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第2章 熊本藩主殺害事件 2−6 決行

 板倉勝該は、黒幕の板倉勝清を討つことに決めた。勝清を討つには、屋敷を出たときを狙うしかない。登城途中を襲うのが常道であろうが、警護の侍がいるので、大勢で襲わなければならない。しかし、多数の家臣を動員しようとすれば、家臣の中にいるかもしれない間者から、計画が漏れる可能性がある。だとすれば、勝清に警護が付かない江戸城中で討つしかない。勝清は幕閣なので常に城中に詰めている。勝該が登城したときに会うこともできるだろう。勝該は総登城の日に自分一人で襲うことにした。


 延享4年(1747年)8月15日、この日は月次拝賀の日である。在府の大名らが将軍に拝謁するために登城して来る。下馬所は、朝から大名行列が次々に到着し、ごった返していた。勝該の一行もその中にいたのだった。

 この時代、武家は家格で統制されていた。大名や旗本が登城した際に使う控えの間も家格によって決められていたのである。これは伺候席と言われ、本丸御殿にあった。本丸御殿には家臣を連れて入ることができず、伺候席には当主だけが座ることになる。

 板倉勝該が本丸御殿の玄関で従者と別れると、仙台藩6代藩主・伊達陸奥守宗村と鉢合わせした。勝該と宗村は同年代であったが、大身旗本と外様大大名、面識はなかった。勝該は会釈し、廊下の奥に向かったが、自分に割り当てられた控えの間には行かず、厠に隠れた。

 一方、伊達宗村は大広間に向かい、自分の席に着座した。目をつぶって時間が過ぎるのを待っていると、隣りに腰を下ろす者がいた。鳶色の裃を着た熊本藩5代藩主・細川越中守宗孝であった。

「兄上、お久しぶりでございます」

 宗孝は宗村に向かって悪戯っぽい顔をして挨拶した。

「越中殿、兄上は止めていただけませんか。越中殿は2歳も年上なのですから」

「義理とはいえ、兄であることに変わりませんよ。ところで、雲松院殿の三回忌には、友と共に参列させていただきますのでご承知ください」

「ご夫妻で参列していただけるとは。お気遣いいただき、ありがとうございます。温子も喜ぶでしょう」

 雲松院は戒名で、本名は利根姫、温子は結婚後に改名した名である。利根姫は紀州藩主・徳川宗直の次女で、将軍・徳川吉宗の養女になった後、伊達宗村に嫁ぎ、2年前に女児を出産して亡くなっていた。

 利根姫には、母を同じくする妹がいた。徳川宗直の四女の友姫である。この友姫は、細川家に嫁いで宗孝の正室になった。だから、伊達宗村と細川宗孝は実の姉妹の夫同士という関係であった。

 宗村と宗孝は他愛もない会話を続けたが、宗孝は「ちょっと厠へ」と言って立ち上がると、部屋から出ていった。


 勝該が厠の中に隠れていると、並んでいる厠の一つの戸が閉まり、足音がした。誰かが厠から出てきたようだ。勝該は厠の引き戸を少し開け、隙間から外をうかがうと、薄暗い廊下をゆっくり歩く鳶色の裃を着た男の後ろ姿が見える。首の後ろには、大きな白丸の周りを8つの小さな白丸が囲んでいる紋が薄っすら浮かんでいる。

(勝清だ! 今しかない)

 勝該は戸を音を立てずに素速く開け、脇差し抜いて勢いよく飛び掛かって、男の背中を斬り付けた。男の首から血飛沫が噴き上がる。男は「ウッ」と、小さく叫び声を上げて倒れた。

「俺と兄の恨み、思い知ったか」と、勝該はつぶやき、倒れた男の横顔を凝視した。

(こいつは誰だ?)

 家紋に目を移すと、九曜巴紋ではなく、九曜紋だった。

(間違えた。間違えて人を斬ってしまった)

 勝該は急に恐ろしくなった。足は震え、指からは力が抜ける。脇差しが床に落ちて転がった。勝該は走って逃げようとしたが、体が思うように動かない。這って厠の中に戻った。

 勝該が厠で震えていると、「ギャー」という大きな声がした。茶坊主が血を流して倒れている細川宗孝を発見し、驚いて上げた叫び声だった。

 茶坊主は「大変だ! 廊下で人が斬られている」とわめきながら、大目付けの控えの間へと駆けて行く。

 その声を聞いた伊達宗村らが大広間から出て探すと、血まみれの宗孝が廊下に倒れていた。

「越中殿、しっかりなされ!」

 宗村が宗孝を抱き起こして声を掛けるが、反応はなかった。周りには人垣ができている。

「熊本藩の家臣を呼んで参れ!」

 宗村に指示された茶坊主が慌てて駆け出すと、入れ替わるように、目付が状況を確認しにやって来た。目付は宗孝の手首を握って脈を取り、黙って首を横に振った。

「事切れております」

「大目付は来ぬのか?」

「大目付様は、御殿の出入り口を閉ざすよう指図しております。拙者は報告せねばならぬので、これにて」

 宗村の問に答えた目付は、転がっていた脇差しを持って立ち去る。

 しばらくすると、茶坊主に先導された熊本藩の家臣らが血相を変えてやって来て、宗孝を囲んで跪いた。

「殿、殿、目をお開けください」

 熊本藩の小姓頭が必死に声を掛け、他の家臣らは宗孝にすがり付く。しかし、脈と呼吸が無いのを確認すると、家臣らはうなだれて涙を流した。

 その様子を見守っていた宗村が叱りつける。

「その方ら、何をしている。早く藩邸に運んで手当をせぬか!」

「陸奥守様、殿は既に、既に身罷って……」

 宗村は小姓頭の言葉を遮る。

「越中殿はまだ生きておる。生きておるのだ」

「お言葉ですが、脈も息も……」

「まだわからぬか。越中殿は生きておらねばならぬのだ」

 その言葉で、小姓頭は気が付いた。宗孝に嫡男がいないということに。このままでは、無嗣断絶で、熊本藩は取り潰しになる。末期養子を届けてから、亡くなったことにしなければならない。

「殿を藩邸に連れ戻し、手当をする。急げ!」

 宗孝は外した雨戸の上に乗せられて運び出され、小姓頭が宗村に向かって深々とお辞儀をして去った。

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