第1章 江戸城について 1-4 細川宗孝の殺害
前述の細川宗孝が殺害された事件は、次のように伝わっている。
大名旗本が総登城する日であった延享4年(1747年)8月15日、5代熊本藩主・細川越中守宗孝が、本丸御殿の大広間脇の厠付近で板倉修理勝該に背後から斬りつけられた。
居合わせた6代仙台藩主・伊達陸奥守宗村が駆け付けた時、宗孝は絶命していたが、 宗孝は細川家家臣に「越中守殿にはまだ息がある、早く屋敷に運んで手当てせよ」と命じ、宗孝を細川藩邸に運ばせた。
犯行後、勝該は厠に隠れていたが、見つかり、犯行を白状した。捕らえられた勝該は、水野忠辰邸に預けられ、8月23日に切腹、板倉家は改易となった。
宗村が既に死亡していた宗孝をまだ生きているとしたのは、宗孝に嗣子がいなかったため、死亡が確定すると、細川家が無嗣断絶となりかねないためであった。宗村は機転を利かせて、細川家を救おうとしたのである。
細川家は、宗孝の弟を末期養子として幕府に届け出た後、宗孝の死亡を届け、家名を存続させた。
勝該の犯行目的は一族の若年寄・板倉佐渡守勝清を殺害することだったが、間違えて宗孝に斬り掛かった。
板倉家と細川家の家紋は共に「九曜紋」であったが、正確には、板倉家の家紋は「九曜巴」である。九曜紋は大きな丸の周りに8つの小さな丸が配置された紋であるが、九曜巴はその大小の丸が三つ巴になったものである。
勝該は宗孝の後ろ姿しか見ておらず、薄暗い中で家紋を見誤り、宗孝を勝清と勘違いしたのだろう。
そのためこの事件後、細川家は九曜紋の黒丸を小さくし、礼服の紋を通常の5つから7つに増やした。新しい家紋は「細川九曜紋」と呼ばれ、細川家独持の礼服は「細川の七つ紋」と称されるようになった。
勝該は7千石の大身旗本であったが、精神的に問題があったようだ。そのため、一族の若年寄・板倉勝清が、勝該を廃して自分の庶子に跡目を継がせようとしていたらしい。その話が実際にあったかどうかわからないが、勝該は信じたようだ。勝該は勝清に家を乗っ取られると考え、勝清の殺害を決心したとみられる。
勝該の犯行動機は、勝清に対する恨みとされるが、それを否定する説もある。
一説には、熊本藩下屋敷の汚水が崖下にあった勝該の屋敷に流れ込んでいたため、勝該は細川家に対処するよう願ったが、無視されたことにより犯行に至ったとされる。
犯行当日、幕府は既に人違いによる刃傷と認識していたようだ。それからすると、勝該が目的を勝清殺害と白状したとするのが自然である。それに、細川家が事件後に家紋を変更してもいる。やはり、人違い殺人であったのだろう。