杉並大学探偵事務所サイドストーリー
風が頬をなでていく。
ほのかに土の香りがする、春の風だ。日差しは強くて、わたしはブルーのサングラス越しに遠くの山に目を細めた。
あれから1年。
もう1年も過ぎてしまった。彼がわたしの元から消えて、ちょうど1年。
鳥がさえずる河原で、わたしは、ぼうっと川面を見ていた。彼の故郷は、もうすぐなのだ。
ふと、そのことが頭の中で響く。
もうすぐ、彼に会える、のだ。
でも、それは、決して楽しい再会にはならない。なるはずがない。
河原には、草の匂い。青臭くて水っぽい。そっと手を伸ばし、投げ出した足の間の草を一掴み、千切った。
「食べたら、にがいかな」
馬鹿なことをつぶやいて、投げ捨てた。そういえば、食事をしていないことに気が付く。
わたしは、ふっと笑う。お金が無いわけではないのだ。どこでもいい、マクドナルドでも夢庵でも、好きなところへ行けばいい。ここで雑草を口にする必要はない。ずれた思考回路が、わたしが現実逃避を始めたことを告げる。
深いため息をついて、わたしは振り返る。
そこには、メタリックブルーのバイクが一台。わたしの大きな荷物をシートに括り付けて停まっている。
借り物の、青いバイク。アストが心配そうに「奈々、倒すなよ」とキーを貸してくれた。わたしの心配をしていたのか、それともバイクを心配していたのだか。
いずれにしても、それの区別がつかないのが彼の悪いところ。
その点、洋一はストレートだった。わたしのことを心配する時は、はっきりとそう言った。突き放す時も、はっきりだったけど。
あれから1年。
最後に、突き放されて、1年。
ヘルメット越しにプラスチックのメーターが写った。
風は、まだ冷たい。牛革のジャケットを通して体温を奪っていく。日が暮れかけていた。
まだ、わたしはたどり着かない。
「奈々、来なくたっていいんだ」
そう、彼なら言うかもしれない。自分のことよりも、まずはわたしのことを考えてくれた人だから。でも、確かめることは出来ない。
道路が果てしなく続けばいいのに、とわたしは思う。
彼に会うために走り続けられればいいのに。静かな排気音を立てて、ホンダのエンジンが回る。
アストも、預かり物だがな、と言っていた。うちの大学は、なんのキャンペーンだか、海外留学生を送り出すのに熱心だ。アストは妙に機械に詳しいから、海外留学中の1年間、知り合いのバイクを預かっているらしい。ついでに、直しておいてくれ、と。
お金の無い学生だから、お店で修理するよりもアストにやってもらった方が安く済むってわけだ。アストのVTと同じエンジンだというし、アストも軽く請け合って整備をした。それが済んだ頃に、わたしがバイクを貸せと、と言ったらしい。
春休みに、わたしは彼のところへ行く。
そういうと、彼は諦めたようにバイクのキーを差し出した。
「ただし、オレのは貸せない。整備するから。春休みの間にやっておきたいんだ」
「そうなの?あんまり重たいのは駄目だからね」
「大丈夫だよ。それはオレのと同じエンジン。250だから」
「でも、重たいのはいやなの」
「大丈夫だって。女の子にも人気のあるバイクだよ」
そういって、メタリックブルーのバイクに案内してくれた。彼は、このバイクの名前を教えてくれたけれど、わたしは忘れてしまった。
バイクで無くてはならない理由なんてなかった。カローラバンでもなんでも良かった。電車やバスでない方法なら、何でもよかったのだ。
電車では目的地に必ずついてしまうから。わたしは、本当は行きたくないと思っていたのかもしれない。
日が暮れて、わたしはバイクを停めた。
道に迷ったのかもしれない、とわたしは思う。まともに地図も確認せずに走ってきたから、ひょっとしたら通り越したのかも。
ヘッドライトの光で地図を読む。でも、そこがどこなのか、本当のところ、わかっていなかった。自分がどこにいるのだか、それがわからずにいたのだ。
わたしは、ため息をつく。
今日はたどり着けないかもしれない。それに、たどり着けたとしても見つけることは出来ないかもしれない。
わたしは、再びため息をつく。
長時間の高速道路で、わたしは疲れていた。
