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幻想ラバーズ


 ゆた兄がやってきてから、私たちの毎日は益々楽しさを増した。

 奈津乃とユーリがゆた兄を拾ってきたあの日、予想通りにゆた兄は腹を空かせて倒れていたんだ。

 ゆた兄は私たちと同じアパートの二階に部屋を借りていたようで、そのことを知ってから私たちはよく遊びに行くようになった。


「でも、びっくりした。ゆた兄、ホントに漫画家になってんだもん」


 段ボールだらけで整頓されていない部屋の中には、漫画を描くスペースと寝床だけが確保されていて、生活感の欠けらもなかった。

 私たちは遊びに行くたびに少しずつ部屋を片付け、なんとか座る場所を確保した。

 ゆた兄は昔と変わらず、落ち着いた笑顔を浮かべている。


「夢でしたしね。僕の方こそ驚きましたよ。まさか、裕理くんと春緒ちゃんがいるなんて」


 昔からよく近所の公園で生き倒れていたゆた兄に、私たちは食物をあげていた。

 まるで、野良猫の餌付け。


「裕理くんは格好良くなりましたし、春緒ちゃんは美人になりましたね」


 物腰穏やかな敬語も変わらない。

 三十を過ぎたはずなのに、まだまだ若く見えるゆた兄の言葉は、私には大分気恥ずかしい。

 ゆた兄は微笑むと、私の隣で探るようにゆた兄を見つめる奈津乃へと目を向けた。

 何度も遊びに来たけど、奈津乃は中々ゆた兄に心を開かない。

 元々奈津乃は警戒心が強いから、すぐには無理だとわかっているけど。

 出来るなら、仲良くなってほしい。


「可愛らしいお友達もいるみたいですしね。奈津乃ちゃん?」


「お友達じゃないもん。ハルちゃんの恋人だもん」


 言いながら、奈津乃は私の腰へと抱きついた。

 あっさりと公言され私は驚くが、奈津乃の顔に動揺はなくて、むしろ挑むようにゆた兄を睨んでいる。

 女同士であることは、世間的には間違っている。

 奈津乃もそれはわかっているから学校では恋人と口にしない。

 なのに、どうして、今。

 恐る恐るゆた兄の様子を伺うと、ゆた兄は微笑を崩さずに私たちへと向けていた。


「ラブラブでいいじゃないですか。恋愛、大いに結構」


 奈津乃の言葉を本気と取っていないのか、本気と知った上で答えたのかわからない、芝居じみた物言いに面食らった。

 奈津乃も同じらしく、眉をしかめていた。

 腰に回された腕の力が強まり、奈津乃は唇を尖らせた。

 私は慰めるように、奈津乃の頭をぽんぽんと撫でる。


「ゆた兄は優しい人だよ?」


「……それは、わかるけど」


 俯いた奈津乃は、上目遣いにゆた兄を見つめた。

 仲良くなってほしいという私の思いに反して、奈津乃はどうしにもゆた兄に敵意を抱いているように感じる。

 どうにかならないかと裕理に視線を向けたが、裕理は気にする様子もなく、ゆた兄の部屋の段ボールの中から取り出した漫画を読んでいる。

 なんでそんなに呑気でいられるんだ……!


