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2 充実のキャンパスライフ

起承転結の「承」になります。

     2 充実のキャンパスライフ


ネスレ女学院は5年前に、うちの大学と交流授業などで提携を始めた。お嬢様学校といっても、寄付だけでは成り立たず人件費削減の一環という噂だ。考古学や宇宙科学といった、その道で名の通った第一人者の教授が講義する人気のパンキョー(一般教養)は総合大学でしか受講できないらしく、ネスレから女子学生が押し寄せてくる。初年度は互いにプライドもあり、学生の間に戸惑いもあったそうだが、今ではすっかり定着し、交流は順調そのもの。男子学生からは『目の保養になる』、女子は『刺激を受ける』などの意見が多く聞かれ、総じて評判がいい制度なのである。

僕にとっては願ったり叶ったり。詩織が火曜と木曜の週二回も我がキャンパスに通って来るのだ。しかも、同じパンキョーを選択していたのは超がつくほどのラッキーで、授業時間も含め充実した毎日を送っていた。ゴールデンウイークが明けて以降、慣れ親しんだ後方の席を放棄し、詩織のペースに合わせて教室のほぼ中央に座っても、考古学の勉強は以前に増しておろそかになった。詩織はというと、隣の僕などお構いなしに、やる気満々で講義に集中している。少し寂しい気はするけど、それは仕方がないと諦めもつく。失ったものより、手に入れたものの方が数倍の価値があるから。密集地帯の息苦しささえ我慢すれば、詩織の真剣な横顔を眺めているだけで幸せだった。

終了を知らせるチャイムが鳴ると、僕らは決まって神学館の空き教室へ向かうようになった。ゆったりとした会話が楽しめるのもさることながら、誰にも見られないという条件にピタリと合うからだ。別に秘密主義ではないけれど、大っぴらにしたくないのは紛れもない事実。人目を避けるような行動を、詩織がどう思っているかは知らないが、この教室で話す彼女の表情は生き生きとしていた。『太宰の小説に出てきそうな空間』という独特な言い回しで表現する詩織。だから『たまには別の場所で』という話にはならなかった。

その日はすがすがしい好天に恵まれ、屋外のベンチで過ごすことになった。どちらかが誘ったわけでもなく、ごく自然な流れ。アイコンタクトのように、言葉で表さなくとも伝わる思いがあった。それほど、僕と詩織との距離は急速に縮まり、意思の疎通ができるようになっていた。そして、僕の中には『誰に見られても構わない』という意識が芽生え始めていた。彼女に対する自信の表れでもある。

詩織はレースのついた真っ白な日傘をたたみ、片手でスカートの膝裏を伸ばしてから、ゆっくりと腰掛けた。背筋を伸ばし、両脚をそろえて少し斜めに流す。ごく自然なポーズでもマナー講座のお手本のような仕草に映り、ひとつひとつの所作が育ちの良さを物語る。360度どこから見られていても完璧すぎる立ち振る舞い。気品にあふれたその姿に注目が集まるのは仕方がないことだった。前を通り過ぎる女子学生たちは、詩織を自分のお手本にしようと観察するかのような眼で追い、カップルの男子学生は、隣の彼女を意識しながら見て見ぬふりを決め込む。そして、男だけのグループは、『なんでこんなやつと』と言わんばかりに、詩織を一瞥してから僕をにらんでくるのだ。やはり、いつもの空き教室に行くべきだったか。いやいや、これから詩織と長く付き合っていきたいのなら、腹を決めて突き刺さる視線にも耐えなければならないのだ。そんな僕の気持ちを知ってか知らずか、詩織はいつも通りの優しい視線を投げかけてくる。

「ほんとにいい天気。たまには外もいいね」

やわらかな木漏れ日が彼女を包み込む。気温はぐんぐん上昇して、真夏日に迫る勢いだ。時折吹くそよ風が長い黒髪を揺らし、薄手の白いカーディガンをなでていく。モネのような優しいタッチの風景画に、そのまま収まりそうな気がした。僕は背もたれに寄りかかり、レンガ造りの4階建て校舎と並木の間に広がる真っ青な空をぼんやり眺めた。

なんて贅沢なんだろう。いつの間にか、突き刺さる視線も気にならなくなり、この幸せな時間が永遠に続けばいいのにと願った。

二人きりの教室では、沈黙が長く続くのは好まないけど、オープンな場所だから無理に話し掛ける必要もない。詩織と一緒にキャンパスの雰囲気を堪能することができた。芝生で寝転がる男子やベンチで読書する女子学生、目の前を行き交う人の流れを見ているだけで青春の息遣いを感じる。日に日に色味を増していく木々や短くなる建物の影。いつもなら気づかない光景が次々と目に飛び込んできた。自然に溶け込む二人だけの空間を満喫していると気が緩んでしまい、何も考えずにポロリと本音が出てしまった。

「ずっと一緒にいたいな」

我に返った瞬間、頭から湯気が出た。聞こえなかったことを祈りつつ、恐る恐る横をうかがうと、詩織は優しく微笑んだ。

「嬉しい。私もそう思ってた」

こんな幸せな日々がくるなんて、想像もつかなかった。彼女に出会えたキセキを神様に感謝した。ほんの二か月しか経っていない大学生活の出来事が頭の中を駆け巡り、些細なことで悩んでいた小さな自分がばからしく思えた。あのコンパ以外でも、自己紹介するたびに、学部のことを興味津々に訊いてくる奴が山ほどいた。悪意はないけどうっとうしい。バイト先の連中なんかは、まだ1年だというのに就職の心配までしてきた。まったく大きなお世話だ。神学部で教会の息子というだけで、なぜ一般の学生とは違う重たいレッテルを貼りたがるのか理解できない。イメージ先行もいいところだ。

好きな子もいるし、酒を飲み、激しいロックだって聴く。お化け部員ではあるけどサークルにも入っている。なんら他の学生と変わりなどしない。そう思いながらも、入学した当初は、負のイメージが身体に蓄積されていた。でも、今はそういったことは微塵もない。なぜなら、詩織と過ごした時間の尊さを思い返すだけで、前向きになれるのだ。これが恋愛のパワーなのかとほくそ笑む。横に目を移すと、詩織は僕を見て優しく笑った。心の中を覗かれたようで、面映ゆくなり視線を逸らしてしまった。

初夏を感じる昼下がり、ふたりにとって大切な時間はゆっくりと流れていった。


「水臭いじゃないか。なんで俺に紹介してくれないんだよ」

僕を見るなり、順平が軽く肩をぶつけながらすり寄ってきた。昨日の今日だから、それだけで何のことかはすぐ察しが付いた。どうやら見られていたようだ。詩織と一緒にいた現場を。こいつに見つかったところで、まったく不利益が生じることはない。そうなるのも織り込み済みで、堂々と目立つ場所にいたのだと言っても過言ではない。そう楽観していた僕は、この後すぐに後悔することになる。

「えれー美人と知り合いじゃねーか。もしかして彼女か」

「いや違うよ、ただの友達さ」

「でも好きなんだろ。俺の目にくるいはない」

お前は、占い師か。真剣な表情を見る限り、どうやら当てずっぽうでもなさそうだ。見てたら分かると言わんばかりの自信ありげなニュアンスだった。

「それにしても趣味が悪いぞ。覗き見するなんて」

「わりーわりー。風景に溶け込むくらい、あまりにもいい雰囲気だったもんでな」

今度は、バシバシと肩を強めに叩かれた。そして、やけにしつこく恋愛感情があるのかを尋ねてくるので、隠す必要もないと思い頷いた。すると順平は眼をキラリと光らせ、ここぞとばかり次の手に打って出た。

「じゃあ、架純ちゃんにコクってもいいか」あまりにも唐突で予想外の言葉だった。

順平と架純は、僕を通じて知り合った。まだ友達未満の関係だと思っている。だから、愛だの恋だのというフレーズがピンとくる由もなかった。僕が知る限りでは、いつもの喫茶で三回ほど顔を合わしただけである。確かに架純は可愛いし愛想もいいからモテるのは当然だ。そう考えれば、彼女がいない順平が惚れるは必然の流れかもしれない。だけど、二人の会話がはずんでいるのを見た覚えがない。ひょっとして僕に鎌をかけているのかもと思ったが、どうやらその線もなさそうだ。架純にその気がないのは見え見えなのに。はっきり言えばアウトオブ眼中。女友達が多いこいつなら、不利な状況は分かっていよう。

もしかして、これが一目惚れというやつか。目の前にいる順平の眼は真剣そのものだ。いつもの冗談など出る気配すらない。僕は答えに困る。なんで僕に了解を得ようとしているのか分らない、などといったKYな言葉を吐く気はさらさらない。ちゃんと意味なら理解しているつもりである。でも、常識にはかれば、GOサインを出すのもおかしいし、ストップをかけることもできない。

