未完エモーション(2)
「……言いすぎました」
耳元で静かに吐き出された声。
人込みの雑音の中でも、その声ははっきりとアタシに届いた。
アタシは両足に力を入れる。
いつまでも寄り掛かってはいたくなかった。
ほんの少し身を捩ってみても、由多郎さんの力は弱まらない。
止めてよ、抱き締めたりしないで。
ハルちゃんじゃなきゃ、嬉しくもなんともない。
……あぁ、そっか。
アタシ、やっぱりハルちゃんがいいんだ。
思わぬところで自分の気持ちを再確認出来て、アタシは深く息を吐き出す。
よかった。
アタシはハルちゃんを好きなんだ。
「離して」
「離したら、どこかに行ってしまうでしょう?」
アタシは、首を横に振る。
もう、大丈夫。
誰かを求める理由はないから。
「本当に?」
「えぇ」
頷いてもしばらくは、由多郎さんはアタシを解放してはくれなかった。
「僕に抱き締められて、嫌だと思いましたか?」
落ち着いた声が、ゆっくりとアタシの中に浸透していった。
アタシは、はっきりと頷く。
嫌だった。ハルちゃんじゃない人に抱き締められたくなかった。
由多郎さんは、ガラス細工を扱うように慎重で丁寧な手つきで、アタシの身体を離した。
アタシはそんなに脆くないと、怒ってやろうと振り返ったけど、出来なかった。
由多郎さんの乏しい表情の中で、二つの瞳がはっきりとアタシを睨み付けていたから。
怒ってる。
そして、心配してくれていた。
「自分の気持ちなんて、わざわざ抱かれなくても確認出来るでしょう? もう、こんなことは止めてください」
裕理くんから聞きましたよ、と由多郎さんは言った。アタシのどうしようもないクセは、ばれていたのね。
怒気を内包した声に、アタシは首を振ってみせる。
由多郎さんが眉をしかめたことなんか、無視をして。
「愛を確かめ合う手段って、抱き合うのが一番じゃない」
だってアタシたち女は、男を受け入れなきゃいけないのよ。そんなの、愛がなきゃ無理じゃない。由多郎さんにはわからないわ。だって男はただ入れるだけだもん。
一息で言い切り、アタシは一度深呼吸をした。
そもそも、アタシなんて放っておいてくれて結構なのに。
この人は、どうして。
「誰か抱き締めるのは、恋愛だけじゃなくて家族愛や友情でも出来るわ。でも、セックスは家族愛や友情では出来ないでしょ?」
だから、アタシは人に抱かれているときがその人を好きか嫌いかよくわかる。
同時に、今の恋人をどれだけ好きか思い知る。
そうしないと、自信が持てない。
こんなアタシは間違っている?