「大丈夫ですよ、奈津乃ちゃん」


 ゆた兄はにっこりと笑いながら、椅子に座ったままぐるぐると回り始める。


「僕はもう若くありませんからね」


 若くないって……。

 三十代ならまだ若いと思うけど。

 奈津乃はゆっくりと私から離れると、丸い瞳をすっと細めた。


「嘘だったら、許さないからね」


「はい。肝に命じておきますよ」


 奈津乃はしぶしぶといった様子だったけど頷いて、初めて「由多郎さん」と名前を呼んだ。

 私は嬉しくなって、気付いたときには奈津乃の頭を撫で回していた。

 何?と首を傾げた奈津乃に返す言葉が見当たらなくて、慌てて手を離す。


「どうかしましたか?」


 ゆた兄は回転を止めずに奈津乃へ尋ね返す。

 止まりそうになるたびに床を蹴って回転を継続させてる様は、まるで暇になった小学生のようだ。

 奈津乃は素早くゆた兄へと顔を向けると、不思議そうに部屋の中を見渡す。


「部屋、片付けないの? これじゃあお仕事出来ないんじゃない?」


 奈津乃の言う通り、ゆた兄の部屋はもはや生活の場ではない。

 汚いのではない。

 段ボールがそのままのせいで、生活感の欠けらもないのだ。


「確かに。アシスタントもこれじゃあ手伝えないだろ?」


 裕理は漫画から顔を上げ、ようやく会話に参加する。

 二人からの質問に、ゆた兄は回りながら天井を仰いだ。


「今は次の連載の構想を練っているので、アシスタントは必要ないんです。この間連載が終わったばかりですから、ちょっとした休みも兼ねているんです」


 ぐーるぐーる。

 ゆた兄は話を続ける。


「それに、またすぐに引っ越す予定なんで、物も段ボールに入れたままのほうが……」


 段々に、椅子の回転が落ちていく。

 それに比例して、ゆた兄の声のトーンも下がっていく。

 あぁ、嫌な予感。

 私だけでなく、奈津乃やユーリも顔を引きつらせ、ゆた兄の次の言葉を待った。


「……気持ち悪……」


 当たり前だ!

 三人の声が揃った瞬間だった。

 回るのを止めたゆた兄は、背もたれに寄り掛かりぐったりしている。


「もう、馬鹿なんじゃないの?」


 盛大にため息を吐くと、奈津乃は立ち上がりゆた兄へと近づいた。

 そして優しい手つきで、ゆた兄の背中をさする。

 ちくり、と私の胸が痛む。

 例え相手がゆた兄であっても、奈津乃と近づく姿は見たくない。

 心の中のもやから目を逸らすように、私は二人から視線をユーリへ向ける。


「何読んでる?」


「ゆた兄の初連載。昔から絵、上手いよ」


 楽しそうな笑顔で、ユーリは私の隣へと腰を下ろした。

 そして、漫画を見せてくれる。

 剣やら魔法やらが出てくるファンタジーの話で、ユーリの言う通り絵が綺麗だ。

 剣の装飾や魔法の発動、キャラの生き生きとした表情に戦闘シーンの迫力。

 ユーリの影響で割と漫画を読んできた私も、素直に上手いと思える絵だ。

 素直な感動に夢中になって私はユーリの手の中を覗き込む。

 昔の知り合いが夢を叶えていたことが、嬉しかった。

 ほんの少し、奈津乃から意識を外していた。

 見たくないから、私が目を逸らしたんだけど。

 それが、いけなかった。


「っ、きゃ!」


 短い奈津乃の悲鳴。

 慌てて私が顔を上げると、ゆた兄は奈津乃の顎を片手で掴み、もう片方の手で腰をしっかりと固定しながら、奈津乃の赤い唇を無理矢理に塞いでいた。

 一瞬、目の前の光景が理解出来なかった。

 乾いた音が響く。

 はっと気が付くと、奈津乃は思い切りゆた兄の頬をひっぱたいていた。

 私もユーリも何も言えずに二人を見つめる。

 そして、状況を理解した頭が命令するより先に私の身体が動いた。


「ゆた兄……! 何してんだ!」


 座っていたゆた兄の胸ぐらを掴む。

 気持ち悪いとか言っていたけど、どうでもよかった。


「何で、奈津乃に……」


「ハルちゃん、いいの」


 ゆた兄を掴む手の上に、ひんやりとした奈津乃の手が重なった。

 奈津乃は困ったように目を細め、小首を傾げている。

 いいって、何が!

 無理矢理キスされてたのに、何で笑えるんだよ!

 それとも、奈津乃はゆた兄みたいな男が好みなの?

 だから、キスされても構わないのかよ!

