欠落フレンズ(2)
それからの毎日は、今までと何も変わらずに過ぎていった。
変わったことは一つ。
私の、心。
「春緒、最近可愛くなったよな」
「か、可愛い!?」
真正面からの不意打ち。
にこにこと笑う菅ヶ原から目が離せず、言葉もなく私はぱくぱくと口を動かした。
不幸なことに担任から任された雑用を一人こなしていたら、幸運にも現われた協力者。
それが菅ヶ原だったのは、私にとって幸か不幸か。
明日の生徒総会のための資料をホッチキスで止める単調な作業。
ぱちん、ぱちんと規則的に音の響く中、それを壊した菅ヶ原の声。
可愛い。
て、私が?
言葉を理解してしまったら、最後。
規則的な音が、止まる。
菅ヶ原の手は止まらずに、作業を続ける。
「春緒?」
「……か、可愛い」
「うん。春緒は可愛いよ」
躊躇いもなしに笑顔を浮かべて頷く諏訪に、私は、ただ固まった。
嬉しくて、恥ずかしくて、胸が苦しくて、吐きそう。
恋する女の子は、強いな。
気になる人が近づくだけで嬉しさが逆流して気持ち悪くなるのに、それでも毎日学校へ行くんだ。
好きな人に会える、それだけの理由で。
おそらく、今の私は真っ赤な顔をしている。
全身の熱が全て顔に集まっていることが自分でわかるんだ。
いつもは強気なのに、こういうときどうすればいいかわからない私は本当に情けない。
出来ることは、ただ俯くということだけ。
「春緒って男勝りなとこあるけど、普通に女の子じゃん。どうしてみんなあんなに男扱いするのかな」
私の変化など無視して、諏訪は言葉を続ける。
あぁ、もう嫌。
恥ずかしくて死にそう。
私はただ俯いて、逃げ出しそうな足の上で拳を握っていた。
「……春緒?」
「やっ……!」
菅ヶ原の手が、額に触れる。
思わず顔を上げてしまった。
赤くなった顔が見られてしまう。
私は必死で俯いたが、素早く菅ヶ原の両手が私の頬を包み上を向かせた。
「やめろよ……!」
「やっぱり、可愛いって」
「う、煩い! 私が可愛いわけないだろ」
「なんでわかんないかなぁ」
菅ヶ原は首を傾げながら、両手を離した。
私はすぐに俯いて、何度も深呼吸をした。
吸っても吸っても息が足りない。
目頭が燃えるように熱い。
どうやら、涙まで出てきてしまったらしい。
本当に、どうして私はこんなにも、弱いんだろう。
もうやだ。
恥ずかしい。
ポロポロと数粒の涙が頬を伝う。
「も、やだ……」
「は、春緒!?」
「うぅ~……」
弱々しく腕を伸ばし、菅ヶ原の身体を押し退ける。
いきなり泣きだしてしまって、菅ヶ原も困っているんだろう。
だけど、私の中の許容量はあまりにも少なくて、些細な菅ヶ原の言動でオーバーしてしまう。
菅ヶ原の気持ちまで配慮する余裕は、正直ない。
困らせてごめん。
でも、私はどうしていいかわからない。
「どうしたんだよ、春緒……」
「やだ……」
「何が嫌なの? 俺、なんかした?」
私の抵抗を抜け、菅ヶ原の両手が私の肩を掴んだ。
普段の様子からは想像出来ない力強さに、逃げられなくなった。
菅ヶ原が悪いわけじゃない。
私はふるふると首を動かした。
「私、ダメなんだ。わかんない」
「わかんないって何が?」
菅ヶ原を好きだって気持ちをどうコントロールするのかわからない。
そんなこと、言えない。
私は再び首を振ると、益々深く俯いた。
「春緒……」
「やめ……」
「泣いてる女の子を放っておけないよ!」
肩を掴む力が強まった。
あ、と思った一瞬。
その一瞬で、私の身体は菅ヶ原に抱き締められていた。
時間が止まる。
呼吸も思考も、全てが止まる。
あったかくて、くるしくて、しあわせな気持ち。
心臓の音が、はっきりと響く。
菅ヶ原に聞こえてるんじゃないかと心配になる。
「離せ……!」
