」
それだけ言い残して闇の中へ消えていった。
男はしばらく呆然とした様子で、コヨーテの行ってしまった方向をぼんやりと眺めていた。それから、黙ったまま小さくうなずくと、彼はまた街へ戻るために歩き出した。