 色々な言葉が喉まで込み上げてきて、詰まった。

 何も言えずにいた私の頬に、奈津乃は軽く自分の唇を押し当てる。

 しっとりとした唇に、何故だかとても泣きたくなった。


「今のはアタシが悪かったわ。由多郎さんは悪くない」


「いえ、僕も少しやり過ぎました」


 手の力が緩み解放されたゆた兄が軽く頭を下げる。


「彼女、春緒ちゃんを裕理くんに取られてしまって、拗ねていたんですよ」


「拗ねてない! ……ちょっと、嫌だっただけ」


「じゃあ、嫉妬ですね」


 くすくすと笑い、ゆた兄の手が私の頭を豪快に掴む。

 浮かべている笑顔は、全てを受け入れるように深く優しい。


「君たちは、本当にお互いが大好きなんですね」


 羨ましいです。

 そう言ってゆた兄は、空いた手で奈津乃の髪も撫でる。


「ほら、春緒ちゃんはこんなに悲しそうな顔をしています。ちゃんと君を好きですよ?」


 同じ笑みを向けられて、奈津乃は唇を尖らせた。


「わかってるわ。アタシ、ハルちゃんの愛に疑いなんてない」


 きっぱりと言い放つ奈津乃は、堂々と胸を張っていて眩しいくらいに格好よかった。

 それに比べて私は、奈津乃の気持ちを疑って……。

 でも、不安なんだよ。

 だって、ゆた兄は男だから。

 いつか男が奈津乃を奪っていくのかと思うと、怖いんだ。


「ゆた兄、奈津乃に手は出さないって約束してくれる?」


「……わかりました。約束します」


 ゆた兄は奈津乃を撫でていた手を戻すと、そのまま小指を立てて私へと向けた。

 私は迷わずに、そこに小指を絡めた。

 満足気に微笑むと、ややずれた音程でゆた兄が歌いだした。


「指切りげーんまん嘘ついたら針三本飲ーます指切ったー!」


「……三本って」


「三本くらいなら、リアルに飲めそうじゃないですか?」


 さらりと怖いことを言いながら、ゆた兄はまるで蝶結びが解けるようにするりと指を解いた。

 口約束を重ねないと、不安になる自分の弱さが見苦しい。

 本当は強くいたいのに。

 奈津乃を守れるような人でありたいのに。

 考えるだけ無駄だと思いながらも、想像せずにはいられない。

 もし、自分が男だったら、と。



 だらだらと話をしているうちに日は沈み、窓の外には濃紺の空が広がった。


「アタシ、そろそろ帰るね」


「もう遅いし、送るよ」


 奈津乃に続いて立ち上がると、奈津乃は困ったように小さく吹き出した。


「そんなの、いいよ。ハルちゃんだって危ないじゃない」


「平気だよ」


「だーめ。ハルちゃん、アタシ前に言ったよね? もっと自分が女の子だって自覚してって」


 奈津乃の人差し指が、私の唇に当てられる。

 これ以上は何も言わせない。

 そう言っているように。

 奈津乃は私を女の子として扱ってくれる。

 それが嫌なわけじゃない。

 ひどくくすぐったくて、少し淋しい。

 奈津乃のこと、送りたいよ。

 でもそれは、奈津乃が心配だからって気持ち以上に、私がまだ奈津乃と離れたくないって気持ちから出てきたんだ。


「なら、みんなで行けばいいじゃん」


「へ?」


「やっぱり、夜に奈津乃一人帰すのは心配だし、春緒が一人で帰ってくるのも……大丈夫とは思うけど心配だしさ」


 裕理の提案に、奈津乃は目を丸くした。

 それなら奈津乃も私の心配がいらなくなる。

 いい提案だと思った。

 裕理に感謝する反面で、胸の奥がきつく締め上げられるような気がした。

 やっぱり、私は男じゃないから。

 もしも私が男なら、奈津乃は何の躊躇いもなく私の申し出を承知してくれただろう。

 でも、何故だろう。

 奈津乃はそれでも納得がいかない様子で、黙って足元を睨み付けていた。