そんなの、わかってる。
「それが、春緒ちゃんを傷つけているんですよ」
苛立ちの交じった由多郎さんの言葉に、アタシも眉をしかめた。
そう、ハルちゃんを傷つける。
アタシの自己満足が、ハルちゃんを傷つける。
アタシは拳を握り締めた。
伸びた爪が手の平に刺さり、痛む。
あぁ、でもハルちゃんの心はもっと痛んでいるはず。
「止めたいわよ……」
唇を噛み締め、吐き出した言葉。
「っ、アタシだって、もう止めたいわよ! でも、わかんないの! 自分でも、なんでかわかんないのにやっちゃうの!」
止めたい。
そう、止めたいよ。
ハルちゃんを傷つけるこんな不毛な行為は、止めたい。
自分の愛情を信じられない自分が大嫌い。ハルちゃんを好きな気持ちに、一ミリでも疑いを持つ自分自身が情けない。
なのに、アタシは。
止まらない、繰り返す。
「そんなこと言うなら、助けてよ……!」
勢いで吐き出した救難信号。
「いいですよ」
由多郎さんは、あっさりと頷いた。
「…………は?」
アタシは由多郎さんを見上げる。
先程までの表情とは一転して、穏やかな微笑を浮かべた由多郎さんは、アタシの顎を軽く持ち上げ視線を絡ませた。
「春緒ちゃんへの想いが不安になったら、僕のところへ来てください」
「何で……」
由多郎さんは鼻先がくっつきそうな距離まで顔を近付け、優しい口調で言った。
「僕が奈津乃ちゃんを抱き締めてあげます」
話の流れに付いていけずに、唖然としながら由多郎さんを見つめていると、由多郎さんは無邪気な笑みを浮かべながらアタシの顎から手を離した。
「好きですよ、奈津乃ちゃん」
一限から三限までの授業を終え、アタシは食堂で今日提出のレポートを書き上げていた。
正面からは、ハルちゃんの苦笑混じりで優しい視線を感じる。
それだけでも、幸せ。
「どう? 終わりそう?」
「うん。なんとかなりそう」
「それ提出すればテストなしなんだっけ? いいなぁ」
逆に、このレポートを出さないと単位が貰えないってことなんだけどね。
それは口に出さずに頷いて、アタシは黙々と手を動かした。
後は最後に纏めるだけ。
今日は久しぶりにハルちゃんの部屋に泊まる約束だからと、アタシは書く速度を速める。
そもそも、ハルちゃんの部屋に行くことが久しぶりだった。
理由は単純。
由多郎さんと顔を合わせたくなかっただけ。
『好きです、奈津乃ちゃん』
あの言葉が、ホントかウソかわからない。
それが理由で会いたくないなんて意識しているみたいで嫌だったけど、会わずにすむならそれがいい。
だけど、あの日由太郎さんに言われた言葉はどれも正しいものだったから。
会いたくはないけど、あの人の言葉を胸の中で何度も何度も繰り返して、色々なことを考えた。
アタシは今日、ある決心を胸にハルちゃんの部屋へ行く。
それは一つの賭けでもあるの。
勝率はたぶん悪くない。
大丈夫、アタシの勘は当たるから。
「奈津乃、なんかいいことあった?」
「え?」
「嬉しそうだよ」
アタシは手を止め、自分の頬に触れる。
まさか、緩んでいたなんて。
でも、当たり前よ。
ハルちゃんがそこにいて、これから泊りに行くんだから、嬉しくないわけがない。
アタシは、にっこりと微笑んだ。
「ハルちゃんがいるから」
きょとんと目を丸くしたハルちゃんは、すぐにくしゃりと笑顔を浮かべた。
少し恥ずかしそうな微笑が可愛くて仕方ない。
待ってて、ハルちゃん。
こんなレポートさっさと終わらせちゃうから。
そして身勝手なアタシに付き合って、振り回されてほしいの。
変わりたいのは、本当だから。
だから、アタシに少し勇気を頂戴?
