魅了メランコリー
自分の恋人をこう表現するのはどうかと思うが、他にしっくりくる言葉が思い浮かばない。
だけどやっぱり、これが一番しっくりくるんだ。
私の彼女は、狂っています。
『ごめ……、ごめん……』
電話越しでも泣いているのがわかる鼻水混じりの声。
『ハルちゃ、ん、ごめんねぇ……』
聞いている者の心を蝕むような泣き声を、聞き逃さぬよう私は携帯に耳を押し当てる。
何かを聞き逃せば、彼女の糸はぷつりと切れて動かぬ人形となることくらい簡単に予想できた。
だから私は、『聴く』という行為に自身の全てを捧げる。その文字が示す通り、耳と心でその声を聴くのだ。
きつく携帯を押し当てた耳が、痛い。
呪文のように続く彼女の『ごめん』は、不思議なことに『愛してる』とよく似ていた。
彼女の薄桃色の唇は、愛の言葉も謝罪も同じ音で響かせる。
「大丈夫? どうしたの?」
ああ、私はなんて白々しいんだろう。
どうしたの、なんて聞きながら、私は彼女の涙の理由が見当付いている。
それでもなお、その小さく愛らしい唇から形にさせようとする私は、なんて浅ましく残酷なのだろう。
ごめんね、奈津乃。
でも、君の泣き声に私は安心しているんだ。
いつもは笑っていてほしいと願っているけれど、この時ばかりは声を枯らすほどに泣いてくれと願ってしまう。
奈津乃が何で私に電話してきたかなんて、わかりきっている。
『寝たの』
だから私は、その端的な返答にただ「わかっているよ」と頷いた。
誰と、とか。
何で、とか。
正直私はどうでもいい。
だって奈津乃は泣いてくれるから。
私ではない人に触れられて、彼女は泣くから。
『やっぱり私、ハルちゃんが、いい』
私以外は嫌だと胸を痛めるから。
だから私は、君を許せる。
大好きな人に他の男が触れている。内側から溢れだしそうな嫉妬心を、我慢出来るよ。
「大丈夫だよ、奈津乃。私は君が一番好き」
『う、ん。私も、私も……ハルちゃんが、好き』
泣きじゃくりながらも、安堵に表情を緩める奈津乃が浮かぶ。
彼女を思い浮べれば、私はいつでも心穏やかに笑える。
「今日はもう寝たほうがいいよ。明日、一限からだよね?」
『うん。……ありがと、大好き』
ぷつり、と切れた電話。
私はふぅと息を吐いて、目を閉じた。
奈津乃は、狂っている。
そしてそれに負けないくらい、私もきっと狂っている。
奈津乃は自分の愛情が信じられない。
私は別に、奈津乃がそばにいてくれるならその愛情が本物かどうかは構わないつもりだけど、奈津乃は違う。
奈津乃は、私を愛している自分を確認したがる。そうしなければ、自分の気持ちを信じきれない不安に押し潰されてしまうらしい。
その方法が、男に抱かれること。
抱かれている間にふと、この人じゃ駄目だと頭によぎるらしい。
そして、思い浮べてくれるのは私の顔。
そこで私を思い浮べてくれることが、本当に嬉しいと思う。
だって奈津乃は、昔の恋人や過去に一度抱かれた相手、友人、家族のどれでもなく私を選んでくれているんだから。
私は、その事実だけで毎日を生きていける元気を得る。
例え、彼女が間違っているとしても。
私が、おかしいのだとしても。
「奈津乃……」
生まれてから一度も染めたことのない、闇のように深く艶のある黒髪。
緩く巻いた毛先に絡まる白くて長い指。
綺麗に手入れされた爪は可愛らしいピンク色。
ふっくらと色気のある唇には透明感のある赤い口紅。
元から長い睫毛には余計な化粧は施されず、切れ長な瞳が気だるげな微笑を浮かべている。
白い肌。
華奢な体。
控えめな胸がさらに彼女をか弱くみせる。
奈津乃のことを頭の中に思い浮べるだけで、私は胸の奥が疼くような感覚に襲われる。
私は彼女に、胸が痛いほどの愛しさを感じている。
それを知らせるように、きゅうと疼く胸の奥。
それはとっくの昔に諦めた、恋愛時特有の胸のときめき。
私も奈津乃も、立派な女。
それでも、私の心はまるで中学生のように純粋に、奈津乃の姿を求めているのだ。
奈津乃との初めての出会いは、ちゃんと覚えている。
三ヶ月前。
まだ春に成り立てで、夜になれば冷たさの交じった暖かな空気が幻想的に夜風と戯れる頃。
大学生活一年目も無事に過ごし、二年目に突入しようとしていた春休みのことだった。
