未完エモーション(1)
由多郎さんが、怖い。
物腰穏やかでのんびりとした人なのに、見ているところはきちんと見ている。
アタシの気持ちを全て見抜いて、それでいてこっちを立てている。
それを大人と呼ぶのなら、アタシはまだまだ小さなガキね。
この前にキスをされたときもそう。
あれは完全にアタシが悪い。
『由多郎さんって、彼女は?』
由多郎さんは一途な人に見えたから、彼女さえいればハルちゃんに手を出す心配はないと思った。
だけど、由多郎さんは首を横に振る。
恋愛するほど、若くはないと微笑んで。
その笑顔は嘘っぽいと思った。誰かを騙すときのアタシみたいだったから。
だからアタシはたまらなくなって、由多郎さんの耳元で囁いた。
『アタシはまだまだ若いと思いますけど?』
誘うように微笑んで。
これで釣られるような馬鹿な男だったとしたら、アタシはあらゆる手段でこの人をハルちゃんから遠ざけてみせる。
ハルちゃんに手を出す可能性のある人が近くにいるなんて、アタシが許せない。
だけど、由多郎さんは簡単に釣られる人じゃなかった。
むしろ、もっとタチが悪い。
由多郎さんを、大人を甘く見たアタシが悪いの。
由多郎さんは困ったように微笑むと、アタシの腰に手を回した。
『……男を甘く見てはいけませんよ? 君みたいな小娘に誘惑されるほど、僕は馬鹿ではありませんからね』
アタシは、息を呑んだ。
由多郎さんの瞳は細められたままで、一切笑っていなかったから。
『嫉妬はまだ可愛いで済ませられますが、八つ当りは見苦しいですよ』
そして、奪われた唇。
ハルちゃんとユーリが楽しそうに話していて、苛立っていたことまで見抜かれてしまっていたらしい。
それでハルちゃんの意識はアタシに戻り、自分もアタシに軽い牽制が出来た。
腹が立つくらい、見抜かれている。
だから、アタシはあの人が怖い。
でも、そういう人は割と好き。なにも考えていない人よりは、よっぽど良い。
ただ、油断ならない相手なのは確か。だって、全て見透かされるもの。
あの人はアタシがハルちゃんに抱いているものがちゃんとした恋心だと気付いている。
益々、気が抜けないじゃない。
アタシは手持ちぶたさに弄っていた携帯を閉じる。
そして、盛大なため息を吐いた。
どうして嫌だなぁと思っているときに限って、その相手に出会うのかしらね。
ファミレスの雑音に耳を傾けながら、アタシは目の前でハンバーグを貪るように口にする由多郎さんを見つめた。
「ほんほうにたふかりまひた」
「食べおわってから喋ってください」
アタシは頼んだチーズケーキを食べながら、再びため息。
なんでこんなことになっちゃったのかしら。
そもそも、行き倒れてるこの人が悪い。
バイト先の近くの公園で、出会ったあの日と同じように俯せで倒れていた。
たまたまバイト帰りだったアタシは、引きずるように近くのファミレスに傾れ込んだってわけ。
「行き倒れの癖があるんだから、財布くらい持ち歩きなさいよ……」
「盗まれたら嫌じゃないですか」
口の中のものを飲み込んだ由多郎さんは、ごもっともだけど納得出来ない持論をさらりと口にした。
「年下に奢られるって、プライドないの?」
「すぐに返します。今からうちに来ますか?」
「……連れ込むつもり?」
悪戯に微笑めば、由多郎さんはため息を吐く。
こういう冗談は割と通じるみたい。
「そんなに僕に針を呑ませたいんですか?」
げんなりと肩を落とした由多郎さんに、アタシは吹き出してしまう。
まさか、そう切り返されるとは思わなかった。
由多郎さんは気が抜けない相手だけど、選ぶ言葉がいちいち面白いから、会話するのは楽しい。
「まぁ、そんな冗談は置いといて。本当にありがとうございました」
「そう思うなら、小銭くらい持ち歩いてよ」
「考えておきます」
頷くと由多郎さんはまだ半分ほど残っているハンバーグを食べ始めた。