不確かで目に見えない愛を、無条件に信じる勇気を分けてほしいの。
久々のハルちゃんの部屋は何にも変わってなくて安心した。
ハルちゃんの髪から香るシャンプーの香りが自分の髪からしているだけで、幸せな気分に包まれる。
アタシ専用の黄色いパジャマも相変わらず。
お気に入りのクッションも、テレビがよく見える位置に置かれたまま。
何一つ変わらないハルちゃんが愛しくて、嬉しい。
だから、アタシが変わるの。
アタシのために変わらずにいてくれるハルちゃんのために、アタシは頑張る。
まだ売れていない芸人の面白くもない深夜番組。
アタシはリモコンに手を伸ばし、電源を押した。
ぶつり、と途切れる映像。
訪れたずしりと重い沈黙。
「奈津乃……?」
寝呆け眼でハルちゃんが首を傾げた。
ぼんやりとした瞳に力強さはなく、アタシは吸い寄せられるように薄く開いた唇を塞ぐ。
「ん……」
少し寝ちゃっていたのかしら。
半開きの口から漏れる甘い吐息に、アタシの理性は暴走寸前。
アタシは慎重にハルちゃんの頬に右手を添えると、左手を背中に添えて、ゆっくりと焦れったい程丁寧にハルちゃんの身体を傾けていった。
あぁ、もう駄目。
こういうことがしたかったんじゃなくて。
アタシは一度頭を冷やそうと、ハルちゃんから唇を離し思い切り頭を振る。
ようやく目が覚めたのか、ハルちゃんは目を擦りながらアタシを見上げた。
「奈津乃……どうしたの?」
「ハルちゃんが、可愛過ぎて」
苦笑を浮かべてみせれば、ハルちゃんもつられて緩く微笑んだ。
アタシは両手をハルちゃんの首へと回すと、そのまま隣に寝転んだ。
「わっ!」
驚きつつも、ハルちゃんは手を伸ばしてアタシの身体を抱き締めた。
アタシは嬉しくて、ハルちゃんにしがみつく力をぎゅっと強めた。
お互いに床に寝転んで、間近で見つめ合う。
ハルちゃんの視線はいつも優しくて、安心する。
その瞳に守られながら、アタシは生きているの。
「ハルちゃん、アタシもう止める」
ハルちゃんの丸い瞳が何度もまばたきを繰り返した。
「好きでもない男に抱かれるのは、止める」
不意に、ハルちゃんの手がアタシの頭を撫でた。
何も言わないハルちゃんは、無理しないでいいと表情で語っていた。
無理なんかじゃないよ。
アタシは首を振る。
「ずっと、間違ってるって気付いていたのに、アタシはそれを止める努力をしてこなかった」
今まで付き合ってきた人は、向こうからの告白ばかりだった。
だから余計に自分の気持ちに自信なんてなかった。
でも、それはただの自分勝手。
アタシは相手の気持ちなんて考えてなかった。
恋人が知らない男と寝て、気分がいい人なんているわけないと、気付いていながら知らないふりをした。
人を思いやれない我儘なアタシは、ただの子供。
もう、今年で二十歳になるのに、まだまだ子供だなんて格好悪いよね?
それに、もうハルちゃんを傷つけたくない。
他の男が付け入る隙なんて、あげない。
こんなにもハルちゃんを好きだと思う気持ちは、一時の気の迷いかな?
女の子にある友達を好きな気持ちを恋愛と錯覚してるだけかな?
アタシなんかが、誰かを愛せるわけないのに。
どうして、そんな決心をしたの?
心の中の弱いアタシがアタシを惑わす。
「聞いて、ハルちゃん、話、お願い」
文法なんて無視した無秩序な言葉の羅列。
ハルちゃんは一度だけ頷いて、アタシの身体をぎゅっと抱き締めた。
アタシは、父親の顔を知らない。
母はアタシに似て、愛情を信じられない人だった。
ただ、アタシは自分の愛を。
母は他人の愛を。
そういった違いはあったんだけど、どちらも愛情というものが欠けた人間であることは変わりなかった。
子供の頃の記憶はひどく曖昧で、モノクロな映像ばかりが浮かぶ。
アタシなど興味のない母。
母が連れてくる恋人は、アタシに優しくはしてくれなかった。