なんとなく腹が減った私は、夜中だったが構わず近くのコンビニへ向かった。
とりあえず、バニラアイスでも食べよう。そんな勢いで。
一人暮らしのアパートの周囲は比較的治安もよく、コンビニも歩いて五分くらいだから夜中の一人歩きであってもさほど心配はなかった。
コンビニではまだ肉まんが売っていた。
見ていたら食べたくなってきた。
でも、バニラアイスも捨てがたい。
しかも、こっちにある新商品の桜風味のゼリーも可愛くて美味しそう。
結局、三つとも買って私はコンビニを出た。
さすがに夜中食べる量としては多すぎると思わなかったわけでもないが、美味しそうな食物の誘惑にはかなわない。
そう、仕方がない。美味しそうなコンビニスイーツが悪いんだ。
いざとなれば、隣のユーリに食べさせればいい。
などとあれこれ心の中で言い訳をしながら部屋へと歩いていた私の視界の端で、何か黒いものがもぞりと動いた。
「……?」
そっちを見ると、そこはすでに閉まっている小さな本屋の駐車場で、その端で黒くて丸いなにかを発見した。
それが蹲っている人間だと気付いたとき、私は慌てて駐車場へ飛び込み、その人の腕を思い切り引っ張った。
折れるんじゃないかと思うくらい細い腕を引き上げると、続いて覗いたのは黒い瞳いっぱいに涙を溜めた、今にも泣きそうな女の子だった。
「だ、大丈夫!?」
その子は驚きに目を丸くし、すぐにくしゃりと顔を歪めた。
「あ、えと、うち近いから寄っていきなよ!」
泣いている女の子をほうっておくわけにはいかなくて、知らない人の家に連れ込まれるなんて怖いだろうと思いながらも彼女へ声を掛けた。
こくん、と一度だけはっきり頷いた彼女の体を、強引に背負った。
見た目同じ年くらいの女だというのに、苦労なく持ち上がるほどに、彼女は軽かった。
月並みだけど、羽でも生えてるんじゃないかと思った。
「っ、うっ、んっ……」
耳元で押し殺された嗚咽が響く。
やや妖しげながらも色気のある声に、私は背負っているのが女性ということも忘れて、背筋を硬直させた。
ぞくり、と背筋を撫で上げられるような感覚。
耳から侵入し、体の支配権を強制的に奪われてしまうような、甘くて魅惑的な涙声。
「……ねえ、アイスとゼリーと肉まん、どれ食べたい?」
「…………へ?」
間の抜けた、擦れた吐息に近い返事に、私は苦笑を浮かべてみせた。
「さっきコンビニで買い過ぎてさ。どれか一つ食べてもらえると助かるんだけど」
気軽な雰囲気を意識して、なるべく明るい声を出す。
彼女からの返事はなかったが、私にしがみつく腕の力は強まった。
細い腕。
それが必死で私にしがみつく姿は、たまらなく愛らしく、力になりたいと思わずにはいられなかった。
部屋に戻った私はまず、お風呂の温くなった湯を抜いて、新しく温かい湯を張った。
春先とはいえ、まだ僅かに寒い。
背負った彼女の体も冷たかったものだから、戸惑う彼女を強引に脱衣所へと押し込んだ。
「着替えとタオルは用意しとくから、ゆっくり入ってよ」
「…………ありがとう」
ぽつり、と呟かれた感謝の後に、ゆっくりと風呂場のドアを開ける音が聞こえた。
もう、大丈夫かな。
そう判断した私はバスタオルを用意し、クローゼットを開けた。
家に入るときに彼女を背から下ろし並んでみたが、頭一個分は背が低かった。
私の服じゃあ、絶対にでかいだろうな。そこは無難にジャージでいいか。
さて、次の問題は下着だった。
私はこんな性格ながら、発育だけは人並み以上で、背も胸も、でかい方だった。
下はいいとして、ブラは確実にサイズが合わない。
ノーブラ……はやっぱり嫌だろうなぁ。
一応私は女だけど、知らない人間の家で付けないのは抵抗あるだろ。
どうしようかと頭を抱えていると、脱衣所からか細い声が聞こえてきた。
「あの……」
「え、あぁ! ごめん!」
いつのまにか上がっていた彼女は扉を少しだけ開けて、頭をぴょこんと出して私を呼んだ。
湯上がりで上気した頬が白い肌では際立っていて、長い黒髪は意志を持っているように彼女の頬や首筋、鎖骨へと絡み付き張りついていた。
彼女の色っぽさに、私は思わず息を呑む。
同性相手にドキドキしてしまったのは、初めてだった。
ドキドキするほどの色気が、彼女にはあった。
