NO.32 現実に繋ぎ止める声
鈴菜は梨亜を連れて、呪術師から離れた場所に身を隠す。
2人はしゃがみ、鈴菜は片膝を立てて肩で息をする。
しばらくして深呼吸をし、梨亜の方を向く。
梨亜の両肩に手を置く。
呆然とする彼女は驚き、鈴菜を見る。
黒い霧を纏う彼女の目は濁り、くすみ、光を失っていた。
鈴菜は彼女のその様子に、口をつぐみ、苦い表情をする。
黒い霧に鈴菜の心にも入り込んでくる。
「ぐッ……」
(やっぱり直視するとキツイな……。
私が慌ててどうする、落ち着け……)
鈴菜は心から邪気を追い払うように、目を閉じ、再度深呼吸をする。
心は落ち着きを取り戻し、再度梨亜と向き合う。
(師匠なら、なんて言うかな)
汗が頬から流れ落ちる。
鈴菜は覚悟を決め、意思を固める。
そして慎重に言葉を選ぶように、落ち着いたトーンで一言一言、声にする。
「……神坂さん」
「その顔、限界だ。無理してる」
呼びかけは静かで、強さも弱さも含まない声だった。
「理由は聞かない」
「でも——その状態、放っておけない」
一瞬、黒い霧がざわりと揺れる。
「そのままだと、あなたが壊れる」
責めるでも、慰めるでもない。
事実だけを告げる声。
一瞬、黒い霧がざわりと揺れる。
その言葉に反応したように、梨亜の呼吸が乱れた。
浅く、速く、うまく息が吸えない。
胸が詰まり、肺が空回りするようだった。
「……っ」
喉が鳴る。
何か言おうとして、言葉が形にならない。
視線が定まらず、鈴菜の肩口、床、遠くの壁へと彷徨う。
焦点が合わない。
黒い霧が、呼吸に合わせて揺れた。
梨亜は自分の胸元を押さえ、
何かを抑え込むように、唇を噛む。
「……私が、ちゃんとしてれば……」
声は小さく、掠れていた。
誰に向けた言葉かも分からない。
「……こんなこと……起きなかったのに……」
言い終えた瞬間、
自分でも驚いたように目を見開く。
(違う……これは私の声じゃ……)
否定しようとして、言葉が続かない。
代わりに、ぽつりと零れた。
「……また、できてないって……」
喉の奥が震え、息が詰まる。
「……言われる気がして……」
“今”ではない。
ここにもいない誰かの声。
それが、確かに耳元で囁いた気がして、
梨亜の肩がびくりと跳ねた。
黒い霧が、感情に呼応するように濃くなる。
鈴菜は顔をしかめる。
魔力探知をしなくても明らかに、負の感情に支配されている。
彼女をなだめるように口を開く。
「神坂さ——」
「……また戻っちゃう……あの家に」
続くはずの言葉は途絶えた。
その言葉に、鈴菜の中で何かが微かに軋んだ。
ほんの一瞬、視界が揺れる。
——暗く狭い部屋。
閉じた扉。
誰かの声。
だが、内容を結ぶ前に、映像は砂のように崩れた。
鈴菜は一度だけ瞬きをする。
胸に残るはずのざらつきは、もうない。
(今のは——)
そこまで考えたところで、
思考が、唐突に途切れた。
まるでテレビの電源を落としたかのように。
理由を探そうとしたはずの意識は、
次の瞬間には「今は梨亜を見るべきだ」という結論だけを残す。
鈴菜は小さく息を吐き、
何事もなかったかのように、梨亜へ視線を戻した。
——そこにいる梨亜は、さっきよりも危うかった。
触れれば危険だと、感覚が告げている。
鈴菜自身もタダでは済まないと。
それでも、視線を逸らさない。
黒い霧は人の内側から滲み出る、感情の残滓。
このまま放置すれば、
彼女自身が霧に飲まれる。
鈴菜は低く息を吐き、声を落とした。
「——神坂さん」
名前を呼ぶ。
命令でも、叱責でもない。
ただ、現実に繋ぎ止めるための声。




