prologue
2006年
場所:レバノン南部
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空爆によって廃墟と化した建物が並び立つレバノンの街並み。民間人の姿はなく、静かな市街地にメルカバMkⅢとアチザリットAPCの履帯の音が響き渡る。
狭い道の中央を走る装甲戦闘車両とその両側の建物に沿って歩く歩兵。手に持つ配備されたばかりのまだ真新しいIMI製TAR-21タボールは、その近代的な見た目と相まって彼らがIDFの兵士であるという証のようである。
『静かだな…』
『ああ、嫌な予感がするぞ。』
『お前ら、私語を慎め。』
不安の言葉を口にする兵を、小隊軍曹が注意する。
レバノンの非国家軍事組織ヒズボラにより二人のIDF兵士を拉致されたイスラエル政府は、捕虜奪還のためレバノン南部へ越境攻撃を行った。
一般人に紛れるヒズボラは空爆だけでは無力化出来ず、対戦車ミサイルはIDFの装甲戦闘車両をことごとく破壊する。
ヒズボラの勢力下だった村落を占領下に置いても、状況は好転せず、遅々として進まない作戦に兵たちは不満を募らせていた。
兵と若い軍曹とのやりとりを横目にしながら、若い女性兵士が背負っている携帯無線機を担ぎ直す。
『どうしたマヤ。疲れたか?』
『大丈夫です。ご心配なく。』
マヤと呼ばれた三等軍曹は、小隊長から気遣われたのが気に入らなかったのか、素っ気なく返事をする。
小隊長は彼女の態度を特に気にしていなかった。そうか、と呟き視線を前に戻し、部隊全体を見渡す。斜め前方を歩兵と並走するメルカバMkⅢは時折砲塔を旋回させ警戒しているようだった。
ふと、正面のビルに目がいく。昼過ぎの太陽に照らされたコンクリートの無機質な壁に空いた多くの窓は、黒く塗りつぶされたように暗い。
ビルまでの距離は約500m。道路を正面から見下ろせる位置にあり、暗闇に紛れて奇襲するには絶好の場所にも思えた。
こういうときこそ人類が築き上げてきた文明の利器に頼るべきだろう。戦車に搭載された最新の光学監視機材ならばなにか有効な物があるかも知れない。そう考えている間に口はすでに動いていた。
『マヤ、戦車に正面500のビルの室内を光学機器で捜索せよと伝えろ。』
了解。とマヤが答えると、受話器型のPTTスイッチを耳にあてがい、指示された目標を確認するために顔を上げた、その時であった。生暖かい何かが彼女の顔に飛び散ってきた。
何が起きたのか理解できなかったが、崩れ落ちる小隊長を尻餅を付きながらも反射的に受け止める。
彼女の目に映ったのは既に息絶えた小隊長をの顔だった。彼女が被ったのは彼の脳髄だった。頭を撃ち抜かれた小隊長の生気の無い虚ろな瞳が自分を見つめているかのように錯覚する。
目が離せない。息が苦しい。声が出ない。
轟く銃声も、響く怒号も、彼女を呼ぶ声ですら聞こえていなかった。