NO.26 沈黙の証明
あの日の夜は、いつもより家が暗かった。
屋敷全体の灯りが落とされていて、
廊下に並ぶ照明もひとつひとつ消され、
わずかな月光だけが黒檀の床に淡い筋を描いていた。
空気は凍りついたように動かず、
屋敷そのものが息を潜めているようだった。
音を立てれば、何かが崩れてしまう気がして、
私はそっと、慎重に歩を進めた。
長い廊下は、行けども行けども終わりが見えない。
ただ、足音だけが——
小さく、心臓みたいに、
コツ、コツ……と響いていた。
そのとき、
前方の扉の向こうから、
鋭く切り裂くような声が飛び出してきた。
「——もうやめて! 梨亜はまだ子どもよ!!」
私はびくりと肩を跳ねさせ、
その場に硬直した。
お母さんの声だ。
でも、それは私が知っている声じゃなかった。
いつもみたいに優しく包んでくれる声じゃない。
震えて、掠れて、追い詰められた人の声だった。
私は無意識に走り寄り、扉の前で足を止めた。
怖くて逃げたいのに、耳が離れなかった。
身体が勝手に震える。膝が笑う。
でも、立ち尽くすしかできなかった。
「才能だけを見て何になるの!」
「この家は……子どもの心を壊してまで守る価値があるの!?」
お母さんの言葉が、途切れ途切れに聞こえる。
すぐに、お父さんの声が被さった。
低く、濁っていて、怒りで軋んでいた。
その声は、壁を挟んでいても刺さるほど鋭かった。
「神坂家に生まれた以上、弱さや甘さは許されない――!」
父の声は、空気そのものを裂き割くようだった。
低いはずの声が、怒りに焼かれ、荒れ狂うように響き渡る。
「お前はアイツを甘やかすだけではないか!」
机を叩く鈍い衝撃が、床まで震わせた。
重厚な木が悲鳴を上げるように軋み、
壁に掛けられた肖像画がかすかに揺れた。
言葉ではなく、
怒りそのものが形になって叩きつけられたようだった。
全てをねじ伏せ、
反論さえ許さない圧で満ちていた。
父の怒号が室内を震わせた直後、
それに呑まれそうな空気を切り裂くように、母の声が響いた。
「私は——守りたいの!! 梨亜を!!」
震えではなく、決意の震動だった。
胸の底から絞り出すようで、
それでも力強く、ひとつも揺らいでいない。
「家の名よりも、力よりも、
あの子の心を——!」
母は一歩も引かなかった。
父の怒気が押し寄せても、
体を震わせるほどの圧が襲いかかっても、
その瞳はまっすぐだった。
炎のように強い光を宿し、
たったひとりの味方として立ち続けていた。
部屋の空気が、凍りついたように静止した。
怒りも威圧も、その瞬間だけ色を失ったほど、
母の叫びは真っ直ぐで、澄んでいた。
幼い耳にも届くほどに。
——私は守りたい。
その言葉だけが、
夜の暗闇の中で確かな灯火になっていた。
その夜の記憶は、そこで途切れている。
怒号と、母の叫びと、震える空気。
それ以上は思い出せない。
どこで眠ったのかも覚えていない。
ただ——
次に目を覚ましたとき、
世界は、昨日とまるで違っていた。
朝の屋敷は、いつも以上に静かだった。
誰も話さず、誰も歩かない。
足音すら、空気に吸い込まれて消えていく。
胸の奥がざわざわして、
私は気づけば走っていた。
一つの部屋に向かって一直線に。
——その扉は、私を招くように細い光を覗かせていた。
指先が勝手に震える。
嫌な予感が、心臓を掴んで離さなかった。
かすかに触れた扉は、音も立てずに動いた。
部屋の中は、いつもよりずっと広く見えた。
そこにあったはずのもの——
机の上のカップ、鏡台に並んでいた小物、
タンスの中の服、香水の匂い——
全部、跡形もなく消えていた。
白いカーテンだけが風に揺れていた。
理解するより先に、
鼓動がぐしゃりと潰れるような痛みに変わった。
吸う息も浅くなって、胸がぎゅっと縮む。
喉が細く細く締め付けられて、
声が通る場所なんてどこにもなくなっていた。
声にならない思いが、胸の内側で軋んだ。
探しても探しても、
どこにも、そこにあったはずの温かさがなかった。
枕元の小さな引き出しに、
ひとつだけ紙切れが残っていた。
——触っただけで、涙が滲む。
でも、字を読む前に、気づいてしまった。
この部屋は、もう誰の部屋でもない。
唇が震え、声にならない息だけが零れた。
「お母さんは……追い出されたんだ……」
それは呟きというより、
凍りついた心が軋んで漏れた音だった。
膝が勝手に折れて、
冷たい床に手をついた。
——どうして、誰も私たちを助けてくれなかったの。
——どうして、誰も止めようとしなかったの。
その瞬間、
家の中に味方が1人もいないことを、
幼い私は、初めて理解した。
そして胸の中に、
どうしようもない静かな叫びが生まれた。
置いていかれる痛みよりも、
誰も抱きしめてくれない孤独の方が、ずっと苦しかった。




