第1章 江戸城について 1-1 江戸城の築城
「江戸城を建てたのはだーれだ?」
昔、こんななぞなぞが流行った。
「徳川家康!」と答えると、「ブー」と返ってくる。
「じゃ、太田道灌!」と答えても、「ブー」と返される。
答えに窮していると、得意そうに「答えは大工さんです」と言われるのだ。
これがもし、「上山城を建てたのはだーれだ?」だったら、山形県民以外は「上山城ってどこにあるの?」という反応になっただろう。それに、上山城の天守は、鉄筋コンクリート造の模擬天守だから、「答えは株式会社○○建設でーす」となっていたかもしれない。
このなぞなぞが成立するのは、誰もが江戸城を知っており、江戸城を建てたのが太田道灌と知れ渡っているからである。
一般的に太田道灌と呼ばれるが、道灌は入道名で、諱は資長である。
道灌は、江戸城を建てた人としか知られていないが、扇谷上杉氏の家宰だった。家宰とは、一家の家政を取りしきる役職で、筆頭家老のようなものだ。
家宰であった道灌は、古河公方と関東管領が利根川を境界に対立したため、康正3年(1457年)に江戸城を築城したのである。場所は江戸氏の館跡があった麹町台地で、皇居内の天守台がある辺りだったらしい。崖の上に建てられた城は3区画に分かれ、それぞれ子城、中城、外城と呼ばれていたとのことだ。
道灌は道灌の絶大な影響力を恐れた主君に暗殺され、江戸城は扇谷上杉家当主に接収されたが、後に北条氏の支配下になった。
小田原攻めで北条氏が滅ぶと、天正18年(1590年)8月に、徳川家康が駿府から江戸に入った。
この頃の江戸は、日比谷入江が江戸城近くまで迫り、江戸前島が江戸湾に突き出ていた。その周囲は湿地で、葦などが広がる原野だったという。集落もあったが、小さな規模だったと伝わる。
まず家康は、城を拡張し、その残土で埋め立てを始め、町づくりに着手した。大勢の家臣を住まわせるため、基盤整備をする必要に迫られたのだった。
江戸城は豊臣政権の大名の居城として築かれていたが、家康が征夷大将軍に任命された慶長8年以降、将軍の居城として本格的に築城され始める。諸大名が天下普請に動員され、江戸の大改造が行われた。天下普請は軍役と同じで、拒めば改易であった。
築城は大規模なもので、神田山は埋め立てのために崩され、堀や石垣が造られた。江戸城が完成したのは、寛永15年(1638年)でだった。江戸に幕府が開かれてから35年後のことである。
完成した江戸城は、内堀の内側の内郭と外堀の内側の外郭を持つ2重構造だった。内郭には、本丸、二の丸、三の丸、西の丸、西の丸下、吹上、北の丸が造られ、城の中心部を形成した。外郭には、武家屋敷や町家が建てられ、城下町となった。
内郭と外郭を合わせた範囲は、現在の千代田区と中央区の一部に相当し、日本一の規模の城郭が出現したのである。
ちなみに、天守は寛永15年までの間に3度造り直されている。
慶長12年(1607年)に完成した天守は、慶長度天守と呼ばれている。この天守は、鉛瓦葺き白漆喰壁の5重6階であったようだが、望楼型なのか層塔型なのかはハッキリしていない。
家康が死去してから6年後の元和8年(1622年)、2代将軍の秀忠が慶長度天守を解体し、新たな天守を元和9年(1623年)に竣工させる。この天守は、鉛瓦葺き白漆喰壁の層塔型5重6階であったらしく、元和度天守と呼ばれている。
秀忠が亡くなった5年後、今度は、3代将軍の秀忠が元和度天守を破却した。寛永14年(1637年)のことである。翌年に完成した層塔型5重6階の寛永度天守は、銅瓦葺き銅板張壁で、史上最大の天守といわれる。
将軍の代替わりのたびに建て替えられた天守であるが、建て替えは家光の代で終わった。
寛永度天守は4代将軍・家綱に引き継がれるが、完成から19年後の明暦の大火で全焼する。以後、江戸城に天守が再建されることはなかった。