「あ、あの、下着が合わないかもしれないんだけど」
顔が熱い。
ドキドキしたあとに下着の話なんて、照れずにすることが出来なかった。
彼女はきょとんとした顔で私の胸を見つめると、くすりと笑みを零した。
「……そうね。こんなに大きなサイズじゃ、アタシには合わないわ」
控えめに笑う彼女は、確かに楽しそうだったから、私も釣られて微笑んだ。
可愛い女の子って、まさしくこういう子なんだろうな。
「キャミソールだけでいいから、貸してくれる?」
「え、それだけでいい?」
大丈夫よ、と彼女は笑みを零した。
「貴方はアタシに襲い掛かったりしないもの」
それは、私が女だからと安心しての言葉というよりも、私という人間に対して向けられた信頼の言葉だった。
私は返事に困りながらも、用意していたバスタオルとジャージを渡し、急いでその他の物を取りに行った。
自分でも私自身は女らしい方ではないと自覚しているけれど、決して女性に対してその気があるわけではない。
それなのにドキッとしてしまう程、彼女には惹かれるものがあったのだ。
彼女は名前を、斉川奈津乃といった。
話していたら私と同じ大学の同学年だとわかり、まさかの偶然に驚いてしまった。
「学科が違う人だと、全然接点ないじゃない? 知らなくてもおかしくないわよ」
「確かに。同じ学科でも知らない人いるしさ」
わかる、と頷き奈津乃は肉まんに小さな口で噛り付いた。
私もバニラアイスに木のスプーンを突き刺し、すくい上げた。
冷凍庫に入れるのを忘れていたから、少しどろっとしている。
「斉川さんはどうして情報学部に?」
「斉川さんじゃなくて、奈津乃でいーよ。アタシもハルちゃんって呼ぶから」
猫のような瞳でじっと見つめられ、私はぎこちなくだが頷いた。
正直、不思議だった。
初対面の人間を部屋に入れて、のんびりとお喋りするなんて、考えられないことだったから。
それだけ、奈津乃は私の中にすんなり入ってしまったんだ。
奈津乃は首を傾げて唸り声を上げたあと、そのままの体勢で唇を尖らせた。
「アタシ、やりたいことがなかったの。でも、大学は行きたかったからとりあえず受かりそうで、就職に強いとこ探したらここにだったのよ」
とりあえず、というがうちの大学は国立であり、とてもじゃないが「とりあえず」で受かるような大学ではない。
私だって、必死で勉強してギリギリなんとか受かったくらいだ。
「ハルちゃんは? どうして?」
奈津乃は満面の笑みで、私との距離を詰めてきた。
真下から見上げられ、その姿が可愛くて、つい頬が緩んだ。
「私はプログラム関係の仕事がしたくて」
「プログラム? ……そっか、ハルちゃんのほうはそっちがメインなのよね」
奈津乃は何度も頷いて、私の隣に、私と同じようにベッドを背もたれに座り直した。
私も奈津乃も同じ情報学部。ただし、私の学科はプログラミングやサーバー管理のように技術に関する勉強メインで、奈津乃の学科はパソコンを用いた情報収集や処理などの利用法をメインに勉強している。
奈津乃は黙ったまま天井を見つめていた。
何かあるのかと釣られて天井を仰ぎ見るのと、隣から声が聞こえたのは同時だった。
「夢があるっていいなぁ」
吐息混じりに、本当に羨ましそうに呟くものだから、私は何を言っていいかわからなくなった。
わからなかったから、ただ黙って隣にちょこんと収まる頭を軽く撫でた。
「ハルちゃんって、甘やかすの上手」
「え、そう?」
「うん、ちょっとずるいくらい」
そう言うと奈津乃は、私の肩に頭を乗せた。
そして、ひどくか細く弱い声で、囁くように言葉を漏らした。
「……ほとんど初対面の相手に悪いとは思ってるんだけど、少し愚痴ってもいい?」
そんな弱った子猫みたいな態度を取られたら、突き放せない。
「そういう相手だからこそ、話せることもあるんじゃないかな」
「……やっぱり、甘やかし上手ね」
口元に緩く弧を描くと、奈津乃は私の体に体重をほとんど預け、ぽつり、ぽつりと口を開いた。
奈津乃の話の内容は、どうしてあんなところにいたのかであった。
奈津乃はまず、自分は人を好きになれないのだと、重大な罪を告白するように呟いた。
彼氏がいても、自分は本当にその人が好きなのかわからない、と。
自分では、確かに好きだと思っているが、それはその人じゃなくてもいいのではといつも不安になるらしい。