風除けのプラスチックが付いていたけど、足の方は冷えてしまっていた。少し、頭痛がして寒かった。
今日は無理だ。
体調も良くないし。
予約したホテルに行って、明日の朝に行こう。彼なら待っていてくれる。いつまでだって待っていてくれる。わたしが行くまで、待っていてくれる。
地図をシートに括り付けた荷物の中へねじり込んで、バイクに跨った。
とりあえず、元来た方へUターンしなくちゃ。
大きく息を吐き、自分に引き返すことを納得させる。今日じゃなくてもいいんだ、とわたしは自分に言い聞かせる。
「うん」
ヘルメットの中で、そう一人つぶやくと、わたしはバイクのギアを1速に入れた。そろそろと走り出し、ゆっくりとハンドルを切る。じりっとタイヤが砂を噛む音がして、向きを変え始める。と、ふっと重心がずれた。
「あ」
とっさに左足を地面につこうとして、空振りした。そのままバイクは傾いていって「ガシャン」と音を立てて倒れた。
何が起きたのか、一瞬、わからなかった。
首を5センチほどひねると、我に返った。アスファルトが目に入ったからだ。暗い道で、バイクが倒れてわたしも地面に横たわっていた。
「あ」
慌ててバイクを起こそうと、まずは自分が立ち上がろうとして、体をひねったら、足がバイクと地面の間に挟まっていた。バランスを崩して、もう一度倒れ込む。
今度は、腕の力で体を引き起こし、体をひねるようにしてバイクから足を引っぱり出した。
ジンジンとくるぶしが燃えるように痛かった。
我慢して、バイクに近寄る。エンジンが掛かったままで、まずはそれをハンドルのスイッチで切る。
ハンドルと荷物に手を掛けてバイクを起こそうと力をこめた。だけれども、それは10センチほどしか浮き上がらず、ずりずりと滑ってわたしは尻餅をついた。
「どうしよう」
そう思ったものの、交通量の無い郊外の道路。ヘルメットを脱ぐ。
助けてくれそうな人の姿どころか、猫の子一匹見当たらなかった。すでに暗くなっていたから、猫の子の目も見当たらなかったというべきかも。
でも、その時はそんな冗談を考えている暇も無く、ただ焦っていた。
何度かバイクを引き起こそうとして失敗。
途方に暮れかけた時、背後で自動車が停まった。
「なにしてるの」
そういう声は若かった。どこか、うれしそうでさえあった。
わたしが振り向くと、そこには車の窓から顔を出した男の姿があった。車は大きなバンのような感じで、ギラギラしためっきがかかっていた。なんだか、ちょっと嫌な予感がして、わたしはバイクに向き直り、最後の力を振り絞るようにしてバイクを持ち上げた。
手をかけた場所が良かったのか、奇跡的にゼルビスは立ち上がった。立ち上がった瞬間、何故だかバイクの名前を思い出したのだ。
「動くの、それ。送ろうか」
そういう声で、再び振り向くと、顔が増えていた。後ろのドアが開いて、そこから二人、男が降りてきていた。
「あの、いいんです。帰れますから」
地面に置いていたヘルメットを持ち上げ、バイクのスターターを回す。キュルキュルと回ったけれど、エンジンはかからなかった。そういえば、前に洋一が言っていた。倒してすぐはかからない、て。
「やっぱり駄目じゃん。乗りなよ、送るから」
何処へよ?とわたしは思う。
「いいの。しばらくしたら動くようになるから」
ちらっと、バイクの方を見ながら、そう言い返す。目立った傷はなさそう。荷物を積んでいたから、それが緩衝材になったのかも。
「しばらくしたらって、勝手に直ったりしないでしょ?」
嘲笑うかのように、降りてきた男が言う。年齢は若い。ひょっとしたら、22歳のわたしよりも。
「髪長いね」
もう一人が、意味も無くそう言う。
「ヘルメットで隠すのもったいないね」
わたしは、ちらっとそっちを見て、それからヘルメットを被った。
「顔見せてよ。何処行くの?」
バイクに跨って、わたしはスターターを回す。やっぱり、だめ。
「だから、駄目なんだって。遊びに行こうよ」
そう言いながら、一人は、バイクの正面へと移動する。わたしは、再びスターターを、アクセルを全開にして回した。
