第2章 熊本藩主殺害事件 2−5 決意
板倉勝該が板倉宗家の上屋敷を訪ねたのは、板倉一族の会議が開かれてから3日程後のことだった。目的は宴席での失態を板倉勝澄に詫びるためであった。
勝該は1刻(2時間)も経たずに自身の屋敷に戻って来た。駕籠から降りると、無言で御殿に入り、ドシンドシンと大きな足音を立てて廊下を歩く。口元は歪み、目は吊り上がっている。明らかに不機嫌だった。自室に入り、腰に差した刀を抜き取って小姓に渡すと、いきなり床の間の壺を蹴りつけた。壺がガシャンと音を立てて割れたが、勝該の怒りは治まらない。
「殿、いかがなさいました」
小姓が驚いて思わず聞いた。
「何でもないわ!」と、勝該は言ったものの、宗家を笠に着て偉そうに言う若造の姿を思い浮かべると、吐き出さずにはいられない。
「相模の奴が隠居しろと言いおった。『宗家といえども、他家のことに口出しするのは無用。出過ぎた真似をするな』と一喝してやったが、腹の虫が治まらぬわ」
「……やはり」
小姓のつぶやきに、勝該が反応した。
「やはりとは、どういうことだ。何か知っているのか?」
「実は、昨日そのようなことを相良藩士から聞いたのです」
「何と! 若年寄の佐渡守様の家臣から聞いたのか。詳しく話してみよ」
「私の通っている剣術道場の門人に、相良藩勘定方下役を務める男がいます。年が近く、気安く話し合う間柄です。その男が『同僚になるかもしれんから、そのときは宜しくな』と言ってきたので、不思議に思い、詳しく尋ねました。佐渡守様の4男の大蔵様が当家の養子になり家督を継ぐので、大蔵様の家来として当家に入るかもしれないとのことでした。信じられないことでしたので、『そのようなことは、あるはずがない』と反論したのですが、『先日、一族の当主が当藩の上屋敷に集まり、修理様の隠居と大蔵様の家督相続が決まった』と言われました。まさかと思っていたのですが……」
一族の会議での結果は取り敢えず意見するということであったが、公表されなかったため、漏れ伝わる情報から憶測した板倉勝清の家臣らの話が、噂として広まっていたのだった。下役の男は噂を信じ、先走ったのである。しかし、勝該は小姓の話を信じた。先程、勝澄から隠居の話をされているので、信じるのも無理もないことであった。
「この話は他言無用だ。わかったら下がれ」
小姓が部屋を出ると、勝該は畳の上に大の字になって天井を見上げた。そして考えを巡らせる。
(勝清が俺以外の一族を集め、自分の息子を当家の当主にしようと裏で動いているということか。勝澄が隠居を求めたのは、勝清の指示によるものだろう。振り返ってみれば、隠居を最初に言い出したのはお藤で、お菊も同調した。お藤は勝清の妹で、お菊は姪だ。これも勝清の指示だったのか。勝清が当家を乗っ取ろうとして画策しているのは明らかだ)
勝該はここまで考えて、はたと思った。
(兄は毒殺だったのでは……。勝清は若年寄だから毒薬を手に入れるのも容易いだろう。もし、お藤かお菊が加担していたとしたら、毒薬を飲ませるのは簡単だ。考えてみれば、お藤とお菊は勝清の世話で輿入れしてきた。勝清は随分前から当家を乗っ取る計画を練っていたのか。夫婦仲の悪さを利用してお藤に兄を毒殺させ、今度は俺を追放しようとしているのではないか。きっと、そうに違いない)
勝該の考えは確信に変わった。
(どうしたら良いのだ。大人しく隠居するか。隠居したとしても殺されない保証はない。それに、俺は武士だ。兄の仇討ちをせずして武士といえるか。……覚悟せねばなるまい。コケにした奴に意地を見せてやる)
勝該はゆっくり起き上がった。