「僕も行きますよ。気分転換したいですし」


 ゆた兄が立ち上がって、のんびりと玄関に向かう。

 奈津乃が動きださないのに歩きだしたゆた兄のマイペースには、呆れを越えて感心してしまう。

 慌てて後に続いた裕理の後ろを、私と奈津乃は急がずに付いていった。


「由多郎さんって、エスパーかしら?」


「へ?」


 隣の奈津乃は真顔でそんなことを言うものだから、私は面食らってしまう。

 冗談でも悪口でもなく、素直に心からそう思っているようだ。


「たぶんあの人、アタシがハルちゃんと裕理を二人きりで帰らせるのが嫌だって、気付いたのよ」


 奈津乃の言葉に驚く瞬間も与えられず、冷たい指が私の指へと絡められた。

 上目に私を見上げる奈津乃は、非難するように眉を寄せた。


「例え裕理でも、ハルちゃんが他の男といるなんて、嫌」


 自分のことは、棚に上げて。

 そんな考えが浮かんだのに、私の頬は自然と緩んでいた。

 奈津乃の嫉妬が、嬉しい。

 私は、指を絡め合った手に力を籠める。

 離したくない、と指先から伝わることを願って。

 奈津乃はきょとんとした顔で私を見上げ、すぐにくしゃりと笑った。


「離しちゃ嫌だからね?」


 言葉にはせずに頷くと、私は少し屈んで奈津乃の頬にキスをする。

 ひと足早く玄関で私たちを待っていた裕理やゆた兄に見られたけど、気にしない。

 誰にどう思われようと、私は奈津乃の傍にいる。

 そのために、強くなりたかった。



 私と奈津乃が歩いた後を、随分離れてユーリとゆた兄が付いてくる。

 二人は後ろで何かを話しているけど、それは私たちの耳にまで届かなかった。

 逆に、私たちの会話も二人には聞こえない。


「……アタシ、由多郎さんとなら仲良くできるかも」


 不意に呟かれた奈津乃の言葉。

 繋いだままの手のひらが、じっとりと汗ばんだような気がした。

 仲良くなってほしい。

 そう思っていたのに、いざ奈津乃がそれを口にすると、どうしようもない不安で胸が一杯になった。


「あの人、大人だもん」


「そりゃ、十歳も上だし」


「そうね。うん、でも、歳だけじゃなくて」


 奈津乃はそれ以上は口にせず、微笑んでいた。

 大人、という言葉の意味がいまいち掴めない。

 でも、そこに好意があることは嫌でもわかった。


「奈津乃は、大人っぽい人が好き?」


 一瞬、何を聞かれたかわからないといった様子で目を丸くして、奈津乃はそっと私に身体を寄せた。

 吐息混じりにばか、と呟いた。


「アタシが好きなのは、ハルちゃんなの。ハルちゃんじゃなきゃ、やなの」


 私は泣きたくなった。

 奈津乃が、あまりにも哀しそうな顔で笑っていたから。

 ごめん、と謝ることも出来なかった。

 私は不安で出来た不恰好なオブジェみたいだ。

 いつか奈津乃が男の元に行くのではないかと不安で足元がぐらぐらしている。

 本当に、こういうところが嫌になるくらいに女々しくて腹が立つ。

 でも、奈津乃はいつもそんなところも含めて好きでいてくれる。

 不思議だった。

 女らしさを肯定する人なんて、今までいなかったから。

 男勝りで男子の友人が多かった私は周りからは男扱いだったし、女子からも格好いい存在として認知されていた。

 自分でも男とつるんでいる方が楽だったから、そういう立ち位置でよかった。

 少しでも女らしさが出れば「うわ、女みたい」と言われる空間が、楽だった。

 女の子から頼りがいがあって格好いいと思われるのも、万更ではなかった。

 だから、私は自分の中にある消すことの出来ない女らしさがコンプレックスだった。

 でも、奈津乃は女である私を好きだと言う。

 それは奈津乃が同性を好きだという意味ではなく、女々しい私も好きだと言ってくれるんだ。

