テスト投稿です
あなたはゆっくりだけどと母は言った。あなたは人よりゆっくりだけど、必ずできるようになるから。大丈夫。
しかし社会はゆっくりな僕を待ってはくれない。それは単に飲み込みが悪いということで、愚図で愚鈍で、使えないということだ。
「マイペース」という言葉が「愚鈍」という意味で用いられていた頃、世間の僕に対する評価はいつも「マイペース」だった。実際にはどうにかして周囲に合わせようと全力で急いでいたにも関わらずだ。僕が本来の僕のペースでいられたことは――少なくとも対人関係の中では、無かった。本を読んでいるときだけだ、僕が自分のペースでいられたのは。周りに合わせることにばかり注意していたせいで、その前は過集中の気があったにもかかわらず、途中から注意散漫になった。何かに集中しようとしても周囲が気になってできないのだ。髪いじりも皮膚むしりも治らない。酒もタバコも減らないどころか増えている。悪いものに縋っている自覚はある。でもそれしかない。それ以外のものを作れない。もっと急がなければいけない。でももう、疲れた。仕事だけでも疲れるのに、帰ってからも締め切りに追われている。我ながら酔狂だ。
ものさしが自分の外にあるのでいつもその正しさを気にしてしまう。笑うのはここでいいのか、返事はこうでいいのか。いま起きる感情はこれでいいのか。僕が感じていること考えていることと僕の体から出力されるものは全く別で、怒っているのに笑ってみたり、悲しいのに笑ってみたり、つらいのに笑ってみたりする。本当は怒ってもいないし悲しくもつらくもないのかもしれない。感情というのはたとえ自分のものであっても他人のそれと同じく客観的に推察されるものである[1] から、出力がバグってしまえば僕は僕の感情もわからない。へらへらと笑って暮らしていたらどんどん居心地が悪くなって人間関係焼き畑してまた違う場所へ、みたいな、本心を出さない出せないことで他人との信頼関係が築かれず築けず、信頼関係のない場所にいると息が詰まりそうで、いやたぶん向こうは僕が作った虚像をある程度信用してくれているんだけどそれってつまり虚像で、上げた踵の下ろし方がわからなくなって消えるしかないみたいな。わからない。最近またひとり、LINEをブロックした。毎年誕生日に「おめでとう」と送ってくれる人で、それがどうしても鬱陶しくなってしまったから。
誰かを信用したい気持ちが無いわけじゃないんだけど今のところ僕の人間関係って仕事が九割で、仕事仲間が相手だと基本的には疑うのが正しいというか、ほらあのダブルチェックとかトリプルチェックとか、前二人がチェックしてるだろうからヨシ! みたいなことをするわけにはいかないし、基本的にはかもしれない運転というか微に入り細に入り疑って勘ぐってみたいな、なんだろうな? 人を信用する機会って無くない? みんなどういうタイミングで人を信用するんだろう?
清水の舞台から飛び降りるみたいにえいやで信用しちゃうってのもまあありではあるんだろうけどそこの微調整みたいなことができるとは思えない。何しろ優先付けができない。自分では大した情報でないと思ってるようなことも人に言うとびっくりされたりするし(以前バイセクシャルであることを同僚に話したらずいぶん引かれた)このくらいの距離感ならこれくらいのことを話すみたいなのの適切な紐付けがどうもできていないらしい。僕の中の信用というものが社会で定義されるところのそれからかけ離れているのかもしれない。でもじゃあどうすればいい?
人に興味がないから自分に興味を持っている人もわからないし何に興味を持たれているかもわからない。表面だけ取り繕ってもそのへんはバレバレであるらしく、一定以上に仲良くなることはない。ひとりでも平気だと思っているけれど、これ以上対人関係を増やしたら潰れるとも思っているけれど、その結果、いま休む場所がない。貯金を食いつぶしつつ一人で過ごしたとして、一年は過ごせないだろう。だいいち一年休んだところで何かが解決するかも疑わしい。というかしない。もっと早い段階で、中高生くらいのときに、正しく他人と信頼関係を築く練習をすべきだった。でも当時だって疲れていた。必死で目の前のことをやってどうにか周りに追いつこうとして、追いついていたつもりで、実際のところ追いつけていない。やらなかったのではなくできなかったのだ。
「心を引きずってどうにか登校し、体を引きずってどうにか下校する」とは、当時書いた僕の文章の一部だ。朝から晩まで、寝ても覚めてもへとへとに疲れていた。だから、喉元過ぎれば熱さを忘れるで過去の僕を責めるわけにはいかない。あれだけ疲れていた僕にその上「人と信頼関係を築く練習をしておけ」なんて言ったら、それこそ潰れて死ぬだろうと思う。仕方なかった。あのころから、僕は生きているだけで疲れていた。「生きているだけ」に含まれている様々の無理に疲れ切っていた。周囲の笑顔が好意なのか悪意なのかもわからず、ポチと呼ばれボールを投げられて暮らしていたあの頃。思い返してもあれは悪意ではないと思う。あれは愛玩に近い。足りない人間を輪に入れようとすれば、おもちゃにする他はないのだ。投げられたボールを取ってくるくらいの芸は僕にもできた。当時の周囲からの評価は「愛されキャラ」だ。笑える。
母の「あなたは人よりゆっくりだけど」が許しだったのか呪いなのかは今もよくわからない。
[1] 情動・認知の誤帰属と処理の順序性 山田, 歩 2001 https://doi.org/10.18910/10775