パーン、と大きな破裂音がして、それからゼルビスのエンジンが勢い良く回った。音には驚いたけれど、何処にも異常な感じはしない。
「うひょー、マフラーから火、吹いたよ」
そうなの?わたしは、ちょっとだけ不安になったけれど、正面にいる男に向かって叫んだ。
「どいて。助けてくれてありがとう。もう平気だから」
「そう?お礼に遊んでよ」
なんの礼なのよ、とわたしは思う。さすがにエンジンのかかったバイクの正面は怖かったのか、男は正面から移動して、わたしの腕を掴んだ。わたしは、さっとそれを払いのけると、クラッチを切り、ギアを入れた。
「待てよ」
そういう声が聞こえたけれど、わたしは待たない。アクセルを開けると、そのまま走り出す。と、何かに引っかかったような感触がした。バイクが傾くけれど、わたしはさらにアクセルを開けた。荷物に、さっきの男が手を掛けたらしい。引きずられるようにして男は倒れた。わたしはバックミラーで、それをちらっと見たけれど、構わずに走り去った。立ち止まったら、余計に面倒なことになりそうな気がした。
走り始めてから、方向が逆だということに気がついた。
Uターンに失敗して倒したのだから、そっちが逆なのは当たり前だ。
しばらく行って、今度は慎重にUターンする。ついた左足はひどく痛んで、ずきずきとした。ギアを切り替えるたびに、ズキっとする。
さっきのところまで来ると、まだ彼らはそこにいた。ヘッドライトの明かりの中で、一人がこっちを指差していた。わたしは冷や汗をかきながら通り過ぎる。バックミラーに、彼らの車のテールライトが写った。ピンク色をしていた。
すっかりと日が暮れて、あたりは真っ暗だった。
田舎の道なのだ。道路はたしか、県道だった。割と幅の広い川に沿って、少し蛇行しながら続いている。進行方向には、街の明かりが見えていて、おそらく迷わずにたどり着けそうな気がした。
と、その時、バックミラーの中で光が瞬いた。
思わず振り替えると、まぶしくて目が眩みそうになった。ヘッドライトを上向きにした、さっきの車がすぐ後ろにまで迫ってきていた。まぶしくて良く分からなかったけれど、助手席の窓から顔を出しているように見えた。
わたしは、ぞっとしてアクセルに力を込めた。ゼルビスはゆっくりと速度を上げる。後ろのヘッドライトは、さらに近づいてきて、わたしは背中に光を感じるような気がした。
慌てて、ギアを3つくらい落とす。
アクセルを捻れるところまで捻って加速させる。ぶわん、と身を震わせるようにして回転計の針が急上昇した。バックミラーの中で、急に光が小さくなる。ヘルメットにかかる風圧が急に強くなった。わたしは、それでもさらに加速させる。回転計の残りが無くなって、ギアを上げる。もう一度、アクセルをストッパーまで回し込む。
洋一のFZRに比べれば、迫力にかけるエンジン音だったけれど、力強くエンジンがアスファルトを蹴りたてた。そこでアクセルを戻す。
百キロくらいの速度で安定する。
妙に安心感のある安定性で、ゼルビスは走り続けていた。
再びバックミラーに上向きの光が入ってきた。
「なんて諦めの悪い・・・」
わたしは、ため息をついた。百キロも出しているのに追いついてくるなんて。わたしは再び、ギアを二つ、落とす。
わたしは、慣れているのよ。
伊達に3年以上も探偵をやってないの。それに、洋一が教えてくれたから。彼のFZRが教えてくれたから。4速のギアで全開にする。1万回転を超え、回転計の最後の二千回転で最後の力を振り絞るようにエンジンが反応することに気づく。アストは、このバイクをVTよりもパワーが無いって言っていたけれど、そうも思えない。
もう、後ろは見なかった。
5速でも1万回転以上まで回し、最後のギアへシフトアップさせた。
加速がにぶる。百五十キロを超えたあたりで、それ以上の加速をしなくなった。コーナーが迫り、ブレーキをかけ、ギアを落とす。ストレート。
再び加速する。今度は赤いところへ入るまで回し、6速へアップした。エンジンは壊れそうな音を立てていた。でも、振動は無い。
「まだいけるわ」
そんなスピードが必要なのだ、とは思ってはいなかった。でも、わたしはその時、そうするべきだと思っていた。
