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第2章 熊本藩主殺害事件 2−7 一太刀

 細川宗孝が運び出された後、殺害現場に集まっていた大名たちは控えの間に戻された。大名たちの喧騒は無くなったが、犯人探しをする書院番の番士の声や足音が御殿に鳴り響く。

「こちらの部屋にはいない」

「こっちにもおらん」

 番士たちは、犯人がどこかの部屋に隠れていると思い、探したが、発見できない。

 一人の番士が厠の戸を順番に開けて確認していたが、開かない戸があった。引き戸の取っ手に指を掛け、力一杯引いたが、びくともしない。通りかかった番士と共に引いても動かない。中では、勝該が戸につっかえ棒をかけていた。

「せーの」の掛け声と共に、二人の番士が厠の戸を蹴った。戸が勢いよく厠の中に倒れる。覗いてみると、震えながらしゃがみ込んでいる男がいた。顔が返り血で汚れている。

「居たぞー。厠に居たぞー」

 番士が大声を上げ、勝該を厠から引きずり出す。


 勝該は大目付らが詰めている部屋へ引っ立てられ、大目付の取り調べが始まった。

「名は何という」

「板倉……修理…………勝該」

 勝該は震えた声で何とか答えた。

「旗本か?」

「はい。旗本寄合席です」

 旗本寄合席は、3千石以上で無役旗本の家格である。大身旗本の犯行だったのかという思いが一同に広がる。

「もしかして、若年寄の板倉佐渡守様の親族か」

「はい。佐渡守は先代である兄の義理の伯父であり、私の妻の叔父でもあります」

 大目付の表情が変わり、静かに問いただす。

「細川越中守を斬ったのか?」

 大目付の問いに、勝該は黙ってうつむくだけだった。

 大目付は目付に「その者の腰に挿してある鞘をここに持て」と命じると、目付が勝該から鞘を取り上げ、大目付に差し出した。大目付は鞘に血の付いた脇差しを挿し込む。

「現場に落ちていた脇差しが、その方の鞘に収まったぞ。それに、その方の体に付いた血は返り血であろう。言い逃れはできぬぞ。細川越中守を斬ったのはその方だな」

「……はい」

 勝該はか細い声で答えた。

「何故斬った? 答えよ」

「私が斬ったのは、細川越中守様だったのですか?」

「どういうことだ! 知らない相手を斬ったと申すのか? 殿中で辻斬りの真似事をしたと言うのか」

「違います。……人違いで斬ってしまいました。後ろ首の下に付いていた九曜紋を九曜巴と見間違えました」

 予想外の返答に、その場にいる者たちが唖然とした。

「顔も見ずに、いきなり背後から斬ったのか?」

「……はい」

「誰を斬るつもりだったのだ?」

「若年寄の板倉佐渡守です」

「親族の幕閣を殺害しようとしていたとは……。理由を申せ」

「佐渡守が当家を乗っ取ろうとしていたからです。兄を殺し、私を廃して、自分の子に当家の家督を相続させようとしていたのです。私も武士です。兄の仇討ちをせねば、面目が立ちません」

 大目付は腕を組んで天井を見上げた。しばらく考えた後、「しばし待て」と言い残して部屋を出た。

 大目付は老中に取り調べ結果を報告し、指示を仰いだ。大目付が部屋に戻ると、勝該は緊張した面持ちで待っていた。大目付は勝該を見据えて言い渡した。

「岡崎藩主、水野大監物忠辰預かりとする」

 勝該は引っ立てられ、岡崎藩邸に送り届けられた。


 熊本藩上屋敷では、細川宗孝の遺体が布団に寝かされていた。枕元には、正室の友姫や重臣が集まっている。

「殿、こんなお姿になって……。どうしてこんなことに」

 友姫は宗孝に取りすがって泣くばかりだ。

「御前様のお悲しみは当然のことなれど、至急お世継ぎを決めなければなりませぬ。弟君の長岡紀雄様をご養子に迎えたいと存じますが、ご承知くださいますな」

 江戸家老が強い調子で友姫に迫った。

 紀雄は長岡姓を名乗っているが、宗孝の二人いる弟の一人で、年長の方の弟だった。細川家は分家に長岡姓を与えていたので、長岡紀雄と名乗っていたのである。

「紀雄殿を養子にすることに異存はありませんが、殿の葬儀の後にしてくれませんか」

「それはできませぬ。末期養子は当主の生きている内に幕府へ届け出さねばならぬのです」

「殿はお亡くなりになっているではありませんか」

「殿はまだ生きていることになっておりまする。亡くなったということになれば、細川家は無嗣断絶、改易は免れませぬ。お家のため、この場でご承諾ください」

 友姫は殿の死を悼むこともできないのかと嘆きながらも、承諾した。

 熊本藩はすぐさま宗孝の名で養子願いを作成し、幕閣に届けた。


 その日の夜、判元見届のための幕府役人が熊本藩上屋敷を訪れた。

 役人は、布団に寝かされている宗孝とその側に控えている友姫や重臣を認めると、用件を伝える。

「細川越中守様から提出された養子願いに、間違いがないか確認しに参った」

 一同が頭を下げた後、友姫が進み出る。

「正室の友でございます。お役目ご苦労様に存じます」

「この度はご災難のことでござった。大変な時に申し訳ないが、お役目でござれば、越中守様に質問させていただく」

 役人はそう言うと、宗孝に向かって問いただす。

「細川越中守に問う。弟の紀雄を養子にすることに相違ないか」

 友姫が宗孝の口元に耳を近づけ、答える。

「相違ありませんと申しております」

「承知した」

 役人は一言発すると、立ち去った。

 宗孝が亡くなっているのは明らかだった。それでも、役人が疑義を挟まなかったのは、幕閣から「末期養子を認めよ」と命じられていたからであった。幕閣は「誤認で背後からいきなり斬られてお家断絶になるのは、あまりにも気の毒」と同情し、早々に養子を認めることにしたのである。