本当によくわからない人。
適当に見えて、侮れないなんて厄介過ぎ。
「ねぇ、由多郎さん」
「ん?」
「ハルちゃんみたいな女の子って、好き?」
いつもの眠そうな目でアタシを見つめ、由多郎さんはごくりとハンバーグを飲み込んだ。
その目には人の魂を奪う呪いが掛かっている、と言われたら信じてしまいそうなほどに、深い黒がじっとアタシを捉えていた。
「春緒ちゃんは可愛いと思いますが、それは兄が妹に、または父が娘に思うのと同じ感覚です。端的に言えば、好きですが欲情はしません」
はっきりとした言葉に、アタシはゆっくりと息を吐く。
それが安堵のため息であったことは、誰の目にも明らかだった。
目の前に座る食えない男は、そんなアタシに微笑みを送り付けた。
それが形だけの微笑とわかり、アタシは身体を堅くした。
嫌な予感がする。
そう、いまから爆弾を投下されるような、そんな予感。
「僕は、奈津乃ちゃんのほうが好みですけど」
本気が冗談かわからない笑顔でそんなことを口にされ、アタシは頬を引きつらせるしかできなかった。
だから、どうってわけではない。
アタシはハルちゃんが好きだから、そこに他人を入れる気はない。
ただ、この人の何かを引っ掻き回そうとしている感じが不気味だった。
「君みたいな性格はとても個性的で興味深いです。是非、次の漫画の主人公の参考にしたいですね」
「……漫画の話?」
紛らわしい言い方、しないでほしい。
今の会話の流れだと、明らかに恋愛での興味の話だったじゃない。
アタシの性格が漫画に向いてるという話ではなかったはず。
勘違いした自分が情けなく、アタシはケーキにフォークを垂直に差した。
カツン、と皿とぶつかる音が響き、アタシはケーキをすくい上げ口へと運ぶ。
由多郎さんはきょとんとアタシを見つめ、首を傾げる。
「不機嫌ですか?」
「いいえ、別に」
明らかに嘘だとわかるようなわざとらしい声で答えると、由多郎さんはくすくすと笑う。
含み笑いではなく、普通に笑っているものだから、アタシは驚いた。
「やっぱり、奈津乃ちゃんは面白いですね。退屈しません」
意味がわからない。
問いただす視線を送ると、由多郎さんは肩を竦めた。
「春緒ちゃんや裕理くんは素直すぎるんですよ」
「それ、アタシは捻くれてるってこと?」
「はい」
信じられない。
目の前のこの人は、あっさりと頷いてしまった。
アタシも自分で自分を捻くれてると思っているけど、普通はここで頷かないでしょ。
「あの二人に不機嫌なのかなんて聞いたら、『そんなことないよ』と僕に不快な思いをさせたんじゃないかと心配するでしょう? それはそれでからかい甲斐がありますけど、こっちの心が痛むじゃないですか」
由多郎さんの想像した図が、アタシにも簡単に想像できた。
結局、あの二人は他人に優しく出来過ぎている。
もっと自分本位でもいいじゃない。
誰にでも優しいあの二人に、アタシは甘えた。
ハルちゃんの強くあろうとして周りに振りまかれる優しさに寄り掛かり、裕理のハルちゃんを大切に思う優しさに付け込んだ。
裕理は基本的に誰にでも優しい。
だけど、ハルちゃんに向けられる優しさは甘さに等しい。
どうしてその好意に気付けないのか不思議なくらいに、裕理はハルちゃんを甘やかし大切にする。
だから、ハルちゃんの大切なアタシも大切にする。
本当に健気で、優しい人。
それは同時に、痛く可哀相でもある。
裕理が本気でハルちゃんを欲しいと思ったら、アタシなんて勝てない。
それは、裕理の方がハルちゃんを好きだとかそういうことじゃなくてね。
結局、アタシは最後に離れないといけないの。
だって、ハルちゃんは女の子だもん。
ハルちゃんは、女の子として幸せになるべきなのよ。
だからね、せめてハルちゃんが自分を女の子だと認められる時まで傍にいさせて?