頭の中が真っ白になって、私はただもがいた。
女の子として扱われることが、怖い。
今までの自分を、全て壊してしまうようで。
本当は嬉しいのに。
菅ヶ原の優しさが。
女の子として見てくれることが。
それを嬉しいと伝える術を私は知らなかった。
「離せよ!」
優しく抱き締めてくれた腕を、私は全力を籠めて振り払った。
机を挟んで向かい合う。
私は、ゆっくり後退り、菅ヶ原を睨み付けてしまった。
違う、本当はこんな目をしたいんじゃない。
嬉しいって。
ありがとうって。
伝えたい気持ちは真逆なのに。
浅い呼吸を繰り返し息を整え、立ち上がった。
ダメだ、喋るな。
頭の片隅で鳴り響く警戒音。
「嫌だって言ってるのに、近づいてくるなよ……」
菅ヶ原のせいじゃないと言いながらも、この荒れる胸を菅ヶ原のせいにしてしまう。
矛盾しているとわかっていた。
「お前なんか……嫌いだ!」
わかっていたのに、言ってしまった。
言葉にしてから生まれた後悔。
撤回することも出来ず、私は教室を飛び出した。
家に帰ると、私は家族の誰とも顔を合わせずに部屋へと逃げ込んだ。
荒い呼吸のまま扉に寄り掛かると、ゆっくりと足から力が抜けていく。
ぺたりと床に座り込み、身体が空になるまで息を吐く。
言葉の刺を突き刺し、私は逃げた。
思ってもいないのに、傷つけた。
傷つけておいて、それでも好きだなんて。
そんな我儘が許されるわけないだろ。
「っ……最悪」
素直になれない自分が嫌になる。
恋愛が苦手だなんて、初恋だからなんて、ただの言い訳だ。
初恋であっても素直で可愛い子はいるんだから。
そうなれないのは、私が可愛くないから。
女らしくないから。
ずっと男みたいに生きてきたんだ。
いまさら女のふりなんて……。
一人部屋に籠もっていると、どんどん思考は悪いほうへと巡っていく。
窓から入る光の量がだんだんと減っていった。
時間がどれだけ過ぎたんだろう。
鬱々とした気持ちを救ってくれたのは、たった一つのノックの音。
「……春緒。カバン忘れてるぞ」
私を助けてくれるのは、いつもこいつだ。
「……ユーリ」
背中に感じた二つの振動に、私はのろのろと顔を上げた。
「開けるぞ」
ユーリの言葉に私は慌てて頬を拭う。
そして、四つんばいでドアから離れると身体をドアへ向けた。
待ち構えるように、正座に座り直す。
ドアノブが下へと回る。
がちゃり、という音に合わせて身体が強ばる。
扉が開き、ユーリが柔らかな笑顔を見せた。
その笑顔に、私は安心してしまう。
「ユーリ……」
「どうしたんだよ、忘れ物なんて。しかも仕事投げ出すなんてさ」
カバンを片手で持ち上げ、ユーリは苦笑する。
私があまり気負わない様にと気を遣ってくれているんだ。
本当は、もっと言いたいことがあるだろうに。
私がユーリの立場ならすぐに何があったか、聞いてしまう。
それが、ユーリの優しさ。
「ありがとう……」
「どういたしまして」
放り投げられたカバンを両手で受け取る。
ずっしりと重いカバンを抱えてユーリを見上げると、ユーリはドアを閉めて電気を付けた。
「お前、暗くなったら電気付けろよ」
「ん……」
「……落ち込んでるときに暗い部屋にいたら、余計落ち込むだろ」
「……うん」
ユーリの言う通りだ。
明るい部屋で、気持ちが少し楽になる。
ユーリが来てくれたことですっかり落ち着いた私は、ぽつぽつと今日のことを話しだした。
「あの、さ……」
菅ヶ原と二人で作業していたこと。
菅ヶ原が女扱いするから、つい怒ってしまったこと。
本当はそれが、嬉しかったこと。
途中言葉を詰まらせながら拙く言葉を紡いでいく私の話を、ユーリは辛抱強く聞いてくれた。
相づちを打ちながら、ただただ聞いてくれた。
「大丈夫だよ、春緒」