架純はただの友達――だが、応援する気にはなれない。ふつふつと湧きあがる負の感情はなに? ひょっとしてヤキモチなのか。そんなことはない、僕は詩織が好きなのだから。理解不能な架純に対する思いが交差する。愛情でもなければ嫉妬でもない。こんな煮え切れない気持ちは初めてだ。答えが出せない僕を見かねた順平は強硬手段に出た。

「わかったよ。義理は果たしたからな」

ニヤッと笑う順平はいつもの彼ではなかった。これ以上、話してもしょうがないと思ったのか、そそくさと教室を出て行った。これから専門教科が始まるというのに。一度くらい休んでも成績に影響することはないが、編入を目指し真面目に取り組んでいるヤツにしては大英断かもしれない。そこまで真剣だったのかと、今になって思い知らされた。

授業が終わり、急いでいつもの喫茶へ降りると、架純が雑誌を広げていた。何事もなかったようなので、ホッとため息をつく。

「どうしたの、息なんか切らして」―走ってきたのがバレバレだった。「いや別に」とごまかすしかない。架純はさほど不審がる様子もなく、笑顔で迎えてくれた。「そうだよな、男がほっておくわけがないよな」正直な気持ちが口からこぼれ出した。

ヤバイと思ったが、聞かれていなかったので胸をなでおろす。次の講義が始まるまでの半時間、たわいもない話題に花を咲かせた。真意をはかることはできなかったが、僕としては何もなかったという結論に達した。でも、ひとつだけ大きな変化があった。それは架純に対する僕の接し方。順平の言葉が頭に残り、意識せずにはいられなかった。表現できないようなドキドキした胸の高鳴り。一緒にいると単純に楽しい。1秒でも長く架純と話していたいと思うのはなぜか。恋は気の迷いから始まるという。深みにはまる自分の姿を想像すると、身体がブルっと震えた。そんな訳はないと念押しする頭に詩織の顔が浮かぶ。

この一件を境に、僕は架純を自然と避けるようになってしまった。


 二人乗りしている自転車の影が僕らを追いかける。後ろに横がけした彼女の髪がなびいて気持ちよさそうだ。少し驚かしてやろうと、前かがみになり急にスピードを上げる。

 「落ちないように、しっかり掴んでろ」

 バタバタさせていた足を静かにさせ、詩織が黙ったままシャツの裾を引っ張る。表情は確かめられないが、照れくさそうだ。彼女の影が少しだけ縮こまる。僕がこんな強気になれるのは、詩織が背中越しにいるからだ。面と向かっては、彼女をじっと見つめることさえできないのに……。

 再会してからひと月半。僕らの関係はそれなりに順調だった。

 倉庫から引っ張り出してきた相棒は、ギアチェンジも滑らかだ。また出かけることもあろうかと修理を済ませていた。マウンテンバイクを乗りこなす彼女が、なぜ後ろに乗っているかというと、『一度でいいから二人乗りをしてみたい』とつぶやいたからだ。教科書と弁当を詰め込んだスポーツバッグしか載せたことのない荷台に、詩織の重さを感じると胸がキュンとなる。危ないと注意されようが、警官に呼び止められようが、知ったことではない。高校生の頃に憧れていたニケツが実現するとは思ってもみなかった。パンクの心配をしていた古めかしい〝愛車〟は、ことのほか機嫌がよく、ペダルを踏み込みむと軽やかに加速した。塀の上で背伸びする猫の横を通り過ぎると川沿いに出た。梅雨入り前のうららかな日差し。蒼く澄み渡った空にトンビが弧を描く。子供たちのはしゃぐ声に混じって、口笛みたいな鋭い鳴き声が遠くに響いた。整備された堤防のアスファルトを車輪が滑っていく。水面を渡る風が心地よい。川の流れが緩やかになるのが見えたので急ブレーキをかけた。詩織のきゃしゃな左肩が背中にぶつかったので、「ごめん」と謝った。

幾重にも連なる四角い堰が小さな渦を作り出し、キラキラと光の反射を生む。陽気につられて出て来た家族連れが、アミを片手に魚とりをしていた。

「眺めがいいから、ここで休憩していこうよ」

詩織はリボンのついた帽子に手を当て頷いた。この前はサイクリングに適した服装だったが、今日は初めて目にするキュロットパンツをはいている。腰がキュッとしまりスカートより丈が短いので美脚が強調され、それはそれで眼のやり場に困ったりする。堤防の土手に腰掛けるのを見て、きれいなワンピースじゃなくてよかったと思う。子供が跳ね上げる水しぶきに初夏を感じ、二人だけの静かな時間が流れていく。何もないのが、こんな幸せに感じるのは紛れもなく彼女のおかげだ。

高校時代、1年以上付き合った彼女がいたが、この胸の高鳴りは今まで経験したことがないものだ。ファーストキッスや初体験のドキドキ感は鮮明に覚えているけど、まるで比べものにならない。詩織とは、いまだに手も握っていないというのに。

『本当に大切なひとには簡単に手を出せないものだ』―そういう話を聞いたことがあるが、僕にとってこれほど今の心境に当てはまる言葉はないような気がする。うがった見方をすれば、彼女が二人乗りを提案してきたのは、もっと接近したいというサインかもしれない。手をつなぎたい、抱きしめたい、キスをしたいという欲望は人一倍あるけど、まだ焦ることはないさ、と自制するもう一人の自分がいるのも確かなのだ。自転車でスピードを出しても、決して彼女は腕をまわしてこなかった。だから僕は今日、手も触れず見守ることにした。何か失うことを怖がっているのではない。それは理屈では説明できない男のプライド。本当の意味で詩織に認められたときに叶う望みなのだと、改めて思う。


 近畿が梅雨入りしてからこの4日間、晴れ間のない日が続いていた。先週、二人乗りで出かけたときに降り注いでいた夏の日差しが恋しい。僕と詩織は、このところ週末になると二人でデートスポットへ外出するようになった。いつの間にか、気兼ねなく誘える立場に昇格していた。たまにだけど詩織から誘ってくれることもあった。正式なカップルではないけれど、僕は今の関係で十分だった。しとしと降っていた小雨がやみ、雨宿りしていた屋根から滴が落ちるたびに、ポタポタという音だけが耳を洗う。

 「雨あがったね」詩織は勢いよく飛び出したかと思うと、道路を渡った小さな公園に入り、たたんだ傘を片手に持ち新体操のようにクルクルとまわった。薄手のスカートがふわっとなったので、心臓が一回大きく脈を打つ。何事もないように、いつもと違う無邪気な笑顔がこぼれた。こんな子どものような振る舞いもするんだ、と少しびっくりした。優雅にバイオリンを構える大人の詩織も素敵だが、目の前にいる少女もかなりなものだ。

 そして、真っ赤な傘を開いてから天高くほり投げた。濡れているのも気にせずブランコに座ると、前にできた水たまりを避けるようにしてユラユラとこいでみせる。ここまで性格が変わると、何かあったのかと勘繰りたくなる。そういえば今日のデート、急に誘ってきたのは詩織だった。

 「陽斗くんもおいでよ。ブランコに乗ろ」

 「わかったよ」と言って、傘を回収してから隣に座った。

 「ゲッ。びちゃびちゃじゃないか」

腰掛けた木が見た目より濡れていて下着にまで染みてきそうだ。腐食した部分から水分を吸い取っているのが分かる。条件が同じなら、詩織のスカートに跡形が付いているのではないかと心配になって、思わず叫んだ。

 「ストップ。ちょっと降りて、後ろを向いてみなよ」

 「やだ、恥ずかしいから」と、こぐスピードを上げた。

ひざ丈のスカートからスラリと伸びた細い足が大きな弧を描く。まるで中身だけ架純と入れ替わったみたいだ。少し意地っ張りで、お茶目なところがそっくり。やはり、無理をしているのだろうか。この一週間に何かあったに違いない。先週、二人乗りで出かけた詩織はいつもの彼女だった。僕に悩みを聞いてほしいと訴えているのではないかと思い、飛び降りてから詩織の握っている鎖をゆっくり掴んだ。そして水たまりを避けるように、有無を言わせず腕を引っ張り上げた。傘を手渡すと、神妙な顔つきで「ありがとう」と言った。やっと冷静になったみたいで、ホッとした。後方でギーコギーギーコと、僕の愛車がたてていた同じような音がゆっくりフェードアウトしていく。錆びついて動かなくなった遊具の間に蜘蛛の巣がキラリと反射した。雲の間から恥ずかしげに太陽の光が差し込んできた。お尻が気になったけど、詩織が大きめのバッグを後ろに回して隠していたので詮索はしなかった。他人に見つからないよう、乾くまで近くの喫茶店で暇をつぶすことにする。

