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見えない壁

プロローグを終え、本筋の「起」に入ります。それなりに幸せではあるが、特殊な家庭環境に育った主人公のキャンパスライフが始まりました。

1 見えない壁


僕のキャンパスライフは荒波への船出となった。

思ってもみなかった『学部の壁』という洗礼にあう。

早稲田は政経、慶応は法学部など、世間でよく言われる学部のブランドみたいなものが有名大学には存在する。それは偏差値の高低だけでは計れないものだ。卒業生に著名人がいたり、具体的に数値化される代議士や官僚の比率、司法試験の合格者数が影響することもあるだろう。それぞれの伝統に培われてきた価値観が大勢を占めたりもする。

僕は大学に入ってしまえば、そんな風評は吹き飛んでしまうと信じていた。法学、経済、商、文学などメジャーな学部の間には摩擦もなければ、大きな隔たりなど存在しない。学問にまい進する者、サークルや部活に打ち込む連中。周りを見渡せば、それぞれが互いの立場を気にすることなく大学生活をエンジョイしている。しかし、極端に人数が少ない我が〝弱小学部〟に対する風当たりは、想像をはるかに超える強さだった。もちろん、それは噂であったり、イメージをはき違えているヤツが多いせいなのだが。

実情を説明しておくと、大学創立からの伝統は言うまでもなく、カリキュラムの自由さに加え、風通しのいい学部なのだ。しかし、他の学生からは、色眼鏡を通して見られることが多々ある。希少動物や天然記念物のように扱われることもしばしば。良くも悪くも興味本位で質問攻めにあうことも少なくない。レッテルを貼る輩は相手にせず聞き流せばいいのだが、僕の場合は、家庭の事情やトラウマがあって、言葉の節々に差別意識を抱いてしまう。向こうに悪気はなくても、何気ない一言で深く傷つくこともある。疎外感みたいなものを肌で感じ、短期間のうちに出鼻をくじかれてしまった。

そんな折れかかっていた心を癒してくれたのが烏丸詩織だった。ささったトゲを一本一本抜いてくれるような言葉や振る舞い。壁を作らず気さくに話しかけてくれる純粋な瞳が瞼に焼き付いて離れない。透き通る笑顔で揺れる気持ちを落ち着かせてくれる。不安から始まった大学生活を、人並みに、いやきっと人より楽しいものに変えてくれた。運命の再会から僕にとって詩織はなくてはならない存在になっていた。


 受験に失敗した僕は神学部に進んだ。志学館大学は偏差値も高く京都では人気の私大だ。もちろん知名度や学歴では京大に到底及ばないが、京都市内で起業して成功している大先輩も多く、就職率もいい。マンモス大学に比べると五分の一程度の学生数が適度で居心地よく、雑然とした雰囲気がないため一体感もある。自然が多く交通の便もいいなど立地条件は最高で、学生生活を送るうえでは非常に恵まれた環境にあることは間違いない。数えたらきりがないほど好条件は揃っていたのだが、ただ、僕自身に問題があった。

志望していたのは文学部。浪人時代はそれなりに頑張ったので、第一志望じゃなくても希望するどこかに受かる自信はあった。父親のアドバイスもあり、滑り止めの気持ちで受けたのが、まったく眼中になかった神学部だった。他の大学の文系をいくつか受験したがすべて不合格。一浪の身ゆえ、唯一受かったここに進学するしかなかったのだ。

 それでも入学前には気持ちを切り替え、何かやりたいことを見つければいいと楽観的に考えるように努めた。春夏秋はテニス、冬はスキーという軟派の王道をいくサークルに入り、少しでも有意義で楽しい時間をつくろうとしたが、大学生活が始まると予想もしなかった見えない壁にぶち当たる。

それは忘れもしないサークルが主催する新歓コンパの出来事だった。

気が合う女友達でもできたらいいなと、期待を抱いて繁華街にある居酒屋へ意気揚々と出かけた。開始時間の三十分前に到着した僕を先輩が席へと案内してくれた。中に入ると、仕切りのない大部屋には十数人座れる長テーブルが三つ並んでいた。1回生は僕が一番乗りで、張り切って来たと思われていないか気を揉む。目立たない端でいいと言ったが、君らが主役だからと、真ん中へ促された。ぽつんと一人で座っていると、示し合わせたかのように続々と新入部員が入ってきた。近くの茶店で集合時間を計っていたかのようなギリギリのタイミングだった。いくら歓迎される側とはいえ、余裕を持って席に着くのが当たり前だろう。僕の考え方が古いのかと当惑しながら周囲を見渡すと、ほとんどが友達連れだった。「すきな場所に座って」という幹事の声に、それぞれが席に着く。落ち着いたところで、アルバイトらしき若い店員3人が、手際よく準備を始めた。大皿にのった料理に、ビール、ウーロン茶が次々と並べられ、3回生による乾杯の音頭で宴は始まった。 