ユーリはしゃがんで、私の頭を撫でる。
昔から私は、不安なことがあるたびにユーリに泣き付いて、そのたびにユーリはこうして頭を撫でてくれた。
羽が触れるような、軽やかで優しい手つき。
その手に、何度救われてきたか。
「その程度で嫌われるほど嫌な奴じゃないよ、春緒は。気付いてないだけで、魅力的なんだからさ」
「魅力的……?」
「そうだろ? 春緒って男女ともに友達多いじゃん。それだけ魅力的なんだよ」
自分が本当に魅力的なのかはわからない。
むしろ、そうとは思えない。
でも、ユーリが励ましてくれる。
だから私は、大丈夫だと思える。
「そんなに気になるなら、明日謝ればいいよ」
お前なら出来るよ。
そう言ってまた頭を撫でられた。
またひどいこと言うんじゃないかという不安を言葉にすることは許されなかった。
でも、言葉にしたら本当にそうなってしまいそうだから。
ユーリのすべてを見透かしたような態度に、私は頭が上がらない。
「ありがと、ユー……」
「しっかし、春緒がツンデレキャラだったとはな~……」
「……は?」
感謝の気持ちを素直に伝えようとした矢先。
ユーリは頬を緩めて私を見つめている。
結構本気で、気持ち悪い。
慰めてもらった奴の台詞じゃないけど、気持ち悪いよユーリ。
「冷たいこと言っちゃってごめんって、恥じらいつつ謝る……。言い終わったら恥ずかしくなってその場から走り去ったりするとなおよし!」
「……」
「あ、なんだその可哀相な人を見る目は!」
「人で妄想するな」
母親といいユーリといい、本当にこの妄想をどうにかしてほしい。
だけど、助けられたのは本当。
「……さんきゅ、ユーリ。頑張るよ」
「おぅ」
僅かに目を細めたユーリの笑顔が、一瞬泣いているように見えた。
次の日は、目覚めから気が重くて吐いてしまいそうだった。
でも、行く。
菅ヶ原に謝るって決めたから。
そうしないと、私は自分で自分を認められない。
ユーリと登校すれば、きっと勇気づけてくれるだろう。
だけど私は、あえて一人で登校することにした。
自力で頑張りたい。
今日、菅ヶ原は日直だから早めに登校するはず。
私もいつもより早く家を出た。
信号で足を止めるたびにそのまま家に帰りたくなったけど、それは駄目だと前に進む。
本当に、私ってただの意気地なしだったんだな。
もう少し強いと思っていたんだけど。
校門の前に立ち、校舎を見上げる。
辿り着いた校舎が、いつもより大きく映った。
(行きたくない……でも、頑張るって言ったし)
拳を握り締め、一歩を踏み出す。
敷地内に入ってしまえば、もう覚悟は出来るから。
覚悟というよりも、諦めに似た感覚だったけど。
下駄箱で靴を履き換え、菅ヶ原の靴を確認する。
(ある……)
ということは、もう校舎内にいるということ。
いなかったらいいな、と思っていたことは秘密だ。
朝練中の野球部の掛け声、吹奏楽部の演奏、それらに耳を傾けながら一人教室へと歩いていく。
私の足音だけが響く。
どくどくと響く自分の心音。
制服の上から胸を掴み、深呼吸をする。
気が付けば、目の前には自分のクラスの扉。
音を立てないように扉に手を伸ばし、勢い良く扉を開けた。
少しでも迷ったら逃げ出してしまいそうだ。
だから、腹をくくって何も考えずに扉を開けた。
開けてしまえば逃げられなくなる。
崖っぷち、というやつに持ち込め。
「あ、おはよ……」
「ん、春緒? おはよう。てかお前ひどいだろ、昨日俺に仕事任せて帰りやがって」
「ご、ごめん」
教室には、菅ヶ原一人。
柔らかな朝日に包まれた教室で、光を反射した黒板を消しているところだった。
昨日ひどいことを言ったにもかかわらず、菅ヶ原はいつもと変わらない笑顔を俺に向けた。
