第2章 熊本藩主殺害事件 2−2 憑依
翌朝、板倉勝該は布団の中で目覚めた。目を開けると、横に座っている小姓と目が合った。
「お目覚めになられました!」
小姓は叫ぶやいなや、部屋から出て行った。
「イテテテ……」
頭がガンガンする。体のあちこちも痛い。勝該は静かに上半身を起こした。腕を見ると、あざや擦り傷ができている。
ドタドタと足早に歩く足音が近づき、襖が開いた。部屋に入ってきたのは当主の板倉勝丘だった。
「気がついたか。昨日はどうしたのだ」
「何がですか?」
勝該は、若年寄の板倉勝清から酒を注がれた後の記憶が無い。
「何も覚えておらぬのか」
勝丘は、勝該が婚礼の途中で暴れだし、終いには池の中で溺れたことを伝えた。
「本当ですか?」
勝該はそう言ったものの、体中にあざや傷ができているので、信じない訳にはいかなかった。
勝丘は勝該の様子を見て、本当に覚えていないのだと思った。それでも、何もなかったことにはできない。
「お前は、とんでもないことをしでかしたのだ。後で奥座敷に来い」
勝丘はそう言い残して部屋を出た。
板倉勝該が奥座敷の襖を開けると、冷たい視線を感じた。床の間を背にして板倉勝丘と藤姫が並んで座り、その横に菊姫が座っている。その3人が厳しい表情で勝該を見つめていたのだ。
勝該は逃げ出したかったが、覚悟を決めて兄夫婦の前に座った。
すかさず、藤姫が口を開く。
「裸になって暴れた上に、池に飛び込むなんて、町のゴロツキだってしやしません! しかも婚礼の席でなんて。開いた口が塞がらないとは、このことです!」
藤姫は今まで見せたことのない剣幕で責め立てた。実の姉兄の前で失態を演じた勝該に対し、怒りを抑えられなかったのである。
「……」
「黙ってないで、何か言いなさい。何故、あんなことをしたのですか?」
「何故と言われましても……若年寄様に注いでいただいた酒を飲んだことまでは覚えているのですが……その後のことは覚えていないのです。だから、何故と言われましても、答えようがありません」
勝該は正直に答えた。記憶が無いのだから、理由を聞かれても説明できないのは当然である。だが、理由が無い訳ではなかった。勝該は幻覚を見ていたのだ。
何かが着物の中で、モゾモゾと這い回る感覚がして手で叩いたが、収まらない。それどころか、這い回る感覚が全身に広がった。着物の中を覗くと、たくさんのムカデが体にまとわり付いている。それでムカデを振り払おうとして、着物を脱いで転げ回ったが、ムカデは離れない。水の中に入ったらムカデが溺れると思って、池に飛び込んだのだ。勝該は酒乱だったのである。
「本当に覚えていないのですか? 私を膳の上に倒したことも覚えていないのですか?」
納得できない菊姫が、怒気を含んだ声で勝該に問い質した。大切な婚礼を台無しにされたのだから、記憶に無いと言われても素直に納得できるものではなかったのだ。
「申し訳ないが、本当に覚えていないのだ」
「本当は、私との結婚が嫌で……破談にしようとしたのではないですか?」
「決して、そんなことはない」
「何であんなことをしでかしたのか、ご自分でもわからないのに、何故そう断言できるのです」
「それは道理だが……」
「私が嫌いなら、そう仰ってください。いつでも離縁して差し上げます」
離縁という言葉に、勝丘夫婦が慌てた。
勝該と菊姫の結婚は、若年寄の板倉勝清の世話によるものだった。菊姫の母が、二十歳を過ぎても嫁ぎ先のない娘を心配して、弟の勝清に嫁ぎ先を世話してくれるよう頼み、勝清は妹の嫁ぎ先にいる勝該に白羽の矢を立てたのだ。菊姫の実家の建部家は、勝該が旗本の次男ということで難色を示したが、いずれ加増して独立させるからと勝清に説得されて受け入れたのだった。
だから、勝清の力添えを期待していた旗本板倉家としては、離縁を避けねばならなかった。婚礼のときの勝該の失態で、勝清に迷惑を掛けているので尚更であった。
勝丘は菊姫をなだめにかかる。
「お菊の言うことはもっともである。だが、よく考えてみてよ。勝該は部屋積みの身である。婿養子に行かなければ妻を娶ることなどできなかった。お菊が来てくれたおかげで、勝該は結婚できたのだ。そんな勝該がお菊を嫌う訳なかろう」
藤姫も追従する。
「勝該は結婚が決まり、喜んでいたのですよ。そうでしょう勝該」
「……はい」
強要するような藤姫の言葉に、勝該は力なく答えた。
「左様でございますか……」
菊姫はそう言いながらも、不満顔であった。それで、勝丘は説得するように言う。
「勝該は本当に何も覚えていないのだろう。儂にはそう思える。お菊もそう思わぬか?」
「私にはわかりません」
「あんな訳のわからぬ行いは、人のものとは思えぬ。狐でも取り憑いたのだろう。だから、何も覚えておらぬのだ」
勝丘は、もののけが取り憑いたとは思っていなかったが、狐のせいにすることで、勝該を被害者にすることにした。そうすることが、婚礼での失態を収める一番良い方法と考えたのである。
「そうですよ。そうに決まっています」
勝該を責め立てていた藤姫が、即座に同調した。そして、勝丘が続ける。
「勝該、お前は狐に取り憑かれたのだ。お祓いを受けなければならん。寺に篭って祈祷を受けよ。それから、酒はもう飲むな。よいな」
「……承知しました」
勝該は、仕方がないという顔付きで答えた。
それから間もなくして、勝該は1ヶ月程寺に篭もった。寺から出ると、婚礼の参列者の家を回り、非礼を謝罪したが、誰も失態の理由を聞く者はいなかった。狐が憑依したということで、ケリがつけられていたのである。なので、勝該が責め立てられることはなかったが、その代わり影で「キツネ様」と呼ばれるようになった。