恋慕エンヴィー(2)
「長谷川……!」
「俺も男だからさ、そういう目で女の子見ちゃうのは仕方ないなーって思うけど、これは駄目だろ」
「痛たたた!!」
ユーリは津田の腕を握る力を強めた。
津田が悲痛な声を上げて身を捩らせたが、ユーリは手を離さない。
「それに、こいつら俺の友達だし、手ぇ出されたくはないんだよな」
あ、これ両方の意味で。
軽く微笑みユーリは付け加えると、投げ捨てるように手を離した。
体勢を崩していた津田は、解放されると不恰好に両手を床に着いた。
奥歯を噛み締め、悔しげに奈津乃やユーリを睨んでいる。
私は、奈津乃を背に庇うように一歩前に出た。
「仕返ししてやろうとか、考えんなよ? 悪いのはそっちなんだからさ」
微笑を浮かべたままに、ユーリは足を上げた。
そして、津田の右手目がけて振り下ろした。
「っ!」
床を思い切り踏みならす音。
目を瞑った津田の右手。
その隣、数ミリの所にユーリのスニーカーがあった。
「あと、夜道で奈津乃や春緒を後ろから襲うとか、そういうのもナシな。やったらどうなるかはわかるだろ?」
「わ、わかった! わかったから……!」
津田は何度も頷くと、力の入らない両足で急ぎながらふらふらと去っていった。
ふう、と息を吐いて、ユーリは私たちを見てにやにやと笑う。
さっきのような作り笑いではなく、緩みっぱなしのだらけた笑い。
「いやー、お前ら相変わらずラブラブだな。萌える」
先程までの緊張感が、一瞬で断ち切られた。
なんというか、ユーリはオタクだ。
美少女モノだけというわけではなく、漫画やアニメ全般が普通より深いレベルで好きなのだ。
外見は爽やかな好青年。いや、優等生のほうがぴったりかもしれない。
さらさらの黒髪にはワックスなどは付けず、伸ばし過ぎていないため、清潔感に溢れている。
頭もよく、面倒見がよくて周りに頼られている。
それでいて、こいつは喧嘩も強いのだ。
そんな漫画みたいな設定があってたまるか、と言ったらユーリは真剣な顔でこう言った。
『当たり前だろ。だから俺は喧嘩も強くなったし、勉強だって頑張ったんだ!』
つまりユーリは、自分で自分を漫画みたいな人間に仕立て上げたのだ。
外見は生まれながらだから仕方ないにしても、頭のよさや喧嘩の強さはユーリが自分で楽しむために身に付けたものである。
優等生なのに喧嘩が強いなんて、二次元なら萌える設定だろ!と熱弁し始めたユーリには、私も返す言葉がなかった。
まぁ、それで誰かに迷惑を掛けているわけではない。
面倒見がいいのもユーリの根からの性格だから、例え救いようのないオタクであっても、私はユーリが好きだ。奈津乃の次くらいに。
「助けてくれてありがとな」
「気にすんなよ。俺はいちゃつくお前らで腹一杯だから」
「なら、裕理はいっつも満腹でお腹破裂して死んじゃうんじゃない?」
「萌え死ぬなら本望だろ!」
顔を輝かせたユーリ。
私と奈津乃は見つめ合い、苦笑を零す。
残念なイケメンって、まさしくこいつのことだと思う。
「奈津乃、ご飯食べようか」
「そうね。裕理もそこ座ったら?」
「ご一緒していいの? ラッキー」
奈津乃も、やっぱりユーリのことは好きらしい。
先程津田が座っていた席に腰を下ろすと、ユーリは楽しそうに私たちを眺めていた。
奈津乃が席に座ったあとで、私も自分の席に着く。
ユーリにだけは、私たちがだだの友情で繋がっているわけではないと話してある。
奈津乃の方から、話したいと言ったのだ。
私は少し躊躇ったけど、ユーリなら全部受け入れて今まで通りの対応をしてくれると思ったから、打ち明けることに決めた。
『お前ら仲いいからもしかしたらって思ってたんだよなー……。三次元の、しかも身近で萌えが補給出来るなんて、神様に感謝だ!』
こんな感じの事を口にし、ユーリは私を拝んでいた。
物分かりのいい幼馴染みを与えてくれたことを神に感謝したいような、こんな残念な発言をする男に成長させてしまったことを恨みたいような、複雑な気持ちだったことはいまだに忘れられない。
あのときばかりは、さすがに突っ込む気も失せた。