 「どうしたんだよ、いつもの君らしくないじゃないか」

 「ごめんなさい」とうつむき加減になる。しばらく沈黙が続く。

何も考えずにぽっと入店した割には、ブレンドがおいしい。身体が冷えているにもかかわらず、詩織はミックスジュースを註文した。ストローでかき混ぜられる氷の音が、夏の蝉しぐれのようにじんじんと濡れたお尻に染み入るようだ。気持ち悪くて空気椅子をしたいくらいなのに、彼女は平気を装う。ひょっとして僕の方だけビチョビチョだったのかと疑うほどに。

水色のスカートの横から、少し汚れた傘の柄が顔を出していた。無言で抜き取り、ナプキンでごしごし拭くとすぐに取れた。でも目立たないくらいの擦り傷が残った。「これ以上はきれいにならないや」と言って渡すと、「いいの。前から傷はあったし」とほほ笑んだ。いつも礼儀正しい詩織が『ありがとう』と言わなかったのが、なぜか嬉しかった。感謝の気持ちは十分伝わってきた。

 すると、水のコップから氷を取り出し、テーブルの上に何かを描き始めた。意表を突かれキョトンとしている僕に、彼女は目を閉じるよう求めた。うまくいかないようだ。瞼の裏が光で赤く染まり、氷の揺れる音だけが聞こえる。『ありがとう』とでも書いているのか、それともハートマーク? いやいやそれはない――などと想像をめぐらしていると、ようやく彼女から開眼の合図が出た。予想以上に長かった。

 眩しい光とともに瞳へ飛び込んできたのは、相合傘だった。名前はない。たぶんそこまで描くのは恥ずかしかったんだろう。久しぶりに目にした懐かしいマークだった。小学校の頃にされた黒板のいたずら書きを思い出す。ストローを使ったのか、今度はしっかりと描けていた。氷ではこんなはっきりしたラインはでない。ゆっくり視線を上げると、詩織はそっぽを向いた。ほっぺが赤らんでいるように見えた。今のうちにイニシャルを付け足そう。グラスから透明な氷を掴むと、詩織はすぐさま反応して手で作品を消し去った。

 「これで証拠隠滅!」――「え、まだ写メも撮っていないのに」

 ふたりの笑顔がはじけた。やっといつもの詩織に戻った。聞いてほしい悩みでもあるなら、自ら打ち明けるだろう。詩織は僕を信頼してくれている。君がまだ話したくないのは、切羽詰まった状態じゃないから。僕に今できるのは彼女の気持ちを和らげることだけだ。お互いに秘密のひとつやふたつ持っていた方がいい。絶対的な恋人同士でもすべてを共有することなんて無理なのだから。僕はいつでも心の扉を開いて待っている。

 いつの間にかジーンズは乾いていた。確認しなくても大丈夫。

 「天気も良くなったし、そろそろ出ようか」

 詩織は「ちょっと待ってて」と言ってから席を立ち、手洗いの方へ向かった。後ろに組んだ両手には茶色のバッグがぶら下がっていた。ウインドー越しに目をやると、雨上がりのせいか人通りが多くなっていた。レジ袋を抱えた主婦や家路を急ぐ女子高生の姿が目立つ。スマホで時間を確認すると、もう5時を回っていた。映画館を出たのが3時半だったので、逆算すればここに一時間以上もいたことになる。どうりで気持ちいいくらいに乾いているはずだ。5分ほどで詩織が戻ってきた。バッグは左腕に掛けられている。シミでもあったらどうしようかと思ったが、これで心配はなくなった。

かねてから好きな人と登りたかった小高い丘へ誘った。急激に天気が回復したので、運が良ければきれいな夕日が望めるはすだ。きょうの詩織に、ぜひ見せてやりたいと思った。

頂上に続く長い階段を上ると街が一望できる。太陽が沈まないうちにと、詩織は急いで駆け上がった。太ももがチラチラ見え隠れしヒヤヒヤする。階段の下を確認すると、幸い上ってくる人はいない。手を握る絶好のチャンスなのに、つられて僕もダッシュする。部活でやったサーキットトレーニングのように全力で挑む。こうなったら競争だ。息を切らしながら、二人同時に最後の一段を上りきると斜めからオレンジ色の光が突き刺さった。黄砂の影響か、山の端は赤く染まっていた。万葉人が詠んだ秋の夕暮れは、どういった色をしていたのだろうか。京の都に思いをはせると、お寺から鐘の音が聞こえてきそうな気がした。やはり古都には神社仏閣が似合う。少なからず複雑な心境になった。息を切らしながら南斜面にある柵に近づき、深呼吸してから下界を見渡すと遠くに十字架が望めた。

「見えた、見えたよ。あれが教会ということは、あ! 私が暮らしている寮だ」

声を弾ませる詩織を見たら、連れてきてよかったと充実感に満たされる。

僕らが住んでいる辺りは、すでに山の影となり光は当たっていなかった。じわりじわりと東へ向かって暗闇が浸食していくのが目に見えてわかる。何の変哲もない二階建ての寮は、屋根のほんの一部しか確認できない。でもそれが分かるというのは、近くに目印の十字架があるからだ。碁盤の目に風格を持って点在する寺院に比べ、異色な存在ではあるが、ちゃんと教会もこのまちに根付いているのだと感じた。

横で詩織がスマホを取り出し、急いで写真を撮り始めた。僕は気づかれないようにゆっくりと逆光側に回り込んだ。フワフワしたスカートが風に揺れる。その美しいシルエットを収めようと、カメラを構えた瞬間、詩織は髪をかき上げながら僕の方を振り返った。身体にピッタリ張り付いたノースリーブの服から胸が強調される。赤く染まった西の空を背にした彼女はとてもセクシーだった。シャッターボタンを押す手が止まるくらいに。すると詩織は僕にサービスショットを撮れと言わんばかりに、白い歯を見せて照れくさそうに笑った。いつもなら意識して目を背ける僕だが、きょうはずっと見つめていられる。

空き教室の立ち位置とは真逆なのに――。

言わずもがな、液晶を確認しても美しい笑顔は再現できなかった。詩織は見せてほしいとせがんだが、見せられる出来ではなかった。でも、僕の記憶の中にはしっかりと、コンクールに自信を持って出品できるワンカットが焼き付けられた。

沈みゆく太陽を見つめながら、おもむろに詩織がつぶやく。

「今日はごめんね。私、なんだか意地になってたみたい」

 「もう忘れたよ。というか、僕的には違う一面が見れて楽しかったんだけど」

 「意地悪……」

カーンカーンカーンカーンカーン……

いい雰囲気になったところで、デートの終わりを告げる鐘が遠くで鳴った。


「いつかわたしの方に振り向かせてみせる」

突然の宣戦布告だった。岡崎架純の挑発的な眼差しが僕の胸を突き刺す。彼女が好意を持って接してくれているのは感じていた。だが、告白めいたことを面と向かって言われたのは、これが初めてだった。

いつものように授業の合間の空き時間、半地下の喫茶でカップを傾けながら読書にふけっていた。保温で煮詰まったコーヒーは苦く、香りもしない。でも、お代わり自由という誘惑にかられ、僕らは暇さえあれば長時間入り浸っていた。生協のおばちゃんとも親しくなり、遠慮なくコーヒーを注ぎにいけるのだ。この時間帯、架純は僕がここに居ることを知っているので、ちょくちょく顔を見せるようになっていた。今日もふらっと一人で現れ、「ご一緒してもいいかしら」と言って、セルフサービスのミックスジュースをカウンターから持ってきた。いつもなら対面の席にカバンを置き『暇そうだね、氷室君は』と軽口をたたくのに、やけにご丁寧なあいさつだった。嫌な予感がする。架純はところどころ表面の合成皮革が破けたソファーに腰を沈めると、ストローをガラスコップにさし喉を潤した。そして、ゆっくり息を吸い込んでから前かがみになり、戦闘モードに入った。

「氷室くん、この週末、予定あるの」

「土曜日は午前中に出席をとる語学がある。午後は単発のバイトを入れた。学生課の掲示板で見つけたコンサート会場の設営。ただの力仕事みたいだけど時給がいい」

「じゃあ、日曜日は?」誘ってほしいような上目遣いだったので、やばいと思い「家の手伝いがある」とはぐらかした。架純のことはいい友達だと割り切っている。器量もいいし、話し上手。性格も可愛らしく、フリーだったら速攻でデートを申し込むところだ。けど、あまり深い仲になるのは好ましくないと心にストッパーを掛ける。