それまでは、アタシが守るから。
変な男なんて、近付けないから。
そう思っているのに、アタシは裕理の気持ちに気付きながら、ハルちゃんの傍を離れることが出来ない。
「アタシって、歪んでるかしら?」
なんで、こんなこと由多郎さんに聞いているんだろう。
ハルちゃんも裕理も知っている人で相談出来るのは、アタシにはこの人しかいない。
離れたくない。
でも、ハルちゃんには女の子として幸せになってほしい。
甘やかされて、愛されて、照れちゃうくらいに大切にされてほしい。
愛されっぱなしじゃ嫌だって人もいると思うわ。
だけど、女の子はやっぱり愛されるべきよ。
専業主婦になれって言ってるんじゃないの。
働きたいなら働いていいの。
そういうことじゃなくて、ハルちゃんはもっと愛されないとダメなの。
女の子に生まれてきたんだもの。
お姫様扱いされるくらいに愛されてほしい。
でもそれは、女同士じゃ難しいの。
だってね、王子様は男だもん。
「アタシは男の人と同じくらいにハルちゃんを幸せにしてあげたい」
王子様になれる男が羨ましい。
ケーキを食べる手を止める。
由多郎さんも、食事の手を止めた。呆れたため息を吐くと、口元に緩く弧を描いた。
「君は性別関係なく春緒ちゃんを好きなんでしょう? それは向こうも同じじゃないんですか?」
「そうだけど、男の人が羨ましくなっちゃうの」
「人間誰でも自分にないものを求めますよ」
「無い物ねだりは承知のうえよ。……男だったら、堂々とハルちゃんをアタシの恋人だって公言出来たのに」
それも、羨ましいと思うの。
女同士でくっついていても怪しまれないけど、誰もそれを本気だと思わないから、ハルちゃんに近づく男は減らない。
大学内で堂々と肩を寄せ合うカップルを見て、町中で幸せそうに寄り添い歩く男女を見て、アタシの胸ははち切れそうになる。
羨ましさに、壊れちゃいそう。
「男に生まれたかったですか?」
「……それで、ハルちゃんを幸せにできるなら」
アタシがハルちゃんを幸せに出来るのなら、アタシの性別なんてどっちでもいいよ。
そう言って笑うと、由多郎さんは小さな笑みを零した。
「見た目は春緒ちゃんのほうが男らしいのに、性格は君のほうがずっと男前ですね」
「そうかしら?」
「そうですよ。だって……」
由多郎さんは声のトーンを下げると、僅かに顎を引き、上目遣いにアタシを見上げた。
「奈津乃ちゃんは、春緒ちゃんを抱きたいんでしょう?」
「……」
気付かれてない、なんて思っていなかったから由多郎さんに指摘されたところで大した驚きは、ない。
ハルちゃんが大切。
そう口にしながらも、アタシがハルちゃんに向ける視線は男たちの欲情とさほどかわりはない。いや、同じだった。
だってアタシは、ハルちゃんに欲情している。
彼女が視界に入るだけで胸は高鳴り、体の中心がきつく締め付けられる。
手を伸ばして触れたい。
優しい触れるだけのキスじゃ満足出来ない。
噛み付いて、貪るように触れてみたいの。
無意識のうちに、アタシは笑っていた。
世界中の全てのモノを拒絶するような、自虐的な微笑みで。
挑発的に首を傾げた。
「女が女に欲情しちゃダメって、誰かが決めたの?」
決まってないわ、そんなの誰にも決められない。
アタシの気持ちを否定することが出来るのは、アタシかハルちゃんだけよ。
それ以外は、何であってもこの想いを邪魔出来ないの。
由多郎さんは背もたれに体を預け、斜め上へと視線を滑らせた。
そして目を閉じ、緩い笑みを浮かべる。
「僕は二人を否定したいんじゃないんですよ。ただ……」
開かれた鋭い瞳に射ぬかれ、思わず身を竦ませてしまった。
だからアタシは、伸びてきた由多郎さんの手を避けることも払うことも出来なかった。
冷たい手が、髪をすくいながら頬を撫で上げる。
ぞくり、と背筋を駆け抜けた嫌悪感。
ハルちゃん以外が、アタシに触らないで。
「っ、気持ち悪い」
由多郎さんの手を掴むと、彼は何を考えているかわからない笑顔で、言った。
「足元はしっかり固めておかないと。この程度で揺れる地面に、安心して立っていられますか?」
遠回しだったけど、それはアタシに対する警告であり挑発だった。
アタシの気持ちが不安定になればなるほど、ハルちゃんも揺れてしまう。
二人でいたいと望むのならば、アタシが、しっかりしないといけない。
しっかりしないといけないのに。
ぐらりと、アタシの大地が大きく揺れる。
アタシのハルちゃんに対する想いは、他人から何か言われた程度で揺らぐものだったの?
やっぱり、アタシには人を愛するなんて出来ないの?
そもそも、誰にも愛情なんて教えられなかったアタシが、誰かを愛せるわけがないんだ。
『いいよ、帰ってこなくても』
記憶に染み付いた、冷たい悪魔のような声が蘇る。
いらないものを見るような目で、扉は閉められた。
アタシは初めから、望まれてなかったから。
そんなアタシが、人を愛する?