思っていた通り、ユーリは今までと同じように私たちに接してくれて、私はそれがとても嬉しかった。
一応、女同士で恋愛関係になるなんて世間的には普通ではないことだってわかっている。
だから、周りから軽蔑の視線で見られたって仕方がない。
でも、ユーリには離れてほしくなかった。
ユーリは、大切な幼馴染みだから。
萌えの対象という視線を向けるようになったことは、目をつむろう。そういう奴だとはわかっていたんだから。
私とユーリは親同士が友人で、家も近所だったから生まれたときからの付き合いだ。ちなみに、気が付いた頃にはオタクになっていた。
今、私が一人暮らしをしているのも、隣にユーリが住んでいるから許しをもらえている。
こんな私でも親にとっては可愛い一人娘。大学生になっても、一人暮らしをさせるのは心配だっただろう。
「羨ましいなぁ、裕理は。アタシもハルちゃんの隣に引っ越そうかしら」
「お、いいじゃん。俺としては大歓迎!」
奈津乃はうっとりと微笑み、私にとっても夢のような希望を口にする。
ユーリも、嬉しそうにそれに乗った。
落ち着け、二人とも。
「いや、お隣さんもういるから」
しかも、新婚さんだから。
邪魔しないであげてくれ。
「まぁ、これは春緒が家出る条件だったしな」
「条件? なになに? 聞きたい!」
奈津乃は食べる手を止めて、目をきらきらと輝かせる。
そんなに話すほどの内容じゃないんだけどな。
でも、奈津乃が聞きたがるなら……。
「ユーリと同じ大学行くなら、一人暮らしさせてやるって言われたんだ」
奈津乃はよくわからない、と首を傾げた。
私の両親は、ユーリに対して絶大な信頼がある。
勉強も出来、人柄もよい。長い付き合いでもあるため、私とユーリの間にも間違いがあるわけがないと考えている。
私もユーリと男女の仲になるなんて、考えられないけどさ。
「私の初めの志望校が、ここより一つか二つランク低いとこでさ。でも、学部は同じだったんだよ」
「うんうん。それで?」
「そしたら親がさ、一人暮らししたいならユーリと同じ大学行けって。それで私たちが互いに近くに住めば、私の親もユーリの親も安心だってことで、話がまとまったんだ」
私に何かトラブルがあったとき、ユーリが近くにいれば私の両親は安心だし、ユーリの近くに私がいれば、体調を崩したときや毎日の食事に関してユーリの両親は心配しなくてすむ。
親同士も、私がここに受かって随分と喜んだ。
「春緒、めちゃくちゃ勉強したよな」
「仕方ないだろ、私、馬鹿だし」
話が決まったのが高三の春だったから、夏は死ぬかと思った。
だって、初めは受かるレベルの大学だったから安心してたけど、いきなりD判定になったんだ。
あの一年は、思い出したくない。
「春緒は馬鹿じゃなくて、勉強してこなかっただけだよ」
「それを馬鹿って言うんじゃないの?」
「ちょっと違うかな」
ユーリは苦笑し、私の頭を軽く叩く。
「昔から春緒はやれば出来る子だからね」
「お前、私のこと子供扱いしてるだろ?」
「気のせい、気のせい」
「気のせいじゃない!」
叩いていた手を変えて、ユーリは私の頭を撫でる。
私の両親から『春緒を頼む』とかなんとか言われているのか、昔からの癖なのか、それとも過保護な性分なのか。
私もそんなに子供じゃないつもりなんだけどな。
「もう! いつまでハルちゃんに触ってるの! 離れてよ」
「痛っ! 奈津乃、それ痛い!」
黙っていた奈津乃が急に動きだした。
頬を膨らませながら、自分の箸で私の頭を撫でているユーリの腕を突く。
ちょん、などという触れる程度の可愛いものではなく、肌に食い込むのが目に見える程に、容赦なく奈津乃は箸で差した。
手加減はしていると思う。手加減をしてなかったら、ユーリは痛がる程度では済まされないだろうから。
そういえば、前に奈津乃はユーリが私の彼氏じゃないかって疑っていたことがあった。
馬鹿だな、ユーリなんかに嫉妬して。
私が好きなのは、奈津乃だけなのに。
「奈津乃、ユーリ相手にヤキモチなんてやかなくていいよ」
「そうだよ、奈津乃。俺らは兄弟みたいなもんだし」
「……でも、妹萌えってジャンルがあるんでしょ?」