「あー暇だなー」と組んだ両手を真上に伸ばした架純は、バストが強調されセクシーだった。そんなことで固い決意は揺るがない。アピールしている様子もなく、まったくイヤミがない。いつも自然な感じで接してくれるから、逆に対応に困ってしまう。僕にとっては一番の難敵かもしれない。贅沢な悩みではあるが、お断りするのも神経をつかう。

架純は一拍おいて、不敵な笑みを浮かべた。

「昨日一緒に歩いていた綺麗なひとは誰なの」

どうやら、今までは前ふりで、これからが本題のようだ。綺麗なひととは、詩織に間違いない。たぶん、女が嫉妬するような美しさなのだろう。架純の『綺麗な』という物言いには、なんとなくトゲがあった。僕は少しドキッとしたが、表情を変えないように「ただの知り合いだ」とそっけなくかわした。彼女の顔色が見る見るうちに変わる。言い方がまずかったのだろうか。ハートに火をつけたのは、間違いなくこの瞬間だった。

昨日、校内を仲睦ましく歩いていたのを見たのだという。女の直感というのは怖いものだ。詩織を見つめる僕の視線が愛情に満ち溢れていたらしい。絶対に友達以上の関係だと譲らない。半分は当たっているが、もう半分はハズレだ。詩織とは彼氏彼女の関係にあらず、誤解というのが正しいのである。架純は一歩も引きさがることなく追及を続けた。

「日曜日、あのひとと約束があるんでしょう」

『家の手伝い』という口実はとっくにバレているようだ。撤回できないかと無意味なことを考える。それとも『暇だよ』と言っていれば、展開がまったく違っていたのだろうか。いずれにしても、詩織との関係の追及は避けられなかった。以前、架純に『氷室くん、彼女いるの?』と訊かれたことはあったが、その時は正直に『いない』と答えた。『好きなひとはいるの?』という問いかけではなかったので、別に詩織のことを隠していたわけではない。〝言葉の綾〟を利用したのは素直に認める。まあ、そんなことは架純にとって重要な部分ではなく、ライバルと感じている以上、何を言っても馬の耳に念仏なのだ。

冷静になると、後ろめたい気持ちが心の底にあるのも事実だった。

なぜだろう―――架純とは、学食で向かい合って昼食をとったり、喫茶で時間をつぶしたり、大学の図書館で調べものをしたりと、ふたりで過ごす時間が日に日に長くなっていた。サークル仲間から『ヒューヒュー熱いね』などと冷やかされることもしばしばあった。その度に架純は頬を赤く染め、必ず『そんなんじゃないってば』と照れ笑いをする。そして僕の顔をチラッと見て、反応を確かめる。これで、僕に気があると感じなかったら、ただのバカか相当なニブチンだ。他にも、思い当たる節は数えきれない。本を広げて静かに勉強する僕の耳元で囁いたり、校内を歩くときに身体を寄せてきたり。そして僕も、優しいところ、気の利くところ、可愛いルックスも含めて架純に心が傾きかけていた。

そんなさなかに詩織と出会ってしまった。はたから見れば、二股をかけていると言われても反論などできない。しかし、あの日詩織と再会したときから、僕の腹は決まっていた。架純とは良き友達でいたいなんて、〝蜂蜜甘い〟のはわかっている。男と女の関係なんて、単純に割り切れるものではない。かといって、僕を慕ってくれる架純に、『好きな女ができた』なんて、厚かましい報告ができる対場でもないのだ。

なぜ、こんな僕を慕ってくれるのだろう。架純と初めて顔を合わしたコンパのことを、ふと思い出す。あのときは、隣にいたサッチーしか目に入らず、架純の姿はかすんでいた。少ない記憶をたどってみると、なにか違和感があったことに気づく。そう、最初のあいさつだ。『はじめまして』と言った僕に、サッチーは普通に返してくれたが、架純はうつむきながら、何か言いたそうな顔をしていた。今の明るい性格からすると、考えられないほどおしとやかだった。そして僕が神学部だと言ったときも、まるで承知しているかのように驚かなかった。いくつかヒントが浮かんだが、正解には辿り着かない。モヤモヤしたまま思考回路を現在につなぎかえ、彼女に視線をやると、さらに状況は悪化していた。冗談をいう余裕もなくなり、僕を一直線に見つめている。声の大きさは変わらないが、トーンが激しさを増す。詩織がどこの誰で、どれくらい深い仲なのか、架純は一通り尋問してきた。

僕は答えられる範囲で正直に話した。もちろん私的感情を省いて事実関係のみ淡々と。最初は頷きながら静かに聞いていた架純だったが、昨年の暮れに大阪で出会ったことを告げた瞬間、かすかに顔色が変わった。その事象に反応するかのようにつぶやく。

「わたしのことは覚えていないんだ」

そして、言葉を返せない僕に向かって、言い放ったセリフが『絶対に振り向かせてみせる』だった。勢い余って出た言葉とは裏腹に、表情から力強さが消えた。薄く茶色い大きな瞳が潤んでいる。鋭かった眼光は、ターミネーターが永遠の眠りにつくように、ゆっくりと輝きを失っていく。そして目にあふれた液体が涙となってこぼれ落ちる寸前に、横のカバンを手探りでつかむと、「なんでわたしじゃダメなの……」と最後の言葉を振り絞り、パッと席を立ち上がった。テーブルに膝が当たり、コーヒーカップがガタガタと音をたて、僕に『早く何か言え』と叫んでいるように聞こえた。ハンカチを目に当てながら足早に立ち去る架純を引き留める術もなく、黙って見送るしかなかった。

何も言ってやることが出来なかった。中途半端な僕に正しい意見など思いつかないが、せめて訊かれたことには誠実に答えるべきだったと後悔する。架純にはその権利があったのではないか。冷めたコーヒーをすすると、さっきよりほろ苦い味がした。ぼんやりとした間接照明の下に取り残され、ソファーに深く座り直すと、真っ暗な深海へと身体が沈んでいくような気がした。自分のふがいなさと優柔不断さに呆れて、一発二発と頭を拳で殴った。このひと月、ニコニコと笑顔を絶やさずに僕の周りに彩りを添え、大学生活に安らぎを与えてくれたのは架純だった。好きだという控えめなサインを送り続け、僕の告白を待ち続けている彼女の気持ちも分かっていたのに……。

それから一週間、架純は顔を合わせてくれなかった。溜まり場になっている喫茶にも来なくなったし、僕を見つけたら避けるようにUターンして逃げていく。並んで受けていたパンキョーも、前の方に座って黙々とペンを走らせていた。この気まずい雰囲気をどう振り払ったらいいのか。やはり、ここは男の僕から話し掛けなければいけないと、終了のチャイムが鳴ると同時に、階段を一つとばしで下り架純へ駆け寄った。不意を突かれてビックリした表情の架純。その大きく開いた目をじっと見つめてから、「ごめん」と頭を下げた。みんながいる前なら架純も逃げられないと考えた末の行動だった。周囲からクスクスと笑う声が聞こえたが、意外と気にはならなかった。冷たい視線を浴びるのも覚悟の上。それらすべてが織り込み済みだった。

「なんで謝るの」よそよそしく振る舞う架純はノートを片付けながら、つっけんどんな態度で、僕の誠意を確かめた。この前のことがまだ尾を引いているのは明らかだ。いい加減な態度をとったのだから、報いを受けるのは当然だった。

「君との仲を壊したくないから」

「だったら謝る必要はないじゃない」

「ごめん。この前は僕が悪かった。誠実さに欠けていた。君の気持ちを考えもせず、軽率なことを言った。仲直りしてほしい」

言葉を交わせなかったこの一週間、このまま架純を失ったらどうしようかと思い悩んだことや、心にぽっかりと穴が空いたことなどを切々と訴えた。すると架純は許す気になったのか、口を尖らせて、駄々をこねるような言い回しに変わる。

「嘘でもいいから追いかけてほしかった」

「それも謝る。ごめん」

「あーあ、なんか馬鹿らしくなってきちゃった。お題目のようにゴメン、ゴメンと言われても、こっちが恥ずかしいよ」

やっと僕が見たかった笑顔に近づいた。でも本来の笑顔には程遠い。

「それでずっと気になっていたことがあって」

「ストップ」架純が声を張り上げ、僕の話を途中で遮る。

すると僕より2段上に回り込み、腕組みをして上から目線でのたまった。

「わたしのこと思い出したら許してあげる」

わざと周りに聞こえるような大きな声だった。誰かを証人にしたてるかのような口ぶりだったが、あいにく知った顔はいない。2段下から見上げた彼女の顔は、うすら笑いと神妙な表情が入り混じっていた。眉を吊り上げながら口元が緩む。絶対、僕にはまねできない、なんとも難しい顔だった。時代劇で廻船問屋と悪巧みをする代官のようだ。笑いそうになったが、そこはこらえる。表情から読み取るに、怒っているふりはしているが、発言そのものは本気なのだろう。―――やはり入学する以前に僕たちは会っていたのか。