気性の荒い人で、母は「ワイルドで素敵」だなんて喜んでいたけど、そいつはただの暴力男だった。
帰る場所は結局家しかなかったから、アタシはいつも図書館や本屋で出来る限り時間を消費した。
少しでもいい。
家から離れていようと。
「……お父さんは?」
恐る恐る尋ねたハルちゃんの頬をそっと撫でる。
哀しい顔、しなくていいよ。
知りたいことは全部聞いて。
アタシは今日、その覚悟でここに来たんだから。
そう言って笑うと、ハルちゃんはその顔を益々哀しさで歪めた。
だから、そんな顔、望んでないよ。
「奈津乃の経験を共有出来るわけじゃないし、奈津乃の辛かった気持ちをわかるなんて思い上がったことはいえないけど、奈津乃の苦しさを想像したら、私だって辛いよ……!」
アタシのために、泣きそうになるハルちゃんが、目の前にいる。
胸が締め付けられる。
不謹慎だけど、嬉しい。
いくら恋人でも、結局は他人だから完全な理解なんてありえない。
だけど、そんなこと言って理解する努力を怠るようなカップルは、一生わかりあえないわ。
わかってほしいと伸ばしたアタシの手を、ハルちゃんは何の躊躇いもなしに取った。
他人の中に入る恐ろしさなんて知らない子供のように、無垢な心がアタシを受け入れる。
「アタシのお父さんは、妻子持ちだったんだってお祖母ちゃんが言ってた」
「それって……不倫?」
「えぇ。不倫愛で出来た子供がアタシ。母は子供を理由に結婚を迫ったけど、結局逃げられたんだって。……その恨みが、ぜーんぶアタシにのしかかっちゃった」
肩を竦めて見せたアタシに、ハルちゃんは大きな瞳を潤ませた。
だけど、すぐに片手で豪快に目元を拭うと、力強い瞳をアタシへと向けた。
「続き、話して。何でも、聞くから」
アタシはただ頷いて、ほんのりと湿ったハルちゃんの手を取り、指先を絡め合わせた。
本当は、こうやって指先からすべて伝わればいいと思ってる。
アタシが思うこと、一寸違わず確実にハルちゃんへ届けばいい。
それを無理だとわかっているから、アタシはアタシを百パーセント伝えるために言葉を選ぶ。
針に糸を通すように、慎重に。
震える指先で、話した。
「アタシ、母親に抱き締められた記憶ってないの。中学までずっと一緒に暮らしてたのに、一度もないの……」
「奈津乃……」
「それを言い訳にするのはずるいかもしれないけど、アタシ、だから愛情ってわかんない」
ハルちゃんの指先に力が籠もった。
震えるアタシの指先を包むように、強く。
絡められた指先が燃えるように熱いこの感覚を、人は恋情と呼ぶのかな。
大きくて黒い瞳が揺れながら、細められた。
ハルちゃんの瞳の中に、アタシが見える。
アタシ、泣きそうな顔してた。
「わからなくてもいいんじゃないかな」
ハルちゃんは、穏やかに微笑む。
母性に満ちたその表情に、アタシの胸は締め付けられる。
ひどく、安心させられるの。
ハルちゃんは、存在しているだけでアタシを支えてくれる。
ここまで想っているのに、どうしてアタシはまだ愛情がわからないの?
そんなふうに責めるアタシに、ハルちゃんは優しく言う。
「私だって、何が正しい愛かなんてわかってないよ。奈津乃には奈津乃の答えがあるし、私には私の答えがある。自分が正しいと思う愛情を貫けばいいんじゃないかな?」
時々考え込むように視線を宙に浮かしながら、ハルちゃんなりの愛情論を語る。
アタシたち、おんなじだ。
気持ちをちゃんと伝えるために、必死で言葉を選んでる。
ハルちゃんは黙って微笑んで、アタシの考えがまとまるまで待っている。
その優しさに、ずっと甘えた。
アタシはずっと、彼女を待たせてきた。
「こうやってハルちゃんを好きだって気持ちが錯覚だったらどうしようっていつも思ってた」
「うん」
