第1章 江戸城について 1-3 城中内の刃傷事件
江戸時代は2世紀半も続き、様々な事件が起こった。政治の中心地だった江戸城も例外ではない。江戸城中でも事件が起こっている。中でも一番有名な事件は、忠臣蔵で知られる浅野内匠頭が起こした松の廊下刃傷事件に違いない。この事件は、3代赤穂藩主・浅野内匠頭長矩が高家旗本・吉良上野介義央を殿中で斬りつけた事件である。
江戸城中で刃傷沙汰を起こしたのは、浅野内匠頭しかいないと思われがちだが、意外に多い。浅野内匠頭以外で刃傷事件を起こした人物は、以下の通り。
寛永4年(1627年)、御小姓組の楢村孫九郎が、西の丸で勤務中に同僚と喧嘩となり、相手を斬殺。
寛永5年(1628年)、目付の豊島信満が、面目を潰されたとして、老中の井上正就を西の丸廊下で刺殺。
貞享元年(1684年)、若年寄・稲葉正休が、大老・堀田正俊を本丸表御殿で斬り付け、重傷を負わせる。正俊は手当の甲斐なく死亡。正休はその場で滅多切りにされたため、動機は不明だが、治水工事の役目を外されたことによる恨みという説や、将軍による陰謀説が唱えられている。
享保元年(1716年)、小普請奉行・多賀高国と同役・川口権平が殿中の詰部屋で喧嘩になり、斬り合いの末、双方とも死亡。
享保10年(1725年)、松本藩主・水野忠恒が、長府藩嗣子の毛利師就を松の廊下で斬り付ける。動機は、「忠恒が改易になり、毛利家預かりになる」という噂を信じたことだった。
延享4年(1747年)、旗本の板倉勝該が、熊本藩主・細川宗孝を大広間近くで斬殺。定説となっている動機は、一族の若年寄・板倉勝清を斬るはずだったが、間違えて宗孝を斬ったということである。
天明4年(1784年)、旗本の佐野政言が、若年寄・田沼意知(老中・田沼意次の嫡男)を桔梗の間付近で襲撃。意次は8日後に死亡。政言の乱心として処理されたが、様々な動機が唱えられている。佐野家の系図が返還されなかったため、意知の家臣が神社を横領したため、賄賂を贈ったのに出世できなかったため、黒幕に操られたなどの説がある。
文政6年(1823年)、書院番・松平忠寛が、同僚の旗本を西の丸御書院番休息所で襲撃。3人が死亡、2人が重症になる。動機は執拗ないじめに対する復讐だった。
これらの事件で加害者と被害者の間には、少なくとも面識があった。1件以外は。人違いで殺された細川宗孝は、不運としか言いようがない。