「はは、いーよ。実際春緒が半分以上やってくれてたしさ」
そう言って菅ヶ原は黒板から一歩離れた。
「どう? 超キレイ」
「そ、うだな」
「ん? どした? 元気ない?」
「いや……その一人で日直?」
「あぁ、鈴木の奴寝坊だってさ。メール来てた。朝の仕事は俺が全部やっとくから、帰りはよろしくって返信したとこ」
手にしていた黒板消しを置いて、菅ヶ原は軽い動きで私の前へと飛んできた。
急接近に、私は思わず体を固める。
言わなくちゃ。
心が、叫ぶ。
「あのっ、さ……!!」
「ん?」
自分が逃げ出してしまいそうだったから、菅ヶ原の制服の裾を掴んだ。
これでもう、後には退けない。
私は俯き、口を開く。
「き、昨日はごめん!」
「え? だからそれはいいって……」
「仕事のことじゃなくて!」
勢いに任せれば、言える気がした。
私は顔を上げて、菅ヶ原を見つめる。
高さがあまり変わらないから、真っ向から見つめ合う形になった。
「昨日、ひどいこと言った。ごめん……!」
「ひどいこと?」
首を傾げる菅ヶ原に、私はなけなしの勇気を振り絞った。
「大嫌いって……思ってもないこと言ったんだ……」
菅ヶ原はぽかんと口を開けたまま、しばらく固まった。
何か、変なこと言ったか?
また、ひどいこと言っちゃったのか?
私自身が冷静じゃない今、思考はどんどん悪いほうへ巡り、体が教室から逃げ出そうと菅ヶ原の裾を離した。
不安で一杯になった胸がはち切れて駆け出そうとした瞬間、私の手首を菅ヶ原が掴んだ。
息を忘れる程の驚き。
菅ヶ原は真剣な瞳で、私を覗き込んだ。
「思ってもないって……春緒は俺のこと好きだって思ってくれてるってこと?」
菅ヶ原の言葉が、一瞬私は理解できなかった。
それは、どういう、意味?
私が、菅ヶ原を、好き。
そうなのかを、尋ねている。
「っ……!」
「ま、待った! 何で逃げようとするの!」
理解した瞬間に、私の体は逃げ出すことを選択した。
……が、菅ヶ原がそれを許さず腕を引っ張る。
教室から半分出た体を前に進めようとするが、菅ヶ原に捕まれた右手がピンと伸びて私を引き止める。
「図星? ねぇ、春緒?」
「っその……」
また口を開けば何か傷つけるようなことを言ってしまいそうで、私は黙って腕が抜けそうなくらい思い切り右腕を振る。
それでも菅ヶ原は手を離さない。
「春緒、春緒ってば!」
「煩い! もういいから離せよ」
もう無理だ。
これ以上ここにいたら恥ずかしくて死ぬ。
気持ちが、バレてしまった。
肯定こそしていないものの、この態度では頷いたのと同じだ。
それくらい、恋愛経験ゼロの私でもわかる。
なら、菅ヶ原だってもう察したはずだ。
「行くなって、春緒」
空いていた菅ヶ原の手が私の肘を掴んで、力付くで教室内へと引き寄せる。
非力な抵抗も虚しく、菅ヶ原にしっかりと腕を掴まれ、そのまま体ごと菅ヶ原に掴まった。
二度目の抱擁。
全身が強ばった。
「俺、春緒に好かれてるかもって思ったら凄い嬉しい気分になったんだけど」
「……へ?」
震える声。
背中から抱き締められているから菅ヶ原の顔は見えない。
菅ヶ原が口を開くたびに、熱い吐息が私の首筋を撫でる。
「っ……」
「春緒……俺が好きなの? そうなら、俺……」
菅ヶ原に肩を掴まれ、無理矢理に向かい合う。
私は何も言えずにただ、菅ヶ原を見つめることしか出来ない。
ふんわりと、菅ヶ原が笑う。
「……俺は、好きだよ。春緒のこと」
……嘘だ。
いやいやいや、ありえない。
そんな都合のいい展開、少女漫画じゃあるまいし。
いや、大して少女漫画読んだことないけど。
とにかく、信じられない。
菅ヶ原は嘘をつくような奴には思えないけど、はいそうですかと信じられる程、人生は都合良く出来てはいない。