架純と話すようになってからずっとあった胸のつかえが雪崩のように溶けていく。「わかった」と左の手のひらに右の拳を振り下ろすと、架純の笑顔がパッと明るく華やいだ。

「ほんとに思い出してくれたの」

シマッタと思った僕は、すぐに彼女への誤解を解いた。「ごめん、そのわかったじゃなくて……許してもらえる方法が分かった、という意味さ」

きょとんと聞いていた架純の口は、あっという間に〝への字〟と変わり、信じられないといった表情になった。

「まっ いいや。そのかわりヒントはあーげない」

「じゃあ、僕は小判の代わりに思い出を差し出せばいいんだな」

「はー、小判って何のこと???」

「いや、こっちの話だから。気にしなくていい」

僕が月曜日までに思い出す約束をすると、やっといつもの架純に戻った。もし出来なかったら、と架純は注文を付けたが、そんなことはあり得ないとはねつけた。

涙しながら喫茶店を去って行った理由。僕が煮え切れない態度をとったこともその一つに違いない。でも場面を呼び起こすと、もっと大きく彼女の胸をえぐったものが確実にあった。僕をこれだけ慕ってくれる架純の心に刻まれた出会いの記憶を、信頼する相手に忘れられていたことが悔しかったのだ。再会してからは、『いつか思い出してくれたらいい』くらいに考えていたのだろう。しかし、僕が詩織との出会いを語ることで、自分との違いを見いだしてしまった。記憶の海からわたしを助け出してほしい、と。宿題という形で僕自身に想起を求めたのも、最後に残された彼女の意地かもしれない。

絶対に見つけ出す。完全にイレーズされたわけではない。

架純は友達を待たせているようなので教室で別れることになった。去り際に「問題が解けたら土日でもいいから電話してきてね。待っているから」と言って手を振り教壇のところまで駆け下りた。合流した友達と話す架純は、冷戦状態から解き放たれ安心したような顔だった。少し肩の荷が下りたような気がする。今日はバイトも無いので、久しぶりにサークルへ顔を出す予定だったが、急きょ帰宅することにした。

期限は今日を含め3日間。真っ先に古いアルバムをクローゼットの中から引っ張り出した。埃をティッシュでふきとり、年代が古い順にめくっていく。面影のある女の子は写ってないか。単純な作業ではあったが、久しぶりに子供の頃の写真を見ると、なんだか恥ずかしさが込み上げてきた。純粋な気持ちを呼び覚まされ、とびっきり心が温まる。厳しく躾けられたとはいえ、4人家族の笑顔が揃っていると、『愛されて育てられたんだなー』なんてちょっとセンチメンタルになる。念のため後輩に借りてきた卒アルに載っている生徒の名前をすべてチェックしたが、岡崎架純の名はなかった。いったいどこで出会ったのだろうか。大雑把な日記を読み返すにしても、年代が分らなければ時間がかかり過ぎる。思ったより、やっかいな作業になりそうだ。

闇雲に行動してもしょうがないので、理論立てて手がかりを探していくことにした。架純は現役合格しているので僕より一つ年下だ。アメリカに留学中の妹は三つ下なので、その友達という可能性は限りなく薄い。念のため国際電話をして確かめる手もあるが、どうせバカにされて切られるのが関の山だ。通話料が無駄になるだけ。使えない妹だ。

高校の推薦を受けてきたのにはびっくりした。姉妹校との交換留学制度があるとは聞いていたけど、年間5人程度しか決まらない狭き門だというのに。やる気はあるが、成績は中の上くらいの美咲がどうして選ばれたのか不思議だった。僕と違って誰とでも気さくに会話できる頑張り屋。そんな物怖じしない性格が認められたのだろう。半年の短期留学ではあるが、元気にしているだろうか。『お兄ちゃん自信なさすぎ』。事あるたびに言われたフレーズが蘇る。迷ったり、落ち込んでいる僕を励ますために声を掛けてくれたのは分かっていた。離れてみて実感する優しさ。あのやかましいほどの元気な声を久々に聞きたくなった。落ち着いたら連絡してみよう。

教会に出入りしていた可能性なども探ったが、結局振り出しに戻ってしまった。大見得を切ったものの、思っていた以上に苦戦が続く。八方ふさがりのまま週末が終わりそうだ。最後の頼みは段ボール箱にある大量の日記であるが、書いてある保障はない。

『電話、待っているね』と言い残した架純の笑顔がよぎり、思わず頭を抱えた。

――俺は何をしているのだろう――今更ながら、重大な過ちを犯していたことに気づく。写真や人に頼って思い出した記憶に価値があるのか? いや、そんなことで結果を出したとしても、架純の気持ちに応えられたとはいえない。頭の中を整理して、過去に出会った架純に辿り着くのが筋であろう。そうだ、彼女の想いに報いるためには自力で記憶を引き出すしかないのだ。割り切ってしまうと、頭が少し冴えてきた。メントールの匂いを嗅いだときのような爽快さが鼻から脳にかけて伝わっていく。順序だてて考えていけばヒントがあるはずだ。必ず、どこかに残っている。彼女と会話したその日の記憶が。

架純は僕のことを鮮明に覚えている――好きになるくらいの好感度を与えた――なにか強烈なインパクトのあることをした。中学の頃、小学生の頃。単純ではあるが、筋道を立てて記憶の海を渡って行く。

少し頭を冷やそうと、散歩がてら外に出る。昼でも人の出入りが少ない教会は、夜はいっそう寂しげにたたずんでいる。遠くの方から蛙の大合唱が聞こえてくる。月明かりに浮かぶ十字架から眼を逸らし、詩織が腰掛けていたベンチに目が留まる。ふらふらと近寄ったとき、小さな面影が頭を横切りハッとなった。

〈そうだ、もしかしてあのときの〉からだ全体に電流が走った。閉ざされていた脳の回路がつながり、小学生時代の思い出が鮮明に映し出された。間違いない。それは、赤いランドセルを背負ったままベンチでうつむき、涙をこらえる少女の姿だった。

あれは僕が小6のときだった。そっと近づき話し掛けると少女は悲しい目で僕を見つめた。声には出さなかったが助けてほしいと訴えているのが分かる。今にも泣き出しそうな潤んだ瞳。とにかく気を落ち着かせようとしたのだろう。僕はとっさに目を閉じ胸の前で手を組んだ後、優しく微笑んだ。礼拝などの際、心を穏やかに保つためにとるポーズ。キリスト教徒を表現する場合によく使われる、胸で十字を描く動作のようなものだ。カトリックのように形式を重んじないプロテスタントは、各々が独自のスタイルを持っている。

祈りの心が通じたのか、少女はその意味を理解したらしく、硬かった表情が和らいだ。そして僕は警戒心を解くため、その場でバクテンをして見せた。アイドルのように美しくは決まらなかったが、少女は「ワーすごい」と言って拍手をしてくれた。喜んだ笑顔が可愛らしく、調子に乗って2回、3回と続けたらバランスを崩して足をひねった。たいしたケガでもなかったが、「いててて」と大袈裟な悲鳴をあげると、心配そうな顔をしながら手を貸してくれた。「だいじょうぶ、いたくない?」自分が苦しんでいるのに、人を思いやる心を持った優しい子だと思った。少女の不安は少しずつ取り除かれ、ポツリポツリと話すようになった。僕はベンチに並んで座り、「元気がなさそうだけど、誰かに打ち明けたらきっと楽になる。僕でよければ相談にのるよ」と言った。

今思えば、こましゃくれたガキだと恥ずかしくなる。育った環境からか、子供の頃から人に安心感を与えるのだけは得意だった。たぶん、詩織も架純も、その安心感に引きずられているところが大きい。そして少女は潤んだ眼で真実を語り始めた。想像はしていたが、きょう学校でいじめられたのだそうだ。母親がいないという理由だけで――。

その日は、参観日だったことは記憶しているが、僕がどんなアドバイスをしたのかまでは覚えていない。帰っても誰もいないからと、2時間ほど一緒にいただろうか。間違いない。あのときの少女が架純だったのだ。

何年も掛かってピタゴラスの定理を解いたようなスッキリした気分だ。今すぐにでも電話をしたくて、ポケットをさぐったが、携帯を持ってきていないことに気づく。いつしか蛙の大合唱もやみ、草木を揺らす心地よい南風が吹いていた。僕の中に日常が戻ったとたん、詩織の顔が浮かんだ。『会いたくなったらベンチで待ってて』という約束を思い出した。ロダンの彫刻のように拳を顎に当てている神妙な姿を見られてはいまいかと、寮の部屋を見上げる。明かりがついてないので、ほっとする。よくよく考えると、焦る必要はまったくなかった。一部始終を見られていたとしても、心の中までは見通せない。そう思ったら苦笑が漏れた。そして、なぜかあの二人、似ているような気がして思わず咳き込んでしまった。見上げた夜空にはうす雲がかかっていたが、僕の気持ちは晴れやかだった。

