NO.33 飲み込まれる前に
黒い霧が、梨亜の足元で渦を巻く。
息をするたび、胸の奥から引きずり出されるように、濃く、重く。
鈴菜は梨亜から目を逸らさず、
霧の中に入るように距離を詰めた。
触れれば危険だと、分かっている。
それでも、退かなかった。
「——神坂さん」
低い声。
戦闘中と同じ、迷いのない声音。
「それ、今のあなたの声じゃない」
梨亜の肩が、びくりと跳ねる。
「昔の場所から、引っ張られてるだけ」
黒い霧が、ざわりと逆立った。
「……っ」
梨亜の喉が鳴る。
何か答えようとしても、上手く言葉にできない。
鈴菜は続ける。
畳みかけるでもなく、逃げ道を塞ぐでもなく。
「……それが、あなたの本心なんだよね」
「その怖さ、放っとくと——連れていかれる」
視線が、ふっと揺れる。
梨亜の瞳の奥で、何かが怯えたように縮こまった。
それでも鈴菜は続ける。
「でも」
その一言だけで、空気が変わった。
「今、この場にいるのは——今のあなただ」
黒い霧が、一瞬だけ、揺らぎを失う。
「過去を消す魔法はない」
「戻される声も、止められない」
それは突き放す言葉だった。
甘さのない、逃げ場を用意しない現実。
——それでも。
鈴菜は、まっすぐに梨亜を見た。
「それでも」
「立つかどうかは、あなたが決められる」
沈黙。
次の瞬間、
黒い霧が“押し返される”ように、外へと膨れ上がった。
梨亜の胸が、大きく上下する。
浅かった呼吸が、初めて、深く吸い込まれる。
「……っ」
喉が震える。
だが今度は、過去の声じゃない。
自分の声だ。
視線が、ゆっくりと持ち上がる。
初めて、鈴菜を“見る”。
黒い霧は、もう梨亜を包み込めない。
その中心で、小さな、しかし確かな“意志”が灯った。
——選ぶ。
逃げるか、立つか。
縛られるか、踏み出すか。
その瞬間、
梨亜の内側で、何かが確かに“目を覚ました”。