「あー……そうくるのね」
奈津乃を安心させようと口を開いた私に続いたユーリ。
しかし、奈津乃の鋭い指摘にユーリは一瞬言葉を詰まらせた。
「確かにあるけど……俺は妹属性はないな。つーか、俺が言いたい兄弟は、弟の方」
「っ、ひどい! ハルちゃんを男扱いするなんて最低!」
「えぇ! いや、これは言葉のあやでちゃんと春緒のことは女の子として見てるよ」
「それじゃあ、アタシとライバルじゃない。ハルちゃんは渡さないんだから!」
何を言っても裏目裏目に出てしまうユーリに、私は同情の苦笑を送った。
「春緒、奈津乃がわかってくれない」
「はは。お前の完敗だな」
落ち込みを体全体で表現するように肩を落としたユーリを、小動物が威嚇するように睨み続ける奈津乃。
そんな顔しても可愛いだけって気付いてないのかな。
ここが食堂じゃなかったら、すぐに奈津乃を抱き締めるのに。
ぎゅって強く抱き締めて、奈津乃が安心するまで大好きと繰り返して、腕の中のぬくもりに胸が熱くなって。
もし私が男だったら、周りの目があってもそう出来たのかな。
「奈津乃、手出して」
私は小指を立てた右手を、奈津乃の目の前に差し出した。
私が何をしたいのか。
すぐに察した奈津乃は迷わず私の小指に自分の小指を絡ませた。
「約束。覚えてるよね?」
「……もちろん!」
花が咲くように、奈津乃の顔に笑顔が広がった。
私たちの、約束。
ユーリや男友達と親しく話す私に嫉妬する奈津乃のための。
自分の気持ちを確かめるために、色々な男に抱かれる奈津乃に胸を痛めていた私のための。
お互いのための、秘密の約束。
「何、その美味しい雰囲気?」
「秘密」
奈津乃は舌を出し、嬉しそうな顔で笑っていた。
なんだよー、と唇を尖らせたユーリを二人で笑いながらからかった。
いつも、君だけを想う。
たった、それだけのこと。
それだけの、言葉。
それだけで、十分だった。
十分だと、思っていた。
物足りなくなったのは、いつから?
絡めていた指を解くと、奈津乃は上機嫌でゼリーの蓋を剥がした。
乾いた音の弱々しい抵抗など気にせず一思いに剥がすと、頬を緩ませゼリーをスプーンですくい上げる。
「幸せそうに食うんだな」
「もちろん! ブドウ大好きだから」
そういうのもちゃんとわかっている。
奈津乃の好みは把握してるよ。
私の選んだものを嬉しそうに奈津乃が食べる。
それだけのことが、私の心を満たしていく。
「あ、斉川さんだ」
「相原さんに裕理くんも」
後ろから聞こえた声に振り向くと、そこには奈津乃の友人たちがいた。
「今からお昼? もう席空いてないわよ?」
「ううん、もう食べおわっちゃった。てか、斉川さんいいもの食べてるね」
一人が人懐っこい笑みを浮かべて、奈津乃に擦り寄る。
奈津乃は「えー」と唇を尖らせながらも、すくいとったゼリーをその子の口元へと運んだ。
「ありがと! いただきまーす」
ぱくり、と躊躇いなく彼女は奈津乃からゼリーを受け取った。
ざわりと俺の胸を締め付ける、形容しがたい不快感。
私は二人から目を逸らし、床をにらみつけていた。
言葉に表すのが難しいだけで、自分でこのどろどろしていてぐちゃぐちゃに混ざっている感情の名前を知っている。
これは、嫉妬だ。私は奈津乃の女友達にさえ、嫉妬心を燃え上がらせている。
奈津乃に近づかないでくれ。
私より傍に寄らないでくれ。
胸が痛い。
体の奥から沸き上がる嫉妬の言葉たちに、吐き気がする。
この感情に気付いたとき、私は奈津乃との絆が友情ではないと思い知らされた。
「春緒」
そっと耳元で囁かれた、私を心配するユーリの声。
その気持ちは有り難いが、今の私には受け入れがたい。
「悪い、離れて」
ユーリの胸を押し、体を離す。
「奈津乃が、いるから」
吐き気がするほどの思いを、奈津乃に感じてほしくない。
今は特に、指切りの後だから。
「……悪い、気い遣ってやれなくて」
ユーリは、どこまでも優しい。
私だけじゃなくて、奈津乃の気持ちも大切にしてくれる。
ごめん、と小さく呟いて、私は彼女たちが通り過ぎるまで、顔を上げて愛想笑いを浮かべ続けた。