 だから、私は奈津乃に甘えてる。いや、依存している。


「私さ、奈津乃が離れたら泣くと思う」


 だから、そばにいて。

 言葉の外に願いを籠める。


「嬉しい」


 短く呟いて、奈津乃はふわりと揺れる髪を耳に掛ける。

 華奢な肩が、黒髪の隙間から私を誘う。

 折れてしまいそうな身体なのに、奈津乃はしなやかな強さを内包している。

 他人に抱かれないと愛情がわからないという不安定感はあるけど、最近ではそれも減ってきた。

 奈津乃の強さが、私には眩しい。


「あ、星」


 不意に奈津乃が足を止めて空を指差した。


「え、どこ?」


「ほら、ここ。ハルちゃん、もっとアタシに寄って? で、指先見て!」


 奈津乃は強引に私の腕を引き寄せ、顔を近付けた。

 白い指先には、独り輝く真っ白な一等星。


「星ですか。綺麗ですね」


 いつのまにか追い付いていたゆた兄とユーリも足を止める。

 私たちは四人で、空を見上げていた。

 都会で独りぼっちの星は、淋しくないんだろうか。


「あの星、独りなんだね」


 何気なく呟くと、奈津乃が軽く首を振った。


「見えてないだけで、周りにはたくさん他の星がいるわ。大丈夫。独りじゃない」


 絡まる指が、しっかりと私を掴む。

 奈津乃のほほ笑みは、無条件に私を幸福へと誘う。


「そうですね。見えないだけで沢山の仲間たちが輝いています。大切な人たちと同じですね」


 空を見上げるゆた兄の穏やかな横顔に、私たちは視線を集中させた。

 詩人のような発言に、驚いたのだ。


「さすが漫画家」


「何がです?」


 ユーリの言葉の意味がわからずに首を傾げるゆた兄を、私と奈津乃は笑って見つめた。

 大切な人は見えなくても傍にいる。

 そう言ったけど、私にはちゃんと見えているよ。

 私はこっそりと奈津乃へ視線を向けた。

 奈津乃は気付かず、ユーリと一緒にゆた兄をからかって遊んでいる。

 目の前で笑う彼女が、私にはちゃんと見えている。

 だから、淋しくなんてない。

 もう一度、空に輝く一等星を見上げ、一人微笑んでみた。



 奈津乃を無事家へと帰すと、三人で来た道を戻る。

 その途中で、私はどうしても聞かずにはいられなくなってゆた兄の腕を掴んだ。


「春緒ちゃん?」


「なんで、奈津乃にキスしたんだ?」


 ゆた兄は穏やかな瞳で私を見つめ、困ったように眉を下げた。

 ユーリは黙って視線で私を咎めたが、そんなのは無視だ。


「……奈津乃ちゃんは、君が大好きです」


「それは答えじゃない」


「いいえ、これが答えです」


 意味がわからない。

 不機嫌が顔に出始め、ゆた兄を睨むと、ゆた兄は苦笑混じりに肩を竦めた。


「女の子は強いですよね。一度守ると決めたなら、どんな手段でも構わないんですから」


 ゆた兄は目を細め、慈しむように私の頭を撫でた。


「ごめんなさい、と伝えておいてください」


 手を離すと、ゆた兄はその手をポケットに突っ込み、私に背を向けて歩き始める。

 私とユーリは、慌ててそれに続いた。


「あと、負けました、とも伝えてもらえますか?」


 少しだけ弾んだゆた兄の声はどこか楽しげだった。

 何に負けたのかよくわからない。

 それに、何だか二人だけで話が通じ合っているみたいで腹が立つ。

 それでも、私は頷いていた。

 それを伝えないといけないような気がしたんだ。

 ゆた兄が急に振り返り、私の鼻を摘む。


「むっ、なんだよ、ゆた兄!」


 不意打ちに息が詰まり、少し乱暴にその手を払うと、ゆた兄は口元に緩い弧を描いて私を見つめた。

 その切れ長な瞳は、確かに私を責めていた。