「でもね、唯一アタシは今の恋人を愛してるって確信する瞬間があるの」
「どんな時?」
奈津乃は目線だけを私に向け、自虐的に微笑んだ。
「恋人以外とセックスするとき」
形のいい唇から飛び出した攻撃的な言葉に、私はしばらく理解が追い付かなかった。
普通に驚いてしまったが、言葉の意味を理解したときには、妙に納得してしまった。
「この人じゃ嫌だって思うってこと?」
私の言葉に、今度は奈津乃が目を丸くして言葉を失った。
「どうかした?」
「……驚いた」
ぽかん、と口を開けたまま奈津乃はやや頬を高揚させて、俯きながらも興奮気味に呟いた。
「わかってもらえるなんて、思いもしなかったから……。いつも、みんな、アタシの話は聞かないで、そんなのおかしいって言うばかりだったから」
奈津乃は慌てて顔を上げると、染まった頬のまま首を振った。
「それじゃいけないってことはわかってるのよ? でも、でもね、アタシはそうしないと不安で不安でどうしようもなくて」
「ま、待った! ちょっと落ち着こうか、ね?」
早口でまくしたてる奈津乃の肩を掴み、顔を覗き込む。
私の言葉が相当嬉しかったんだろうか。
止められた今も、落ち着きなく何度も小刻みに頷いている。
「ごめんなさい、びっくりしちゃって……」
奈津乃は自分を落ち着けるように、肩にかかった黒髪を掻き上げて、そのまま耳に掛けた。
その時に見えた白い首筋に、はっきりと咲いていた赤い華。
私はすぐに目を逸らす。
今の話の流れだ。それが何で、恋人との間で付けられたものではないだろうことは考えるまでもなくわかる。
私は見ていないふりをした。
奈津乃は息を吐くと、私の体から離れて目を伏せた。
「悪いのはアタシってわかってるけど、止められなくて……。そんな自分が嫌になるの」
「だから、泣いていたんだね?」
こくん、と頷き奈津乃は俯いた。
確かに、奈津乃は間違っていると思う。
本人には浮気のつもりはないが、男からすればこれは立派な浮気だ。
例えそれが、愛を確認するためであっても。
「さっきも、そう。アタシ、フラれちゃったの。もうやめてほしいって言われてたのに……止められなくって」
自分が悪い、と奈津乃は肩を落とした。フラれたのも当然だ、むしろ彼氏の方は今までよく許してくれていたくらいだ。頭が上がらない。そう呟く。
確かにそうだと私も思う。
そのようなことをしていれば彼氏にフラれるのは仕方の無いことだろう。
そうは思っても、何故か私は奈津乃を非難出来なかった。
軽蔑もしていない。
むしろ、その弱い部分が愛しく思えさえした。
「確かに、奈津乃に非があるけど……」
私は、素直に思ったことを口にした。
「私はそれを責める気にはなれない」
「……どうして?」
「わからないけど。それとも、奈津乃は責めてほしかった?」
「……わかんない」
私は、弱々しく首を振る奈津乃の頭の上に手を置き、その動きを止めた。
そのまま、優しく髪を梳くように頭を撫でる。
「私が責めて奈津乃が救われるなら、嫌われるくらいに責めてあげるよ」
そう言うと、奈津乃は小さく吹き出した。
「アタシもそこまで馬鹿じゃないから、自分のために怒ってくれる人を嫌いになったりしないわ」
奈津乃の手が、ふいに頭を撫でていた私の手首を掴む。
小さく細い手の割に強い力だったから、私の手は動きを止める。
「聞いてくれてありがとう。こんなこと話せる相手なんかいなかったから、嬉しかったわ」
「でも、よく話す気になれたよね?」
「ハルちゃんも、アタシと同じで恋愛が苦手そうだったから」
悪戯に笑い舌を出してみせた奈津乃に、私は言葉を詰まらせた。
恋愛が苦手。
まさしくその通りだった。
「わかるもの?」
「なんとなくは、ね」
苦笑してみせた奈津乃は、鞄から黒い携帯を取り出した。
察した私もベッドの上に放られてた携帯に手を伸ばす。
「アタシ、ハルちゃんのこと好きになっちゃった。これからも、仲良くしてくれる?」
「もちろん。私も奈津乃のこと好きだよ」
この時はまだ、お互いの好きは友情の域に納まっていたのに。
いつからか、なんてわからないし、いつからでも構わない。
友達になりたくて、当たり前のように連絡先を交換しただけ。
それが、始まりだった。