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第2章 熊本藩主殺害事件 2−1 婚礼

「高砂や、この浦舟に帆を上げて。この浦舟に帆を上げて。月もろともに出汐の、波の淡路の島影や。遠く鳴尾の沖過ぎて、はや住吉に着きにけり。 はや住吉に着きにけり……」

 江戸白金台町の旗本屋敷の広間に祝の歌が響いている。婚礼の真っ最中であった。

 両家の親類が居並ぶ中、上座には、新郎新婦が緊張した面持ちで座っている。

 新郎はこの旗本屋敷の主である板倉勝丘の弟の板倉勝該。新婦は播磨林田藩5代藩主・建部政民の娘の菊姫。政民の正室は勝丘の正室・藤姫の姉であったから、菊姫は勝該の姪となる。


 江戸時代、武家の結婚や養子縁組は、縁のある者同士で行われることが多かったので、系譜は複雑になりがちだった。板倉家も例外ではなかった。

 板倉家は、徳川家康の重臣で京都所司代などを務めた板倉勝重が始祖であった。勝重には、嫡子の重宗と重昌、庶子の重大という3人の男子がおり、宗家は長男の重宗が継いだ。次男の重昌は深溝藩主となり、三男の重大は旗本になったのである。勝丘が当主を務める旗本板倉家は、この重大を祖とする。

 重大には男女一人ずつしか子がおらず、嫡男の重冬は宗家の養子になって、板倉宗家5代当主になったため、旗本板倉家は堀田宗家より養子を迎えて2代当主とした。板倉重浮である。 

 重浮に白羽の矢が立てられたのは、母が板倉宗家3代当主・板倉重郷の娘だったからであった。つまり、旗本板倉家は板倉宗家の娘の子を跡継ぎにしたのである。血筋としては、宗家と分家が入れ替わった形になった。

 旗本板倉家は他家へ嫁いだ一族の娘の子を養子を迎え、家名を存続させたが、藤姫の実家である重形流板倉家も同じようなものだった。

 板倉宗家2代当主の子・板倉重形は、別家を起こして大名になったが、男子が夭逝し、跡継ぎがいなかったため、旗本の神保元茂に嫁いだ自分の娘の子、つまり孫である重同を養子にして家督を継がせたのである。

 板倉重同は1男3女に恵まれ、娘はそれぞれ建部家、朽木家、板倉家に嫁いだ。建部家に嫁いだ娘の子が菊姫であり、板倉家に嫁いだ娘が勝丘の正室の藤姫である。一人息子の板倉勝清は11歳で家督相続し、今の板倉勝該の年齢、つまり29歳のときに若年寄になった。


 板倉勝清は既に10年も若年寄を務める幕閣である。この婚礼の参列者からは、一目も二目も置かれていた。その勝清が立ち上がり、新郎新婦の前に座った。

「二人共おめでとう。末永く仲良くするんじゃぞ」

 勝清はそう言うと、銚子の取っ手を握った。

 新郎の板倉勝該は、既に多くの来客に飲まされている。これ以上は飲めなかった。

「若年寄様に、酌をしていただく訳にはまいりません」

「遠慮することはない。ほれ、盃を取れ」

 もう断ることはできない。勝該は諦めて盃を持ち上げた。勝清が盃になみなみと酒を注ぐ。勝該は盃をジッと見つめた後、一気に酒を胃に流し込んだ。

「いい飲みっぷりじゃ。ほれ、もう一杯」

 勝清はまた盃に酒を注ぐ。勝該は一気に飲み干し、盃を差し出す。これには、勝清が驚いた。勝清が勝該の顔を見ると、目が据わっている。

「もう、止めとけ」

 勝該は催促するように盃を上下に動かし、勝清に言う。

「注げ!」

「お止めください」

 勝該の隣りに座る菊姫が止めにかかり、慌てて差し出す勝該の腕をつかんだ。勝該がそれを振り解こうとすると、菊姫がガシャンと音を立てて膳の上に倒れ込んだ。その音で、一同が上座を見つめた。食器が畳の上に散らばっている。

 これは大変と、何人かが新婦の元へ近づく。すると、勝該は突然立ち上がり、払うように自分の体を叩き始めた 。

「うゎー!」

 勝該は奇声を上げた。一同は何が起きているのか飲み込めず、凍りついたように見つめるだけだった。

 勝該は叩くのを止めると、着物を脱ぎ、褌だけの姿になった。そして、悲鳴を上げながら大広間の真ん中で転げ回った。今度は、参列者の中から悲鳴が上がる。男たちは、兎に角止めさせないと思い、取り押さえにかかった。しかし、勝該が闇雲に手足を振り回すので、容易に近づけない。やっと足をつかんだ者は、蹴られて転げた。腕をつかんだ者は殴られて倒れた。

 そうこうする内に、勝該は障子を開け、庭に出て池の中に飛び込んだ。初めは手足をバタつかせて水しぶきを上げていたが、それが収まると水の中に沈んだ。何がなんだかわからない。だが、このままでは、勝該が死ぬのは確かだった。

 勝該は池から引き上げられ、大広間の真ん中に寝かせられた。ピクリとも動かない。首筋に手を当てると、脈がある。息もしている。死んではいなかった。

「婚礼が葬式になるところだったな」と、参列者の中から軽口が出たが、笑う者はいなかった。

 一人二人と参列者は帰って行き、散々だった婚礼は終わった。

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