ベッドに柔らかい光が差し込み、目覚めのときを迎えた。眠い目をこすり時計を見るともう十一時過ぎだった。普段使わない頭をフルに使ったせいか、脳のデフラグが必要だったみたいだ。昨夜、あわてて部屋に戻ったら、独り暮らしの女性に電話を掛けるリミットはとっくに超えていた。ひとつのことに集中し過ぎて、どれくらい外にいたのかも覚えていない。はやる気をおさめて朝起きてから連絡しようと思ったのだけは記憶にある。

そうだ、と飛び起きてスマホを手に取ると、メール受信あり。開けると送り主はやはり架純だった。『おはよう。起きてるかな』受信時間は午前九時。進捗状況を尋ねるような文章はなかった。いつもだったら絵文字が必ず入っているのに、ひらがな10字のシンプルな内容。カーテンを開くと真っ白な風景が飛び込んできて目を閉じずにはいられない。窓を開けると、五山の送り火で有名な東山如意ヶ嶽の向こうに、ぬけるような青空が広がっていた。スマホに再び目をやったが、メールの返信はしないことにした。

文字のやり取りではなく、声に出して伝えたいことがあるのだ。架純とのコミュニケーションはメールばかり。電話をするのは今日が初めてだ。今までプッシュボタンを押さなかったのは、言葉で伝えたい重要な用件がなかったからかも知れない。少なくとも僕はそうだった。架純の場合は、電話自体が苦手なのだと思う節がある。友達から掛かってきても、3分以上話しているのを見たことがない。口調は他人行儀になり表情も硬い。面と向かった相手には本音をぶつけてくるくせに、電波を通すと引っ込み思案になるのだ。僕はそんな架純が好きなのだけれど。

顔を洗ってから、牛乳でのどを潤す。ひと息ついたところで部屋に戻ったが、なぜか落ち着かない。寝起きの声だとばれないように「あ・い・う・え・お・あ・おー」と発声練習をする。昨晩なら勢いですぐに電話できたのに。アドレス帳から番号を表示して発信ボタンを押せばつながる状態にしたが、あと一歩が踏み出せない。固定電話と違って親が出てくる心配はない。けれど掛け慣れてないせいで緊張する。しばらく液晶画面とにらめっこしてから緑のマークを押した。プルルループルル。ツーコールもしないうちに架純がでた。「あ、氷室くん。おはよう」電話越しに初めて聞く声は少しだけ震えていた。

「おはよう、は、さっき画面で見た」とりあえず冗談から始めた。

「意地悪ね。言葉にしたかったの。本当に電話してくれると思わなかった」

「正直言うと、俺もちょっと照れくさい。休日に喋ることなんてなかったもんな」

改めて、朝の挨拶をすると、架純はクスクス笑った。

「いま起きたとこでしょう。いつもよりハスキーな声がする。わたし好みの」

「っていうか、岡崎の声も低いよ」

「セクシーでしょ。じゃあ……どっちが好き?」

「ハーッ」――「だ・か・ら、どっちの、わ・た・しが好きなの?」

朝から酔っぱらっているのかと思った。相手の顔が見えないと、普段温厚な人が攻撃的になったりするけど、こいつの場合は大胆になるらしい。もしかして僕だから? いやいや、さっき思ったことはそく取り消しだ。どうせ、反応を探りながら面白がっているのだろう。仕返しとばかりに、だまらせてやった。

「暇ならデートしようか!」

「…………」案の定、沈黙が続き、電話回線を伝って湯気が出てきそうだ。ゆでダコのように赤くなっている顔を想像すると、プッと噴き出してしまった。

「な・な・なに笑ってるの」強い口調だったが、焦っているのが見え見えだった。僕は面白がって、しどろもどろの架純に返事をせかす。

「暇じゃないなら、また月曜日にでも」

「そんなこと言ってない。で・でもデートじゃないからね」

架純の声が裏返る。これが秋の空に例えられる〝女心〟なのか? この前は〝告白〟したくせに――。これ以上、会話のキャッチボールはできないと判断し、時間と待ち合わせ場所を告げて電話を切ろうとしたら、彼女は慌てて消えるような声を発した。

「もう一度、アレ、見せてね」


 架純との〝初デート〟を楽しんだその夜、戸締り当番だった僕は教会へと足を運んだ。いつもは午後八時に施錠するのだが、今日は帰宅が遅くなり、時計の針はすでに九時を回っていた。こんな夜遅くに教会を利用する人はいないはずなのに、入口のドアは五センチほどの隙間を残した状態だった。人がいるのかと思い、音をたてずに覗き込むと、祭壇の前でひざまずく若い女性が見えた。両手を合わせ懺悔でもしているのだろうか。窓から入る月明かりで、ぼんやりと浮かぶ姿は、言い表せないほど美しかった。ほんの少し見とれていると暗闇に眼が慣れ、輪郭が見え始めた。髪の長さ、首筋から肩にかけてのきゃしゃなライン、すべてが詩織のイメージに当てはまる。振り返って学生寮を確認すると、二階の角部屋は消灯されていた。ひょっとして別人の可能性もあるので、ごく自然にゆっくりとドアを開けることにした。

「誰かいるのですか」母親が歌う子守唄のように、優しい声で呼びかけた。

ほっそりとした影がビクッと動き、肩を震わせながら立ち上がった。そして振り向きざまに、か細い声で謝った。「すいません。勝手に入ってしまって」頭を上げてこちらを見たとたん、彼女の全身から力が抜けていくのがわかった。表情こそ確認できないが、目を細めてため息を漏らしたような気がした。ひんやりした空気がその場を包み込み、二人の間の緊張感を解き放った。互いの安堵感だけが十数メートルの距離をつなぐ。

「陽斗くんか、びっくりした。てっきりお父様かと思った」

「びっくりしたのは、こっちの方さ。扉が開いているので泥棒かと思ったよ。盗られる物なんてないけどさ」

二人ともタイミングを計ったように歩きだし、身廊の中央で向かい合うと、左右に別れて長椅子に座った。静寂が薄暗い空間を包み込み、宇宙にいるような感覚に陥る。誰も邪魔をしない永遠の世界が広がっているような気がした。

「明かりをつけようか」と尋ねたら、彼女は「このままでいい」と首を横に振った。

「どうしたの、こんな夜遅くに」

「………」詩織が迷っているので、僕は高い天井を見上げて話題を変えた。

「あー。こんなに静かなんだな、教会堂の中って」

「そうだね。ほんと神聖な場所って感じがする」ようやく詩織の表情が緩んだ。

「あたしね、心の中で期待していたかも知れない。陽斗くんが来てくれるのを。自分でも分からないけど、後ろで声が聞こえたとき、なぜか嬉しかったの」

「親父と間違えたって言ったじゃないか」

「うーうん。恥ずかしくて、とっさに嘘ついちゃった。ドアを少し開けておいたのも、あなたなら見つけてくれると思ったから」

詩織は唇をかんで少しはにかんだ。瞳は潤んでいるようにも見える。

「悩み事でもあるのか」

「優しいね、陽斗くんは。そしてズルい。だって私に喋らそうとするんだもん」

「いやいや、普通心配するでしょう。夜中に乙女がたった一人で祈りを捧げていたら」

詩織は踏ん切りがついたのか、「本当は誰かに聞いてもらいたかったのかも」と、正直な心情を打ち明けてから、溜まっていた悩み事をさらけ出した。

「勘のいい陽斗くんなら薄々は気が付いていたと思うけど、寮に移ってきたのは事情があるの。家族で一緒に暮らすのが耐えられなくなったというか、追い出されたという方が表現的にしっくりくるかな。それで気持ちの整理をつけるため、独り暮らしを選んだの。他人が聞いたら私のわがままと思うだろうけど」

お嬢様学校で有名なネスレ女学院の学生が、こんなボロっちい寮に住むなんて聞いたことがない。たぶん初めてのケースだろう。だから必ず理由があると思っていた。僕は詩織が自ら口を開くのをずっと待っていた。ついにそのときがきた。それは二人の関係が一歩進んだことを意味する。しかし追い出されたというのは、穏やかではない。バイオリンを習っているくらいだから、家が裕福なのは容易に想像できる。詩織みたいな優等生を絵に描いたような子を、両親が見放すとは到底考えられない。どんな複雑な事情があるのか知りたい。野次馬的な意味ではなく、心から詩織を応援したい気持ちだった。