わたしは、何から逃げたかったのか、思い出してみてもわからない。
ただ、あの男達から逃げ出したかったというよりも、そうじゃない何か、しなくちゃいけない何かから逃げ出したかったのかもしれない。
コーナーが迫るたびに減速と加速を繰り返し、何台かの自動車を一瞬で追い抜いた。
街へ入って速度を落とした時、ふと我に返って寒気がした。何をやっているのだろう、とわたしは自己嫌悪に陥った。借り物のバイク、目的を達せなかった、今日一日。何もかも無駄にした一日。
そうやって、呆然として、気がつくとホテルの前にいた。
痛む足を引き摺りながら、バイクを停め、チェックインする。
部屋に上がってジャケットを脱ぐと、ひじも擦りむいていることに気がついた。
「女の子なんだからな」
父親が、そうぼやくのが聞こえたような気がした。ジーンズを脱いでシャツも脱ぎ捨てる。安いビジネスホテルの電灯は明るくは無かったけれど、左足のひざの横と、くるぶしのあたりに血がにじんでいた。明日には真っ青に色が変わるだろう。しばらくは、誰にも見せられないわ、と思う。そう思ってから、見せる相手もいないことに気がついて苦笑した。
洋一には、見せてあげてもいいけれど、明日は無理だ。そんな場所ではないし。
シングルベッドに腰掛けて、部屋を見回す。飾り気の無いミルク色の壁。カーテンの向こうは窓だろうか。四畳半ほどのスペースにベッドと鏡付きの狭いデスク。
テレビは、その上に置かれている。有料放送付きのテレビ。一瞬だけ、見てみたい気もしたけれど、すぐに思い直す。ああいうビデオは、男性の視点で作られていて、女が見ても面白くないのよ。
でも高校生の頃、少しだけ付き合った男の子と一緒に見たことがあったな、と思い出す。
わたしは、最後まで見ずに部屋を出た。彼は引き止めようとしたけれど無駄だった。あれをするのは結果や方法であって目的じゃない。
別に目的だっていう人がいてもいいけれど、わたしは違う。そういうことが言葉にならなくて、彼とはうまくいかなかったけれど、別に後悔はしていない。わたしは後悔はしないことにしているの。
どこか埃臭い小さな部屋で、わたしは、じっと壁を見つめていた。
わたしは、どうしてここにいるんだろう。
眠れなくて部屋を出た。
足首と腕の傷にシャワーが染みて、バスルームを出る頃には頭が痛くなっていた。なんだかとても疲れていたけれど、ベッドに横になっても眠れなかった。
ロビーでタバコとビールを買って、エレベーターに乗る。タバコ臭い小さな箱は、振動しながら上昇を始めた。自分の部屋の階で扉が開く。ふと見ると、「R」のボタンが目に留まった。
「屋上?」
それを押して、箱の中に戻る。
そうやって、わたしは星空の中へ出た。
高い金網が張り巡らされたビジネスホテルの屋上。打ちっぱなしのコンクリートと壊れた椅子が一つ。大きなエアコンの機械が一つ。巨大なドラム缶のようなそれは、ぶーんと大きな音で動いていた。暗い足元を注意しながら金網のそばまで移動する。
エレベーターのボタンは11階まであったから、結構な高さだ。駅が近いとはいえ、繁華街から離れたホテルの周りは静かだった。自動車の走る音も、遥か下の方で留まっている。
すぐ近くの駅ビルには、いくつかのテナントのイルミネーションが瞬いている。ありがちなデパートのロゴや、文字の流れる電光掲示板。駅に電車が滑り込む騒音が、静かに聞こえてきた。ここから見える電車はオモチャのように小さい。あんな小さな電車に、どうやって乗り込むのかしら。
買ってきた煙草に火を付け、深く吸い込む。
途端に、むせた。今日はタバコも吸えないくらいに弱っているのかな。あきらめて火を消し、ビールを開ける。まるで中年サラリーマンみたい、と思う。ビールとタバコを持ってビジネスホテルの屋上で物思いにふけるなんて。
スルメのつまみが無いだけマシかも。
そんなものまで用意したなら、季節柄、単なるさみしい「お花見」だ。一人寂しい花見。
駅ビルの手前には、川が流れていて、そこには桜が植わっていたのだ。等間隔で明かりがついていて、ぼうっと白く浮かび上がって見えた。あの下には、たくさんの酔っ払いがいるんだわ。でも、その喧騒はここまでは聞こえない。
