第2章 熊本藩主殺害事件 2−3 家督相続
結婚した板倉勝該と菊姫は、白金台町の旗本屋敷で兄夫婦と一緒に暮らした。いずれ独立させるということだったが、結婚して日が浅く、それはまだ先になりそうだった。
「お菊、上野の桜が咲いたそうだ。見物に行くか?」
「お一人でどうぞ」
菊姫は素っ気なく答え、勝該を残して去った。
菊姫は婚礼の席での勝該の失態を許していなかったのだ。勝該はこれまで何度も菊姫の機嫌を取ろうとしたが、拒絶されるだけであった。だから、子作りに励むことなど一度もなかった。
勝該夫婦の仲は誰が見ても悪かった。兄の板倉勝丘はそれを心配したが、当の勝丘の夫婦仲も良いとはいえなかった。原因は、勝丘が妾に娘を産ませたことだった。妾は産後の肥立ちが悪くて亡くなり、娘も1年と経たず夭逝したが、藤姫は許さなかった。藤姫は側室を持つことに反対していなかったが、隠れて子を作ったことに腹を立てたのである。側室は正室が選ぶもの。そう考えていた藤姫は、自分が軽んじられたと思ったのだった。それ以来、勝丘と藤姫が同衾することはなかったのである。
勝該と勝丘の夫婦仲は悪かったが、叔母、姪の関係である藤姫と菊姫の仲は良好であった。二人は何かと協力したので、家中の発言力は当主の勝丘を凌ぐほどになっていた。
実父・板倉重浮の死により家督を継いで3代当主になった板倉勝丘であったが、弟の板倉勝該の婚礼から1年後の延享3年(1746年)12月に急死した。家督を相続して6年目のことであり、37歳の若さであった。死因は心筋梗塞であったが、それが証明できるはずもない。死ぬような歳でもなく、死ぬ直前まで元気であったことから、毒殺や呪殺との噂が立った。そして、犯人は、家督を狙った勝該ではないかと言う者もあった。勝該にとっては迷惑以外のなにものでもなかったが、毒殺というのは勝該も疑っていた。夫婦の仲悪さから、藤姫が毒を盛った可能性を否定できなかったからである。でも、証拠が無い。疑心暗鬼が渦巻く中、勝丘の葬儀は終えられた。
板倉勝丘には子がいなかったため、旗本板倉家の家督は、30を過ぎたばかりの板倉勝該が末期養子となって継いだ。延享4年(1747年)3月、勝該は将軍・徳川家重に拝謁し、正式に4代当主と認知された。
その後間もなくして、板倉宗家に、一族の当主が集まった。出席者は、以下の5人である。
板倉宗家7代当主で備中松山藩主・板倉相模守勝澄、27歳。重形流板倉家の3代当主で、若年寄の遠江相良藩主・板倉佐渡守勝清、41歳。重昌流板倉家の7代当主で、陸奥福島藩主・板倉内膳正勝承、11歳。重宣流板倉家の4代当主で、備中庭瀬藩主・板倉摂津守勝興、24歳。そして、旗本板倉家4代当主になったばかりの板倉修理勝該である。
板倉勝該が座敷に通されると、既に他の4人が膳を前にして座っていた。膳はコの字形に並べられ、上座だけが開けられていた。
「修理殿、早く座られよ」
躊躇っていた勝該は上座に座ることを促された。家格からすれば、勝該は末席に座る立場であったが、この日は 勝該の家督相続を祝う宴であったため、上座を勧められたのだった。
「此度、修理殿が公方様にお目通りし、家督相続が正式に認められました。これで、修理殿のお家は安泰です。先代も安心しているでしょう。喪中ですので、ささやかですが、宗家の当主として一席設けさせていただきました。ごゆるりとお召し上がりください」
板倉勝澄の挨拶が終わると、食事が始まった。勝該が左を見ると、板倉勝澄と板倉勝承が座っている。右には板倉勝清と板倉勝興が座っていた。4人とも大名で、着物の胸には九曜巴の家紋が染め抜かれている。勝該は自分の祝いの宴でありながら、疎外感を感じていた。自分だけ旗本であり、九曜巴を略した五巴を家紋にしていたからである。