焦らず、せかせることなく、彼女が話せるところまででいい。僕は相槌さえ打たないように気を付けて完全なる聞き役にまわった。

「二つ下の妹になぜか恨まれているの。私が高校3年のときだった。貸したお気に入りの傘を置き忘れてきたり、お風呂に入ったらお湯が抜けてたり。最初はもちろん、わざとじゃなく偶然だと思ってた。でも、靴を隠されて確信した。これは妹の悪戯だと。それから次第に嫌がらせはエスカレートしていった」

やつぎばやに言葉をつなげていく。一呼吸置くでもなしに淡々と。

そして無表情だった顔に陰りが現れ始めると、喋るスピードが段々速くなっていく。導火線に点火された爆弾みたいに、いつ感情が破裂してもおかくしない状況に思えた。

「お母さんに相談すると、妹は告げ口されたと思い、逆切れして勝手に私の部屋に入りノートを破ったりするようになった。私は悪いことをした覚えがない。意味が分らなかった。母は『ちょっとくらい我慢しなさい』というだけ。親から注意されないのをいいことに、妹は『お姉ちゃんなんていらない』『出ていけ』と書いた紙をドアに貼った。それでも両親は妹に何も言わなかった。いたたまれない気持ちになった。なにか私の方に妹を怒らせる理由があるのだろうか。だったら教えてほしい」

詩織は一度も目を合わせることなく、張り詰めていた気持ちの糸が切れたように、一気に負の感情を放出させた。大きい瞳を覆っていた涙が溢れ出し、大きな粒が頬を伝って膝上の手にポタポタと落ちる。その水滴を見つめるように下を向き、垂れ下がった髪の毛で顔を隠した。しっかりした口調は涙声へと変わっていった。

「疑心暗鬼になり、ついに家を出る決意をした。安心を求めて選んだのがこの学生寮。教会が近くにあって、牧師さんが運営していると聞いたので即決した。私はクリスチャンではないけど、なにか心の拠り所となるものがほしかった。夜の礼拝堂に来たのも今日が初めてじゃない。お祈りをしていると、安らかな気持ちになるの」

僕が黙っていると、詩織はうつむいたまま「ごめんね」と自分をさげすむように言った。

「なんで謝るのさ。少しでも気が楽になったのなら、少しでも役に立てたのなら、それだけで僕は嬉しいけど」

「あ・り・が・と・う」――今話せるのは、これが精一杯なんだろう。

詩織が落ち着くのを待ってから戸締りしたのは十一時前だった。幾分、元気を取り戻してくれたが、根底にある不安は拭いきれない様子だった。今日、妹が寮に訪ねて来た痕跡を見つけたのだという。実家を離れて平穏な日々を送っていた姉の元に、どうして今更。またあの嫌がらせが始まるのかと、詩織が心配するのは当然だった。気が付けば教会に来ていたらしい。姉に恐怖心を与え続ける妹とはどんな人物なのか。

「僕でよかったら、いつでも相談にのるから。そして呼ばれれば、いつでも駆けつけるよ。誰にも口外しないし、君を絶対守ってみせる」

悔しいけれど、今の僕には励ますことぐらいしかできない。明日また会う約束をして別れた。ペンキがはがれた白いベンチが寂しそうに映る。あんなに落ち込んでいる詩織を見るのはもういやだ。正義の味方気取りと思われてもいい。必ず力になってみせる。こうして出会ったのは絶対に偶然じゃないと確信が持てるように……。

ずいぶん盛りだくさんな一日だった。興奮が冷めやらぬまま、ベッドに潜り込んではみたものの、涙を流した詩織の顔が目に焼き付いて離れない。しかしその一方で、架純のことも考えていた。右脳と左脳が真っ二つに別れている異様な感覚だ。

長時間、架純と一緒に過ごした日中の出来事を思い出す。もちろん、キャンパス以外で待ち合わせるのは初めてだった。電話では大胆にも『デート』と宣言したものの、詩織のことを考えると、それを打ち消しにかかる自分がいる。心底、この優柔不断さには呆れかえる。心の中で『デートではない』と言い張っても、他人から見ればそれ以外の何物でもない。定義や解釈の違いを持ち出せば、言い逃れはできるかも知れないが、それはまったく意味をなさない。誰に言い訳したいのかもわからない。そして、頭の中では、大義名分のない冷戦が始まった。『楽しかったからいいじゃないか』と受け流そうとする自分と、詩織に悪いと弁解する、もう一人の自分がにらみ合っている。


        ◇


架純と落ち合ったのは午後2時ちょうど。学生がいそうな繁華街を避け、観光客でにぎわう渡月橋の辺りでぶらぶらすることにした。詩織と出会う前に一人で散策に来たときは、まだ水害の爪痕が残っていて、流木や岩を取り除く重機が入っていたのを覚えている。今、目の前の桂川は悠々と流れ、観光船が行き交う普段と変わらない姿を取り戻していた。

6月の嵐山は、暑くもなく寒くもなく、ふらっと立ち寄るには一番の時期だと思う。桜の季節、ゴールデンウイーク、そして最もにぎわう紅葉シーズンとは、また違った魅力を見せる。橋の上や土産物屋が立ち並ぶ河原沿いに混雑はなく、休憩所に立ち寄ってもゆったりと過ごせて、並ぶことが苦手な僕にとっては、何もかもが丁度いい具合なのだ。

お勧めスポットの竹林にさしかかると、架純がわー綺麗、と声を上げながら走り出す。飛行機のようなポーズでスキップする彼女の両腕に採光が降り注いだ。

「京都らしい雰囲気がすてき。なんだか故郷に帰ってきた感じがする」

岡山へ引っ越す前に、何度か友達と遊びに来たという。子どもが戯れるように無邪気な姿を見せる架純。薄暗い緑のトンネルの中、そこだけがまぶしく感じた。こんなに喜んでくれるのなら、難しい話は後回しにして、今日はとことん彼女に付き合うと決めた。

「ねえ、ここ入ろう」笑顔で僕の袖を引っ張り、天龍寺の総門を指さす。

どっしりした佇まいに、僕も興味が湧いた。確か、足利尊氏が創建し、回遊式庭園で有名なお寺だ。拝観料を払って庭園に入ると、目の前に大きな池が広がり、色鮮やかな錦鯉が優雅に泳いでいた。パンフレットによると雪景色や紅葉の時期がお勧めらしいが、太陽光を浴びて池に映り込む新緑は掛け値なしに美しかった。なるべく寺や神社の拝観を避けてきたが、いざ入ってみると、ずっしりとした歴史の重みがあり、心が落ち着くのがわかる。やはり、わびさびの心を持つ日本人なのだと再認識する。

アメリカや欧州の観光客は、京都に来れば必ず金閣寺など有名な神社仏閣に立ち寄る。逆に、仏教徒がヨーロッパ旅行に行けば、大聖堂を見学し荘厳なキリスト教の世界に感嘆する。宗教上、拝観すること自体に問題が生じることはないし、僕自身も親から止められたわけでもない。それなのに、なぜ自主規制をかけていたのか、と今になって後悔する。

こうして女の子と二人で嵐山をゆっくり徒歩で巡るなんて、今まで考えてもみなかった。生まれてこの方、京都の名所巡りというものに縁がなかった。お寺や神社以外にも、哲学の道や蹴上浄水場など散策ポイントはいくらでもある。しかし、近くだからいつでも行けると思ったら、不思議と行動を起こさないものだ。ずっと京都に住んでいる中学時代の友達も『この前初めて寺巡りをした』と言っていた。彼女に誘われて重い腰を上げたらしい。そういうきっかけがないと、暇を持て余した老人になるまで、機会が訪れないのかもしれない。『いつでも』は『いつまでたっても』の裏返し。人間はそういう生き物なのだ。

3時間ほど歩き続けたので、お茶でもしようかと提案したが、架純は河川敷に並んで座るカップルを見つけ、休憩するならあそこがいいと譲らない。今日会ってからずっとハイテンションのまま。疲れを知らない子どものようだ。陽は西に傾いていたが、辺りはまだ明るい。渡月橋を斜めから眺められる堤防沿いに、大樹を縦に半分にした形のベンチが点在する。先約で埋め尽くされていたので、人が少ない場所まで歩いた。斜面に肩を並べて座るのは、いささか照れくさくなり、川のそばの平たい石を拾って、アンダースローを繰り出した。ガキの頃、野球部の同僚とよく競い合った水切り。石はトーントントンと水面を走るように弾み3回跳ねたあと沈んだ。池だったら打ちつけられた箇所からジワリと波紋が広がっていくが、ここは流れがあるので、よく見ていないと回数が曖昧になる。