どのくらいそうしていただろう。
わたしは、ゆっくりと流れていく地味な夜景を見ながら、ただそこへ座っていた。
ただ、わたしは悲しかった。何故だか、とても悲しかった。
洋一は、もういない。明日、いや、時計の針は12時を超えていて、もう今日だったのだけれど、会いに行くことは出来ても、彼と話すことも顔を見ることも出来ない。
彼は死んでしまったからだ。あのFZRで彼は、死んだ。
そのことを口に出すことも、思うことさえも、わたしは耐えられなかった。だから、わたしは彼はいなくなった、とだけ思うことにしている。それが、誤魔化しでしかないということは、ちゃんと理解しているけれど、わかりたくないから考えない。
でも、そんなことではなかった。
わたしは、もうずっと悲しかったのだ。
彼が死んでしまうのよりも、ずっと前から、わたしは悲しかった。ただ、悲しかったのだ。性格として、人格として、わたしは悲しいのだ。そんな性格が、彼の死から1年経っても受け入れられないでいる理由かもしれない。
明滅する信号機が、遠くで誰も来ない交差点にさびしく立っている。
ブラックに塗り込められた地味な夜景は、いつものわたしの街のように感じるけれど、ここは洋一の生まれ育った街。ここには、彼の何かが残っている、そんな気がする。
いつになっても、わたしの考えはまとまらない。
悲しい気持ちが心の中で膨らんでいくだけ。
ぬるくなったビールを飲み干して、わたしはベッドに潜り込んだ。
機械仕掛けのモーニングコールを7時にセットして、わたしはベッドに潜り込む。眠れるはずは無い、と思っていたのに、わたしはいつの間にか眠ってしまう。
そして、わたしはまた夢を見た。
彼がわたしを殺す夢を。もう、どうやってそれをするのかなんて気にもならない。ただ、彼は首を絞めたり、ナイフを突き立てたりするけれど、それは気持ち良いような、苦痛のような、よくわからないまま、わたしは眠るように死んでいく。
本当は、死んでしまいたいと思っているのか、とそう思う。
夢を見ながら、それが夢だと知っている。自己分析がなんの役にも立たないのを知りつつ、それでも夢の中で自己分析をする。これは病気だ、と、わたしは気分が悪くなって目が覚めた。
電話が無機質な電子音で鳴っていた。
眠った気がしなかったけれど、夜が明けていた。
「奈々はいいよね、悲しがる理由があって」
そう言われたことがある。そんなこと考えたことも無かったけれど、そう言われてみるとそうかもしれない気がしてしまう。ちょっと考えれば、悲しがる理由も無く悲しがる方がおかしいと思うのだけれど、でもそうじゃないのかもしれないような気にもなる。だから、ひょっとしてわたしは、昔から悲しかったのかも、と思ったのだ。
もう、今となってはわからない。
バイクに荷物を括り付けながら、わたしは首を振る。
彼のことを「大した事じゃない」と考えるのはよそう。それも誤魔化しに過ぎない。事実は事実だ。彼の命日に彼に会いに行く、そういうことなのだ。一度も見たことのない、彼のお墓に会いに行く。
思わず、わたしはぞっとした。
ほんの1年前には、肌と肌で感じあっていた彼が、冷たい石の下に埋まっている。少なくとも一部は、そこに埋まっている。ものすごく恐ろしいことのような気がした。
バイクの傍らで、わたしは、どうしようもなく怖くなっていた。
天国で微笑んでくれるのなら、それもいい。幽霊になって出てきてくれるのも悪くない。でも、冷たい石の下で虫だか微生物だかに囲まれているのを想像するのは嫌だ。
わたしは、彼が火葬になったのかどうかさえも知らない。葬式には行かなかった。行けるような状態ではなかった。どうしようもなく怖くなって、わたしは呆然と立ち尽くした。
もう、どうしていいのか、わからなくて、わたしは立ち尽くしたまま。
わたしの洋一が、形の無い物へ変ったのではなくて、ただそこに存在したまま朽ちていく。そんな想像が頭の中で渦巻いていた。
わたしは、いったい何をしたくて、ここへ来たのだろう。わたしは恐ろしくて、怖くてたまらなくて、そして決心がつかなかった。