「他の男のところに行くのも、ハルちゃんを傷つけるって知ってて、やめられなかった……」
「……うん」
「……ごめ、ん」
泣いてしまえば、ハルちゃんは優しいから「いいよ」って微笑んで頭を撫でてくれる。
わかっている。
だから、泣きたくなかったのに。
言葉は詰まり、嗚咽が漏れた。
はっきりと見えていたハルちゃんの顔も、今は涙で歪んでしまった。
アタシは絡めていた指を解こうと手を引いたけど、ハルちゃんがそれを許さなかった。
強い力に引っ張られて離れない手。
泣き顔を見せまいと俯いたアタシの後頭部に、手が回された。
片手は繋がったまま、ハルちゃんはアタシの頭を自分の胸へと押しつけた。
堪えようとしていたものが全て、崩壊。
音を立てて、崩れ去る。
「うっ、あ……アタシ、いらなかった、みたい」
頭を包む手が、優しく撫でてくれる。
母がアタシにとって「お母さん」でいてくれたなら、この手のぬくもりはもっと早く与えられるはずだったのかな。
「家に……帰るのがっ……こわか、た……。いらないって、また、言われるんじゃないかって……」
それでも懲りずに「ただいま」と繰り返したのは、いつかきっと「おかえり」と言ってもらえると信じていたから。
だって、母はアタシにとって、どんなに冷たくても「お母さん」だったから。
何年もそんなことを繰り返して、中学に上がる頃にはその期待が無駄だって気付いた。
気付いてからのアタシは、いわゆる不良少女。
学校にはちゃんと行ってたけど、放課後になれば家に帰らず町を彷徨う。
変な友達も出来たし、警察にはよく補導された。
割と真面目だったのは、タバコや薬には手を出さなかったことかな。
ああいう自分を見失うようなものは嫌い。
漫画喫茶で寝泊りもした。公園で一晩過ごすことも平気であった。
お金がなくなったら、携帯開いて適当に相手を探して、アタシの身体と引き替えに稼いだ。
愛情なんて知らなかったアタシだから、簡単にお金が手に入るって喜んでた。
ホント、馬鹿だった。
中学三年の夏まではずっとそんな生活。
それなのに成績は上位だったから、先生たちも強くは注意してこなかった。
出席だってちゃんとしてたから尚更ね。
生活が変わったのは、中三の夏休み。
お祖母ちゃんが、アタシを引き取ってくれたの。
「奈津乃……」
アタシを抱き締める腕の力が強まった。
初めて話したアタシの過去。
誰かに話すつもりなんてなかった。
わかって欲しいと思わなかった。
自分をわかってくれる人なんか求めたことがなかったの。
他人なんて、いらなかった。
独りでいいと思っていた。
だけど恋人を作ったのは、とりあえず誰かと繋がっていたかったから。
矛盾だらけのアタシはただの捻くれ者。
でも今、生まれて初めて思うの。
独りはいや。
ハルちゃんといたい。
ハルちゃんが、好き。
アタシを知って欲しい。
アタシの中の闇を、一緒に抱えてほしい。
重いよね?
それはわかってる。
これがアタシの賭け。
もしもハルちゃんがアタシを突き放すなら、それでもいい。
それならアタシはハルちゃんから離れるよ。
離れて、独りで生きていくだけ。
アタシの大切は、ハルちゃんの笑顔だから。
そのための苦しさなら、喜んで引き受ける。
だからね、こんなアタシでも手を離さずにいてくれるなら、もうアタシはハルちゃんを泣かせないよ。
愛を確かめたいなんて言って、誰かに抱かれるなんて止める。
止められる、ハルちゃんのためなら。
「奈津乃は、いらない子なんかじゃない」
ハルちゃんの顔は、アタシには見えない。
柔らかな胸に抱き込まれ、アタシは目を閉じる。
見えなくてもいい。
全身でハルちゃんを感じる。
「いらなくない、私は……私には必要だよ、奈津乃」
震える声が耳を撫でる。
世界で一番優しい声。
「奈津乃には間違いだってあったかもしれないけど、人は誰でも間違いがあるはずだよ。私だって、間違えたことはたくさんある」