テーブルを挟んだ正面は2人組みの女の子だった。

声には出せないが心の中でラッキーとつぶやく。先に着席していた僕の前に迷うことなく座った二人。勝負服を着こなし、化粧もバッチリきめ、少々派手だけれど見た目は悪くない。まずは彼氏をつくって楽しく過ごしたい、といったところか。ジョッキを合わせただけでロクな会話もないまま新入部員が簡単な自己紹介をすることになった。一発芸で目立とうとするやつもいれば、「スキーが苦手」と最初のツカミに成功した北海道出身者、照れながら生真面目にあいさつする人もいた。

下宿先が同じマンションだったり、部室で知り合ったなど、すでに仲良くなった者同士もいて、初めてサークルの集まりに顔を出す僕は出遅れた気分になった。雰囲気の波に乗れず、気持ちだけが先走る。ようやく番が回ってくると、特にアピールするポイントもなかったので、地元の利を強調するしかなかった。笑いもとれず、インパクトも残さず。パラパラの拍手で締めくくられた。やはり大勢の人前で喋るのは得意ではない。

歓談タイムに突入すると、今までおとなしかった前の女子が突然ギアチェンジした。ローからトップへといった感じ。ターボエンジン全開で、好きな芸能人や、住んでいる場所、車は持っているかなど話題を変えながら場を進めていった。目をぱちくりし可愛く見せようと自己PRにも余念がない。とりあえず僕の値踏みを図っているのだろう。

サッチーと呼ばれる正面の子は、積極的なのはいいが少々癖があり苦手なタイプだ。テレビや雑誌をにぎわしている肉食系女子とまでは言わないけど、男を品定めしているのが見え見えで、眼光鋭く獲物を狙うタカのよう。瞬きするたびにパチパチと音が聞こえてきそうな付け睫毛にプルッとした潤いある唇。大胆なVネックセーターにミニスカートが気合の入れ方を物語る。アイラインで大きく見せる黒い瞳に吸い寄せられそうになった瞬間、引き止めようとする理想の女性像が頭に浮かんだ。僕が知っている特定の人物でないことは確かだった。今の、いったい誰? たぶん目の前にいる真逆の子に対し、脳が拒絶反応したのだろう。少しの間、ぼんやりとしていたら、勢いよくジョッキを置いたサッチーが何気なく僕の学部を訊いてきた。化粧で頬の色は変わらないが、少々酔いがまわってきたようにも見える。僕は最初の自己紹介で躓き、早く打ち解けねばという焦りもあったので返答に捻りを効かせてみた。

「キャンパス内でも希少価値のある神学部なんだ。なかなか知り合いになれないよ。君らはラッキーかもしれない」

 軽いフレーズが宙を舞う。言い終わった後にしまったと思ったが手遅れだった。関西特有のツッコミまでは期待しないが、『へー』とか『ほー』という驚嘆の声すらなかった。ほんの冗談なのに、気まずい空気が流れる。僕はたまらずジョッキを片手にビールを飲み干した。さっきまで饒舌だったサッチーも返答に困っているのがわかる。

〈いやいや牧師になる予定はないし、ここで宣教を始めるつもりもないから〉

ジョークの上塗りをしようか迷っていると、サッチーが沈黙を破った。

「そ、それは希少種だわ。で、なんでそんな学部に入ったの?」

うす笑いを浮かべ、軽いノリの言い回しだった。おいおい、今までは一応、敬語だったんじゃないの。『そんな学部』で悪かったな。なんだ、その見下したような態度は。いくら同級生とはいえ僕の方が年上。初対面なんだから、礼儀ありだろ――。のど元まで出かけたが、ちっぽけなヤツだと思われたくないので、ぐっとこらえ大人の対応を続けた。