九曜巴は大きな三つ巴の周りに小さな三つ巴を8つ配置した紋で、五巴は九曜巴から小さな三つ巴を4つ減らした紋である。旗本板倉家は、家祖が庶子であったために、九曜巴が使えなかったのだった。
勝該の疎外感は、一族の大名家にとっては優越感であった。一族の大名家は、表に出さないが、旗本板倉家を一段下に見る意識があった。勝該も軽んじられているのを感じている。どことなくぎこちない空気の中、宴会は進んだ。
勝該は頃合いをみて席を立ち、鳶色の着物を着た勝清の前に座った。
「若年寄様にはお世話になっています。今度、反物をお贈りさせていただきたいと思っているのですが、お好みのお色はありますでしょうか?」
勝該は頭を下げ、徳利を手にした。勝清は持った盃に酒を受けながら言う。
「好きな色は鳶色じゃが、そんな気遣いは無用じゃ。それより、お藤とお菊は息災にしておるか?」
「元気にしております」
「元気? 小うるさいの間違いじゃろ。二人共わがままじゃからな」
勝清はそう言って笑うと、飲み干した盃を勝該に差し出した。
「それ、盃返しじゃ」
勝該は盃を受け取らない。勝清は婚礼の日のことを思い出し、盃を引っ込めた。
「まぁ……飲まん方がいいじゃろ」
勝該は頭を下げて立ち上がり、宗家である板倉勝澄の膳の前に座った。
「某のために宴席を設けていただき、申し訳ない」
「そうかしこまられては、こちらが恐縮します。さあ、一杯」
勝澄は徳利を持ち上げたが、勝該は手で制す。
「酒席で失態をしておるので……」
「お祓いは済んでいるのでしょう。 遠慮せずに、さあ、さあ」
勝該の失態は狐が憑依したということになっている。だから、そう言われれば断れない。勝該は勝澄に注がれた盃の酒を一気に飲み干す。
「いい飲みっぷりですね」
そう言ったのは徳利を持った板倉勝興だった。勝興は勝澄の隣に座り、徳利を傾ける。
「私の酒も受けてください」
勝興は有無を言わさず勝該の手にある盃に酒を注ぐ。勝該は、仕方がなくまた一気に飲み干し、盃を勝澄に返した。
「某ばかりが飲んでは申し訳ない。相模守殿も飲んでくだされ」
勝該は勝澄に酒を勧め、勝澄は盃になみなみと満たされた酒を喉に流した。勝該は勝興にも酒を勧め、勝興も飲み干した。
一つの盃が3人の間で行ったり来たりして、空の徳利が何本も畳の上に転がっている。板倉勝清と板倉勝承は、付き合いきれぬと既に帰って行った。座敷には3人の酔っぱらいが残された。
「相模、摂津、もっと飲め」と、目が据わっている勝該が二人に絡む。
「いささか飲みすぎました。ここらでお開きにしましょう」
板倉勝澄がそう言うと、板倉勝興も「そうですね」と同調し、立ち上がった。
「逃げるのか!」
勝該が大声で叫んで立ち上がろうとしたところ、ガッシャンと音を立てて膳の上に倒れ、大の字になった。
大声と物音で異変を感じたそれぞれの家の家臣が、座敷になだれ込んで来た。
「何事でござる」
勝澄が顎で勝該を指す。
「修理殿が酔いつぶれた」
家臣らが勝該を囲み、上から覗き込むと、勝該の瞼が開いた。
「化け物だー! 寄るな、寄るな」
勝該の目には、着物を着た犬や猫の顔をした妖怪が映っていた。幻覚を起こし、家臣らが妖怪に見えたのだ。
勝該は家臣らの囲みから這い出し、床に置いていた刀を手に取った。そして、立ち上がって、刀を抜く。刃がギラリと光った。
「おのれー、化け物! 成敗してくれる」
家臣らは、刀を振り回す姿におののき、後ずさった。
ふらつく勝該が闇雲に刀を振り回しながら歩みだした途端、刀は床の間の柱に刺さる。刀を抜こうと引っ張ったが、握った手が離れ、勝該が床に倒れた。ピクリとも動かない。恐る恐る家臣の一人が近づくと、寝息を立てていた。
「キツネ様がまた乱心した。困ったものだ」と、勝興がつぶやくと、「酒乱だな」と、勝澄が返した。