とくん、とくんとアタシを包む心音。
柔らかな身体をアタシの肌が受けとめる。
このまま解け合えたら。
そんな夢を見る。
「アタシ、まだハルちゃんの傍にいていい?」
「当たり前だろ……! 奈津乃がいなくなるなんて、私は嫌だよ」
アタシの瞳から流れる涙は、もう止まらない。
ハルちゃんの言葉、一つ一つにアタシは救われていく。
ありがとう、ハルちゃん。
出会ってくれて、触れてくれて、愛してくれて、求めてくれて。
こんなにも救いようのないアタシの手を掴んでくれて、ありがとう。
嗚咽の漏れる喉から、伝えたい言葉を出すことは出来なかった。
ありがとうを伝えたいのに。
アタシの喉は、何度も声にならない音を起こすだけ。
「奈津乃はこのままでいいよ。愛情なんて人それぞれだから。私は今のままで十分、愛されてるって思うから……」
言葉を紡げないアタシの代わりに、ハルちゃんはアタシに愛を囁く。
アタシのままでいいと言う。
こんなアタシでも、ハルちゃんを愛せていたと言ってくれる。
部屋を満たす冷気が、微かな音と共に吐き出される。
冷えていく室内に反して、熱くなるアタシの身体。
ハルちゃんが触れる部分から、燃えるように火照る肌。
精神的な繋がりを確信した今、アタシはハルちゃんに肉体的にも繋がることを求めてしまっていた。
疼く身体。
アタシは身を捩ると、ハルちゃんはゆっくりと抱き締めていた腕を緩める。
「苦しかった? ごめん」
「大丈夫、むしろ気持ち良かったかな」
自分を誤魔化すように悪戯に微笑んで、アタシは身体を起こした。
アタシの言葉で、ハルちゃんは頬を朱に染めている。
その純粋さを、アタシは壊したい。
アタシはもう一度ハルちゃんに微笑みかけると、軽く頬にキスをする。
羽に触れるような慎重さで口付けた。
そこまでしないと、抑えられないような気がしたから。
「アタシ、変わるね」
自分の中で、何かが吹っ切れたような気がした。
アタシもハルちゃんが好き。
その気持ちは真実。
間違いなんかじゃない。
それに気付けたことが、アタシを変える。
もうハルちゃんを悲しませるような真似は、やめる。
アタシは身体を起こすと、ハルちゃんの真横に手を置く。
アタシの影が、ハルちゃんに掛かった。
今のアタシはどんな顔をしているのかな。
ハルちゃんは、真っ赤だね。
「愛してる」
赤面した顔を隠すために伸ばされた手を、アタシは掴んだ。
寸前で捕まえた手と、アタシの手が力比べ。
「な、奈津乃……手……」
「隠さなくていいじゃない。ハルちゃん可愛い」
「う……」
観念すればいいのに、頑なに顔を隠そうとする手に、アタシは身体を屈めて左の薬指にキスをした。
今度指輪でもプレゼントしようかしら。
茹でダコのように真っ赤な顔でハルちゃんは俯いた。
周りからは格好いいって言われるハルちゃんのそんな顔はアタシだけにしか見せないでね?
しばらくは独り占めさせて?
だけどね、もしハルちゃんがアタシに見せたような赤い顔を他の男に見せたとしたら、アタシは迷わずこの身を引くわ。
ハルちゃんには言わない、アタシの決意。
いつかハルちゃんが男の人を好きになるまで傍で守り続ける。
「奈津乃、どうした?」
「え?」
アタシの拘束からするりと手を抜くと、ハルちゃんはそっとアタシの目元を拭った。
「……泣きそうな顔。辛いことでもあるのか? 悩みなら、話して……」
「ち、違うの」
「本当?」
「本当」
アタシは慌てて身体を引くと、両手を振って誤魔化した。
ハルちゃんは詮索なんてしないから、これだけで引き下がる。
人との距離感を保つことに慣れている。
もう一度、愛してると囁いた。
今度はハルちゃんも頷いて、笑ってくれる。
その笑顔を守れるなら何でも出来る。
そう思っていた。