 宗孝の死亡は翌日に届けられた。細川家の家督は紀雄が相続し、熊本藩6代藩主となった。熊本藩は消滅の危機を乗り越えたのである。


 板倉勝該の取り調べは、岡崎藩に預けられた後も続いた。同時に、関係者にも聞き取りが行われ、事件の真相が探られたのである。

 勝該の兄・勝丘の死に際し、幕府から派遣された検使は「外見に以上がなく、死亡に至った状況から心の蔵の病によるもの」と、語った。

 勝丘の正室・藤姫は「勝該殿が2度も乱心したため、当主は務まらないと判断し、隠居を勧めました」、「養子を迎えるなら、高い地位の子息の方が良いと思い、若年寄様に4男を養子に欲しいと願ったことがあります」と、証言した。

 勝該の正室・菊姫は「大事な婚礼を滅茶苦茶にされ、殿に嫌悪感を抱いていました。子を作ろうとは思っていなかったので、養子を迎える話に賛成したのです」と、話した。

 勝清の屋敷で行われた一族の会議に出席した者たちは「養子の話は出たものの、一族の総意で修理殿を隠居させると、乱行が公になるので、それは避けるべきとなり、結局宗家が修理殿に注意するという結果になった」との内容を語った。

 宗家の板倉勝澄は「若年寄様の本音を斟酌し、修理殿に隠居を勧めたのであって、若年寄様に指示されたものではない」と、証言した。

 若年寄の板倉勝清は「分家の乗っ取りを画策したと言われるが、そのつもりなら勝該殿に縁談の世話をする訳がない。毒殺に関しては、荒唐無稽である。もし、毒を用いて乗っ取りをするなら、まず勝該殿を殺害してから、勝丘殿に養子を斡旋する方が理にかなっている」と、全否定した。

 幕閣は、それぞれの証言に齟齬がなく、乗っ取りの計画は無かったと判断した。隠居の件については「殿中で刃傷沙汰を起こす人物である。一族が心配して隠居させようとするのは当然である」としたのだった。事件は乱心癖がある勝該が妄想で起こしたものと結論され、切腹と決められたのである。


 8月23日、岡崎藩邸の庭には、白い幕が張られ、屏風が立てられていた。

 幕府から派遣された検使の目付が幕の中に入ると、熊本藩から派遣された見届け人が続いて入って行く。

 見届け人は介錯人を目に留めると、近寄って言った。

「熊本藩の見届け人である。すまぬが、この刀を使ってくれぬか」

 見届け人は豪華な拵えの刀を介錯人に手渡そうとしたが、介錯人は怪訝な表情を浮かべて受け取らない。

 この刀は、細川宗孝の刀だった。友姫が「殿は背後から突然斬られ、脇差しを抜く間もありませんでした。反撃もできず、武士として、さぞ無念だったでしょう。だから、せめて殿の刀で一太刀浴びせたいのです。そうすれば、殿の無念も少しは晴れるでしょう」と言って、見届け役になった家臣に渡したものだった。

「訳は聞かないで欲しい。これで介錯して欲しいのだ。頼む」

 異例のことだが、介錯人は気迫に押され、刀を受け取った。

 しばらくすると、白い小袖と裃を左前に着た板倉勝該が、幕内に連れられて来た。血の気が引いている。勝該はふらつきながら屏風の前に座った。

 勝該の前に酒を載せた膳が運ばれ、「盃の酒を2杯を飲むのがしきたりでござる」との言葉と共に、酒が注がれる。勝該は震えた手で盃を取り、2杯の酒を一気に飲んだ。

 膳が下げられると、三方が運ばれて来た。紙で巻かれた短刀が載せられている。介錯人が勝該の左後ろに立った。

 勝該は、着物の襟を左右に広げ、短刀を見つめる。いざとなると、決心が付かず、短刀を見つめたまま時間か過ぎた。「そろそろ」と促され、ようやく右手で短刀を握ると、極度の緊張のためか、急に酔いが回ったようで、視界が歪んだ。目をつむると、鳶色の裃を着た武士の後ろ姿が現れた。その武士は振り向くと脇差しを抜いて上段に構えた。

(来るな。来るな)と心の中で叫んだ勝該は、その武士が近付かないように右手を無茶苦茶に振った。そして、右手を振り下ろしたとき、短刀が腹に刺さった。

 その瞬間、八双に構えていた介錯人が、宗孝の刀を振り下ろした。


<終わり>

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