そんなの、滑稽だわ。
「奈津乃ちゃん?」
アタシは財布から二千円を出すと、机の上に叩きつけた。
そのまま、何も言わずに席を立ち、店から駆け出した。
お願い、お願い、誰かアタシに教えて。
アタシの身体に、教えて。
アタシはちゃんとハルちゃんを好きでいられていますか?
愛せていますか?
お願い、誰か、アタシに教えて。
……アタシを、助けて。
しっとりと蒸し暑い夜でも、明るい方へと足を向ければ人で溢れていた。
まだ眠らない町で、アタシは何も考えずにふらふらと彷徨う。
夜遅くに一人歩いていれば、声を掛けてくる男は何人もいる。
特にアタシは、声を掛けやすい雰囲気を纏っているらしい。
誰でもいいから、お願い。
アタシは自分じゃわからない。
自分の気持ちが愛情なのか、わからないの。
誰か、アタシを抱いて。そして、思い知らせて。
ハルちゃんがいいって。
ハルちゃんじゃなきゃダメだって。
『いいよ、帰ってこなくても』
そんなこと言われたら、アタシはどうすればいいの?
息苦しかったけど、唯一の帰る場所に、「帰るな」と言われたアタシは、どこにいけばいいの?
そんなに嫌いになるなら、どうしてお母さんはアタシを産んだの?
ぐるぐると頭を巡る想いは重く心にのしかかり、胃を締め付け、吐き気を誘う。
なんで、どうしての繰り返し。
答えのない問いばかりを繰り返し、アタシはついに膝を折った。
「っ……」
胸元の開いた服の上から心臓を掴み、空いた手で近くの建物を掴み身体を支える。
「大丈夫~?」
夏の夜に負けないくらいにねっとりとした声が、空から降ってきた。
同年代だろう予想を付けながら顔を上げると、思った通り髪を染めた若い男が三人立ってアタシを囲んでいた。
金髪の男は下卑た笑いを浮かべながら、アタシの前に屈むと心配そうに顔を覗き込んできた。
「顔色悪いよ~? 俺の部屋近いから休んでいきなよ」
隣に立っていた茶髪の男がアタシの腕を取り、立ち上がらせた。
こいつらの目的は、善意でアタシを助けることじゃないのは見え見え。
ハルちゃんなら、たぶん騙されて付いていっちゃうかも。
本当に、放っておけないんだから。
「こいつの言う通り。今日は暑いし無理したら危ないよ」
茶髪の男は懐っこい笑みを浮かべた。
そうやって相手を油断させるのね。
三人を相手にするのは、気が進まない。でも、もう誰でもいいや。
アタシを助けてくれるなら、誰でも……。
頷こうと、首を傾けた時だった。
誰もいなかった方向から伸びてきた腕が、アタシの腰を引き寄せた。
腕を掴んでいた茶髪は驚き手を離す。
支えを失ったアタシは、倒れこむように、全体重をアタシを引き寄せた張本人に預けることになった。
アタシの邪魔をするのは、誰?
少しだけ首を動かすと、そこにいたのはさっきまでアタシを追い詰めていた男が、不機嫌そうに男たちを睨んでいた。
「なんで」
「遊びたいだけなら、他の子を当たりなさい」
強い口調の由多郎さんに、男たちは眉をしかめた。
お楽しみを取り上げられて、素直に引き下がるわけがない。
しかし、由多郎さんはそんな事情はお構いなしに、アタシの肩を掴むと男たちに背を向けた。
「おい、待てよ!」
ずっと黙っていた薄茶色の髪の男が由多郎さんの肩を掴んだが、由多郎さんはそれを強引に振り払う。
「もう一度言います。遊びたいだけなら、他の子にしなさい。わざわざ僕と喧嘩して彼女を連れていくより、もっと簡単に遊べる相手はたくさんいるでしょう?」
男たちは一斉に口を閉ざし、金髪が一番に背を向けて歩きだした。
二人もそれに続き、アタシは由多郎さんの元へ取り残される結果となった。
どうして、由多郎さんが。
そればかりが頭の中に一杯になっていた。
アタシの肩を掴んでいた指から力が抜けていく。
解放される。
そう思った瞬間に、由多郎さんの腕が後ろからアタシの身体を強く抱き締めた。