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第1章 江戸城について 1-2 明治以降

 戊辰戦争で無血開城した江戸城は、新政府軍に明け渡され、東京城と名称を改めた。

 明治2年(1869年)には、天皇が西の丸に入り、東京城は皇城と称される。天皇が西の丸御殿に入ったのは、本丸御殿も二の丸御殿も焼失していたためであった。この西の丸御殿も明治6年(1873年)に焼失する。宮殿が新築された後は、宮城と呼ばれるようになったが、昭和23年(1948年)に名称を皇居に改められている。


 明治政府は江戸城を政庁として使い、政府の施設を建設するとともに、徳川幕府が造った建造物を次々と破却した。残った建造物も関東大震災や第二次世界大戦の空襲で、多くが消失している。現存する富士見三重櫓、桜田巽二重櫓、伏見二重櫓は地震で損傷し、後に復元されたものとのことだ。大手門は空襲で焼失し、戦後に再建された。国の重要文化財として残ってるのは、桜田門、田安門、清水門の3つだけだ。

 ついでながら、国宝や重要文化財は文部科学省の管轄で、宮内庁管轄の文化財は対象外になるとのことである。それで、3つの門だけしか重要文化財に指定されていないのかもしれない。


 皇居は、今もかつての西の丸の場所にある。皇居東御苑は、かつての本丸、二の丸、三の丸である。皇居外苑は西の丸下、皇居吹上御苑は吹上、北の丸公園は北の丸だった。

 約6キロメートルの内堀通りを1周すると、これらの場所の外側を巡ることになる。内郭の大きさを実感するには歩いてみるのも悪くないだろう。

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