思考も行動も、呼吸さえも一時停止。
フリーズしてしまった私の視界では、ぼんやりと映る菅ヶ原が困った様子で肩を竦めた。
そして、ゆっくりと近づいてくる。
「……んっ!?」
視界が鮮明になったのは、唇に触れる感触に気付いたとき。
菅ヶ原の顔が目の前にある。
短い前髪がくすぐったい。
驚き堅く閉ざした唇を、菅ヶ原はぺろりと舐めた。
「な、に……ふっ……」
舐め上げられて開いた唇の間から、しっとりとした舌が侵入してきた。
他人と唇を触れ合わせるのも、口内に他人の舌が入ってくるのも、全てが初めてでわけがわからなくて、私は菅ヶ原にされるがままだった。
迫る舌から逃げれば追い掛けられ、絡み合い、互いの唾液までもが交ざる。
菅ヶ原の手が頭を支えているから、逃げることも出来ない。
キスがどういうものかなんて知らない。
だから、これが普通だと思ってしまった。
長く深い口付けから解放され、私は大きく息を吸い、そして吐き出した。
無意識のうちに掴んでいた菅ヶ原の制服。
力が強くて、しわが出来てしまった。
「信じられないって顔してたけど、ここまでしたら信じてくれる?」
ぼぅっとする頭で、頷いた。
菅ヶ原の言葉を意味を、そこまで理解しないままに。
菅ヶ原はにっこりと微笑むと、丁寧な手つきで私の制服に手を伸ばした。
「何を……!?」
「お互い好きなんだから、普通だよ?」
「は? え、何考えて……」
菅ヶ原が何をしようとしているかくらい、さすがの私にもわかった。
だけど、ここ、教室……!
菅ヶ原は私の首筋に顔を埋め、ふぅと息を吐いた。
生暖かいその感覚に、私の背筋は震える。全身の力が揺るみ、背中から壁へと寄り掛かった。
「や、やめ……菅ヶ原!」
「大丈夫。みんなが来るまで二十分くらいはあるから」
「大丈夫じゃ、ない!」
菅ヶ原の動きがぴたりと止まる。
そして顔を上げると、下から私を見上げ、哀しそうに目を伏せた。
「ごめん、春緒……。俺の勘違いだったんだね」
「……え?」
「春緒と両思いだと思ったら嬉しくて舞い上がってた。……ちゃんと確認もしないで、キスまでして」
落ち込んでしまったようで、声のトーンが下がっていく。
嫌いなんかじゃないのに、また勘違いさせてしまう。
そう思った途端に、私は思い切り首を振った。
「違う! 嫌いじゃない!」
素直になりたいと思った。
だから今、頑張って、素直のままに言葉にしないと。
きっとまた後悔する。
その一心で放った言葉だった。
「じゃあ、いいね?」
いいも悪いも、わからなかった。
だって、何が普通かわからないから。
だけど、菅ヶ原が俺を好きで、求めてくれるのなら、応えなければいけないように思える。
また逃げてしまったら、もう菅ヶ原と顔を合わせられない。
だから、頷いた。
全てが初めてで何もわからなかった。
体が動けなくなるほど、怖かった。
だけど、私は、菅ヶ原を好きだから。
だから大丈夫だと信じて。
好きな相手となら、怖くない。幸せだ。そう何度も言い聞かせて。
菅ヶ原の指が、制服のボタンを外した。
鎖骨付近に外気が触れる。
どくん、と高鳴る胸。
怖かったけど、嫌なわけじゃない。
そう、嫌じゃない。
未知の領域に、恐怖してしまうだけ。
菅ヶ原が私を好きで、手を伸ばしてくれたことは嬉しいんだ。
「菅ヶ、原……」
「ん?」
私は堅く目をつむり、力の抜けた体を壁に預けながら息を吐いた。
菅ヶ原は手を止めずにボタンを全て外すと、片手で私の顎を持ち上げる。
制服の前が開き、恥ずかしさで目が開けられない。
それでも、この言葉は伝えなければ。
「好き……」
菅ヶ原は何も言わずに、触れるだけのキスをした。
初めての行為自体は、大して時間を掛けずに終わった。
場所は教室だったし、じきにみんなが来てしまう。