背中越しに「わーすごい」と架純の声が響いた。男なら小学生だって3段くらいはできる。野球経験が無くてもコツさえつかめば難しくはない芸当なのだ。女の子にとっては特殊な技に見えるのだろう。調子に乗った僕は、「5段に挑戦」と言って、平で軽そうな小石を探しては、力の限りスピンを掛け横滑りするように何度も投てきした。4段まではいくが、その次が弾まない。しかし、そこは昔取った杵柄。慣れてきたこともあり、成功の感触に近づいてきた。腕がだるくなる前が勝負だ。重さ、大きさ、形、これしかないという石を見つけ、今度こそとアンダースローを振りぬくとギリギリで目標を達成した。自慢げに振り向くと、架純は「今の4回だよ」と両腕を交差させて大きなバツ印をつくった。

僕は必死に「いや5回だった」と抵抗する。架純は両手を腰に当て、胸とお腹を突き出す。そして「わたしが審判」と、今度は首を横に振ってからアウトのポーズをとった。途中で諦めることもできず、ムキになって男の意地を見せる。何度挑戦しただろうか。厳しい主審から合格のサインが出たのは、ひと悶着あってから十数回目だった。頭の上に大きな丸をつくり、ほほ笑む架純に西日が当たる。その美しさに心を奪われそうになった。

今しかない――この日のハイライトを演じる絶好のタイミングが訪れた。

「架純、よーく見とけよ」

なるべく平坦な場所に移動し、ジャンプ一番くるりと円を描いた。足も腕も棒になり、体力的には自信がなかったが、その中では最高のバクテンができた。決めポーズまでとったのに、いつもの元気な声がはじけない。

なんだよ、石を投げたときは、『すごーい』とか言ってたじゃないか。

文句の一つでも言ってやろうと思いながら振り向くと、まったく予想外の反応が待ち受けていた。それは拍手でもなく、OKサインでもなく、今にも泣き出しそうな顔で立ちすくむ架純だった。僕は首を傾けながら歩み寄り、どうしたんだと声を掛けようとすると、彼女は口を手で押さえながらつぶやいた。

「思い出してくれてありがとう」

その一言が僕の心に重くのしかかる。冗談で口を尖らせていた架純の映像が頭をよぎり、彼女にとっての大切な記憶を軽んじていたことを恥じた。会話を途切らせないようにと、口を突いた言葉は「ごめん」だった。

「謝らないで。思い出してくれただけで感謝してるから。今はそれだけで十分」

「…………」

「小学校のときだもの。あの頃の面影は無くなっているから――でもわたしはコンパで氷室くんを見つけたとき、すぐに気づいたよ。心臓がバクバクした。涙が出そうだった。この学校を選んだのは間違いじゃなかった。ただの偶然じゃない。神様の存在を確信した。いつかは自分にも幸運が訪れると信じていてよかった」

再会した心境を初めて明かす架純。やはり、あの瞬間まで僕が在籍していることは知らずにいたのだ。でも僅かな望みを持って京都の大学を選んだ。もしかしたらキャンパスか街で会えるかもしれない、と。年齢は一つ違い。僕が地元で進学していると仮定しても、同期生になる確率はいかほどだろう。もしかして、彼女はその少なすぎる可能性に賭けたのか。コンパの席で彼女はほとんど喋らなかった。それは、平静を装っていたのではなく、隣のサッチーに圧倒されていたのでもない。緊張して思いを言葉に変換できなかったのだ。架純の心中を思いやると、勝手に落ち込み、ふて腐れていた自分に怒りさえ覚える。

それなのに僕は今、彼女の気持ちに報いることができない。最低だ。

そんな僕を追い詰めるように、架純は心を惑わせる。

「だって、だってあなたは私の恩人だもん」

たった一度だけ。僕が忘れてしまうようなことが、彼女の心の中にそれほど深く刻まれていたなんて……。救われたというのなら、良かったのだと妥協するしかなかった。

「ねえ、座ろう」架純は、照れくさそうに頬を染める。決して夕焼けのせいではない。

促された僕は、彼女の横で斜面に足を投げ出した。架純はゆっくりと体育座りをし、抱えた膝に顎を乗せて僕の顔を覗き込む。少しの沈黙のあと、幸せそうな顔で言った。

「あのときは本当にありがとう」

胸がドキドキして、風邪で発熱したかのように力が入らない。自分が掛けた言葉が思い出せない。どういうふうに塞いでいた少女を励ましたのか、足のシビレに堪えながら正直な気持ちで訊いてみた。

「架純がいじめられて悩んでいたのは覚えてる。たしか参観日だったことも。けど俺、なんて慰めたんだっけ」

架純は「覚えてないの?」と冗談ぽく口を尖らせたが、すぐさま真顔に戻った。

「あの日の参観日は地獄だった。いつも学校行事に出席してくれていた父は、急な出張で来れなくなった。教室の後ろには、おめかしした友達のお母さんが並んでいて……」

それ以降は、聞いている僕がいたたまれなくなった。小学生のいじめは残酷だ。一旦火が付くと止まらない。『かすみちゃんとこ、なんでお母さん来ないの』から始まり、容赦ない言葉が浴びせられる。架純が父と二人暮らしなのを知っているくせに、わざと訊いてきたのだという。教室でしょんぼりしている少女を思い浮かべ、僕がその場にいたら助けられただろうか、と考えてみる。子供のときから正義感だけは強かった。でも、集団心理に押しつぶされることもある。いじめというのは、些細なことから拡大していくものだ。自問自答しても答えなど出てこないのは分っている。

「ある日、王子様が現れたの」彼女は話すテンポを少し変え、声を明るく張った。

「王子様?」僕は疑問を投げかける。「よかったじゃないか。そいつ君のことがきっと好きだったんだよ」。架純は〈なに言ってるの???〉とばかりにクエスチョンマークをいっぱい貼り付けた顔を、鼻先がくっつくくらいに近づけてきた。

「まさか俺?」声が裏返る。だとしたら的外れもいいところだ。

「なにを聞いていたの。あなたの話しかしてないのに」

「王子様って。だって、一度きりしか会ってないじゃないか」

「シンデレラを知らないの? 一夜限りの舞踏会で二人が恋に落ちてしまう物語を。まったく女心がわかってない。フンだ」そう言って架純はそっぽを向いた。

僕は参ったなと、頭を二度三度とかきながら川面を見つめた。

顔を見せぬまま架純は恥ずかしそうにつぶやく。

「自分を信じて生きていたら何かいいことがあるさ―そう言ってわたしの頭を優しくなでてくれたの」

そういえば……ぼやけた記憶が蘇る。夕方に再放送していた昔の青春ドラマに影響をうけたに違いない。よくも小学生が、そんな小っ恥ずかしいセリフを吐いたものだ。我ながら感心する。今だったら頭に浮かんでも言葉には絶対しない。でもあの時は、無我夢中で少女を励まそうとした。それだけは間違いのない事実。だからこそ、少女の胸に響いた。母親がいないのは架純のせいではない。天が与えた試練だ。勇気を持って頑張っている子には、きっと神様がご褒美をくれると信じて慰めたのだ。

場所は教会の前。藁にもすがる思いで、打ち明けたイジメの話。ぽっかりと心に隙間ができた少女には、まるで救世主が現れたように感じたのだろう。それ以来、架純はちょくちょく朝の礼拝に参加していたのだという。

「なんで声を掛けてくれなかったんだ」

「それはね……。声を掛けるのが恥ずかしかったの。あれが私の初恋だったのかな」

今のひと言で、もやもやしていた迷いが確信に変わった。

なぜ彼女が取り柄のない僕をこんなにも慕ってくれるのか――。

――架純は、今の自分を気に入って好きになってくれたのではない。困っているときに助けられたという意識が膨らみ、彼女の幻想が突き動かした恋心なのだ。

けれど、そんなことはどうでもいい。きょうは最後まで思いっ切り楽しもう。そして架純の笑顔を見ていたい、と心から思った。いつの間にか、陽は嵐山に隠れ、暮れなずんでいた。周囲を見渡すとカップルの数も減っている。「そろそろ行こうか」僕は先に立ち上がり、黙って座っている架純に手を伸ばす。もう少し、というような駄々っ子の表情を向ける彼女の腕を強引につかんで引っ張り上げた。

「また来ればいいじゃないか」

「ほんとに一緒に来てくれるの」

「ああ、いつでもとは言わないけど」

架純は、じゃあと言って、照れくさそうに小指を立てた。指切りのポーズ。僕が迷うことなく小指を絡ませると、はにかんだ。

「約束したからね。きっとだよ」きょう一番、とびっきりの笑顔がはじけた。



二人の女性をめぐり、主人公の心が揺れ動きます。

長編ですが、ゆっくりお楽しみください。まだまだ続きます。

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