「君たちの愛情はとても強いけれど、同時にひどく脆いです」


「は?」


「春緒ちゃんは、奈津乃ちゃんとセックス出来ますか?」


 鼻は通っているのに、ひどく息苦しい。

 私は目を見開き、目の前のゆた兄を見上げた。

 なんでそんなことを言われなきゃいけないんだ、と込み上げてきた怒りを押さえ付けているのは、私の中にある一つの失望感。

 ゆた兄の問いに、一瞬戸惑った自分の存在に、気付いてしまった。


「ゆた兄、それってセクハラだよ」


 場の空気を和ませようと、気の抜けた声で笑うユーリだったが、私もゆた兄も笑えずにいた。

 ゆた兄は黙って私を見下ろすと、ため息を吐いた。


「奈津乃ちゃんは出来ますよ。……いやむしろ、したいと思っているはずです」


「奈津乃が……私と?」


「気付いていませんか?」


 ゆた兄は首を傾げると、無表情に唇を尖らせた。


「彼女が君に向ける視線は、男のものと同じですよ? あんなにも熱に満ちた眼差しを受けて、求められていないと思っていたんですか?」


 ショックを受けていない、といえば嘘になる。

 だって、今まで私は奈津乃から性的なことは求められていなかったし、そんな気配は微塵も感じられなかった。

 奈津乃としたいか、どうか。

 そんなの、すぐに答えられない。

 嫌じゃない。

 嫌なわけじゃないんだ、ただ!

 ……ただ、怖い。


「由多郎さん!」


 不意に、肩を抱かれた。

 隣にいたのは、ユーリだった。

 ユーリはゆた兄を睨みあげると、私の肩を掴む力を強めた。


「やめてください」


 ただ一言、強い拒絶。

 普段は親しげな口調を一変させ、ユーリは首を振った。


「こいつにもこいつの事情があるんです。面白半分でこいつらの間に変な溝作らないでください」


「面白半分ではありませんよ。少しだけ奈津乃ちゃんが気の毒になっただけです」


「気の毒だなんて決め付けないでください。奈津乃は春緒の戸惑いをわかって、黙っていたんです。それを貴方に台無しにされるなんて、可哀相だ」


 声を荒げることはしないが、強い口調で続けるユーリは怒っている証拠だった。

 私と奈津乃のためにユーリが怒ってくれたことは嬉しかったが、同時に奈津乃は本当に私を求めていたんだと知って愕然とした。

 ユーリも、奈津乃の気持ちに気付いていた。

 それなのに私は全く気付いていなくて、奈津乃が傍にいるだけで幸せだった。

 奈津乃は、それだけじゃ足りなかったのに。

 気付けなかった自分に、呆れを通り越して怒りが沸き上がる。


「……ざんねん」


 ゆた兄は小さな声で呟くと、感情の籠もってない声で言った。


「春緒ちゃんから奪えないものかと思ったんですけどね」


 あまりに感情が籠もっていなくて、冗談としか思えなかった。

 唖然としている俺たちに、ゆた兄は「なんてね」と無表情のまま付け足した。

 そのまま伸びっぱなしで肩に掛かった髪に指を絡めながら空を見上げた。


「次の漫画の主人公は奈津乃ちゃんの性格を参考にしましょうか」


 すでに今までの話など忘れた様子で、すたすたと一人歩きだすゆた兄。

 私たちはその背中を、呆然と見つめる。

 そして、ユーリが慌てて肩から手を離した。

 まるで女扱いされているみたいで、鳥肌が立つ。


「……なんか最近、春緒に近づくと奈津乃に呪われそうな気がする」


「はは。気を付けろよ」


 笑って答えては見たものの、きっと顔はうまく笑えていなかった。

 奈津乃は、私と抱き合いたいと思っている。

 その気持ちは嬉しいけど、私は応えられるかわからない。

 昔のトラウマが、消えないんだ。


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