恥ずかしくて、体の内側から爆発してしまいそうだった。
痛くて痛くて泣いてしまった。
声を上げて、叫んだ。
それでも、感じた幸せは嘘じゃない。
嬉しかったのは、私の本心。
なのに、それは、簡単に崩れ去った。
菅ヶ原が体から出ていき、詰まるように溜め込んだ息を吐き、全身から力を抜いた。
ひどい倦怠感と脱力感。
そして下腹部で、今の行為が現実であったと主張する痛み。
全てが初めてで、経験も知識もまっさらだった私は何も疑問に思わなかった。
やけに菅ヶ原が強引に行為を進めたがっていたことを、不思議に思わなかった。
本当に私のことを思ってくれていたなら、初めての場所を教室にはしないだろうことも。
菅ヶ原の行為はあまりに乱暴で、痛みに近い快楽のみしか与えなかったことも。
少しでも知識があれば疑えただろう。
しかし、私は何も疑わず菅ヶ原に全てを任せてしまった。
せめてもの救いは、避妊はきちんとなされていたことだろうか。
カシャリ、と無機質な音が耳に届いた。
痛みに朦朧とした頭では、それが何かわからなかった。
そう、それが携帯のカメラのシャッター音だと気付いたとき、菅ヶ原はもういつもの笑顔を浮かべてはいなかった。
驚きに言葉を失う、私。
乱れたままの下半身に向けられていたレンズが、今度は私の顔に向けられて、再び無機質なシャッター音がギロチンのように振り落とされる。
菅ヶ原はグレーの携帯の画面を私に向けた。
そこに写っていたのは、制服の前がはだけ、スカートは腹まで捲り上げられ、下着も満足に付けていない、私の姿。
顔は映っていない。菅ヶ原が次の写真を表示させると、そこには驚愕とショックで表情を失った私の顔があった。
頭の中が真っ白になる。
「男みたいって聞かされてたから難攻不落かと思ってたけど、案外あっさりだったね」
ひどく愉快に悪魔のような笑顔を見せる菅ヶ原。
こんな人、しらない。
私の知ってる菅ヶ原じゃない。
先程の初めての行為に対する恐怖とは違う。
本能的な、身の危険を感じる危険が迫る。
私はすぐにスカートを直し両手で前を隠す。
菅ヶ原から目を離さずにしゃがみ、下着も履き直した。
怯える私が面白いのだろう。
菅ヶ原は喉奥で笑いを堪え、肩を震わせた。
「俺も男みたいな奴って思ってたけど、カラダは普通に女じゃん。……いや、普通の女よりずっといい。気持ちよかったよ、春緒」
口角を吊り上げ、菅ヶ原はしゃがむ私の髪に手を伸ばした。
騙されたんだ。
そう気付いたとき、情けないとか悔しいとかいろいろな感情が交ざり合い、それは目の前の菅ヶ原へとぶつけられた。
「ふざけんな!」
伸ばされた手を払う。
途端に、菅ヶ原の目の色が変わる。
口元には笑みを浮かべたまま、瞳は強く俺を睨み付けた。
「今の状況わかってんの?」
「っ!」
髪を掴まれ、無理矢理に目を合わせられた。
「種明かし、してやるよ。春緒さ、小学校のクラスメイトで堀内っていたの覚えてる?」
堀内……。
名前だけではわからなかった。
目を逸らし記憶を探る私に気付き、菅ヶ原はにっこりと笑った。
「春緒の友達の由佳ちゃんだっけ? その子を泣かせて、春緒に泣かされた堀内くんだよ」
そう言われ、思い出した。
私の中に根付いた「男女!」と叫んだ声の持ち主だった。
「それが……なんだよ」
「あいつ、俺の……一応、友達でさ。今だに春緒のこと恨んでんの」
今だにって……悪いのは堀内だったじゃないか。
馬鹿馬鹿しい、と吐き捨てようとしたが、先に菅ヶ原が話し始めた。
「堀内さ、昔由佳ちゃんが好きだったんだって。で、ちょっかい出したら泣いちゃって。そしたら春緒と喧嘩になって泣かされた。それが今でも悔しいんだとさ」
当たり前だよね、と菅ヶ原は笑う。
「女相手に喧嘩で泣かされるなんて、男のメンツ丸潰れだよ。しかも、好きな子の目の前で」
それを聞かされてしまえば、堀内には少し悪いことをしてしまったかとも思う。
だけど、あいつは女の子を泣かせたんだ。
自分だけが被害者みたいな考え方に腹が立つ。
「で、あいつ制服姿の春緒を見かけたんだって。そしたら偶然俺と同じ学校でさ。代わりに復讐してくれって。正直馬鹿馬鹿しい話とは思ったけど、お金くれるって言うから悪い話じゃないし」
菅ヶ原は俺の髪から手を離し、目線の高さを合わせると、無機質な笑顔で言った。
「それに、女抱けるならラッキーじゃん? 春緒って性格の割にいいカラダしてるし」
舐め回すように体の上、特に胸に注がれる視線。
菅ヶ原は私から視線を外すと片手の携帯を開いて、画面を見つめ頬を緩める。
「王子様ぶってる男女に、女として屈辱的な暴力ってのが堀内の希望ね。で、これは証拠写真。体と顔とを分けて撮ってやったのは俺の優しさだから。顔写真付きの裸の写真なんて撮られたら終わりだろ? この写真、堀内には見せるだけでデータは渡さないでおいてあげるよ。別に俺、あいつのことそんな好きじゃないし、自分だけで持ってた方が何かと便利そうだしさ」
再び俺に携帯を見せ付け、写真の存在を確認させる。
明らかな脅しだった。
「退けよ!」
何かを言われるより先に、私は菅ヶ原を突き飛ばし教室から逃げ出した。
どうしていいかわからなくて、走りながら適当に制服のボタンを閉める。
足は自然に下駄箱へ向かい、思考はすでに自室へと逃げ込むことしか考えていなかった。
すぐに家に帰ろうとすれば、きっとユーリとすれ違ってしまう。
妙に冷静な私の頭の指示に従って、私は直帰せずにいつもの公園へと逃げ込んだ。
ユーリに相談をしたあのベンチに、腰を下ろした。
あの時は、もっとふわふわと幸せに包まれていたのに。
あまりにも衝撃的過ぎて、涙も出てこない。
全身の力を抜いて、ベンチに溶けるように寄り掛かる。
何が起きたかを整理しようとしても、心がそれを拒み何も考えられない。
王子様ぶってる男女に。
女として屈辱的な暴力を。
思い出したくない声が、反響する。
「っ……!」
私は両腕を抱え、うずくまる。
耳から聞こえているわけではないから無意味なのに、何かから身を守るように体を丸めた。
そうだよ、私、間違ってたんだ。
私みたいな男女が恋なんて、おかしすぎるよな。
神様が笑ってたんだ。
お前に恋は似合わないって。
それなのに私は浮かれ、舞い上がった。
だから、これはきっと戒めなんだ。
傷つくなんて馬鹿げてる。
初めから、恋愛なんかするべきじゃなかったんだな。
唇の端から、乾いた笑いが漏れた。
涙は出ない。
当たり前のことだった。
傷ついて涙を流す資格なんて、私にはないんだから。
公園の周りを歩いていた人たちが減り始め、私は携帯を開いた。
ユーリからメールが着ていた。
時間は九時を回っている。学校が始まったのに姿が見えない私のことを心配してくれているらしい。
もう授業が始まっているはずだから、帰ろう。
いつまでも制服でうろうろするのは良くない。
大丈夫か?
その一言のみのメールを眺め、立ち上がる。
返信ボタンを押し、歩きながら文面を打ち込んだ。
考えすぎて知恵熱出た(笑)
今日は休むよ。
さらさらと嘘をつき、送信。
数歩歩いたら、すぐに返信が出た。
慣れないことするからかな?
お大事に。帰り、寄るよ。
ユーリの優しさが有り難く、同時に少し疎ましかった。
心配して来てくれるのは嬉しいけど、来てもらったところでどうすることもできない。
大体、なんて話をすれば良いんだ。
騙されて、処女を奪われて、写真まで撮られましたって?
そんなこと、誰にも言えるわけがない。