「うち教会なんだ。後を継ぐ気はないんだけど、親の顔をたてて入学したのさ」

受験に失敗したなんてうっかり漏らすと、さっきの変貌ぶりから、こいつらはさらに調子に乗ること請け合いだ。さらっとこの話題を流すのが得策に違いない。そして差しさわりのない説明に終始する。甘いデートの夢を見ていたら妹にたたき起こされるというアニメによくあるシチュエーションに近いものを感じた。現実世界は厳しいものなのか、と周囲の冷たい反応にショックを覚える。酔いを醒ますには、十分過ぎる一撃だった。

息を吹き返したサッチーはその後も『どんな必修科目があるの』『ミサは欠かさないのか』『結婚相手は信者に限るのか』など、珍しい生き物を見つけたとばかりに、根掘り葉掘り思いつくすべての質問を浴びせてきた。連れの女の子は、相槌を打つだけで、ほとんど喋らない。むしろその方が気になった。適当にお茶を濁したが、その間、プロ野球界重鎮の妻が頭から放れなかった。

やっとこさ集中砲火が終わり、話題に飽きたかと思うと、二人はグラスを持って別の席へと移動した。心にも脳裏にもサッチーだけが焼き付いて、控えめな右側の子はほとんど印象に残らず、名前も覚えていない。基本的に性格不一致のサッチーはともかく、もうひとりの子の眼には僕がどう映ったのだろうか? なんて考える自分が虚しくなった。嵐のような時間は、少なからず僕にダメージを残した。

「別に牧師になりたいわけじゃないし、気にすることはない」

そうつぶやき、自分を慰めるので精いっぱいだった。

今までは気にならなかった隣の部屋から聞こえるドンチャン騒ぎが鼓膜を打つ。開けっ放しのドアの向こうでは、ネクタイを頭に巻いた四十過ぎのサラリーマンが大声で講釈をたれている。あんな社会人にはなりたくないという見本がそこにいた。チェ、思わず舌打ちがでる。酔っぱらって心を解放したいが、もう酒もいらない複雑な気分だ。手持ち無沙汰になり、空席になったテーブルの向こうを見ながらウーロン茶をガブ飲みした。こんなとき、タバコが吸えたら暇つぶしにでもなるのに。スマホに眼を落すと、まだ七時半。宴会は序の口なのに、抜け出したい気持ちに掻き立てられた。帰りたいけど、親睦の席を設けてくれた先輩に失礼なので帰れない。空いている席に自分から移動するのも億劫だ。返事が来る保証もない相手にメールを数件送った後、ニュースのページをめくった。連日のように新聞をにぎわしているウクライナ情勢やゴーストライターの記事が載っている。普段なら目を通すところだが、今は読みたくもない。スポーツをタップすると、広島カープが大量のリード。やっと明るい話題に辿り着く。今年は珍しく期待が持てそうだ。

遠くに目をやると、ポツンポツンと同じような境遇の人がいた。壁にもたれてつまらなそうにタバコをふかしている。五十人もいれば、盛り上がりの輪から脱落する者は必ずいるものだ。人付き合いは得意ではないけど苦手でもない。女の子と楽しい時間を過ごしているはずだったのに――。悲観しながら時間が過ぎるのを待つことにした。

トイレに行くため腰を浮かせると、このサークルに勧誘してくれた3年の先輩が肩を押し込み無理やり座らせた。幹事役がひと段落したらしい。名前は北山修二。履修科目を決めるのに、パンキョー(一般教養)選択の相談にも乗ってくれた面倒見のいい人だ。

「どうだい調子は」当たり障りのない言葉に優しさを感じた。ある程度、事情を察してくれたに違いない。出会って二週間ほどだが、普段の何気ない会話からも、この人なら正直に応えてくれると思い、ここであった一部始終を説明し心のモヤモヤを打ち明けた。

「先輩、神学部をどう思います。やはり、学内でも異色の存在ですか?」

「まあ、異色っていえばそうなのかな。2年間ここの学生やってるけど、知り合いどころか、会ったのもお前が初めてだからな。お前が将来、神父になるかどうかは知らないが、社会人になっちまったら、できないことがたくさんある。たった4年の大学生活を楽しむのが一番の優先事項じゃないか。斜に構えるヤツとは付き合わなければいい。胸を張ってその選択権を行使すれば問題ないだろ。楽しいぞ、気の合うヤツと羽目を外すのは」

「まあ、その通りですが……」

うちはプロテスタントなので、正式な呼称は神父ではなく牧師だ。そう思いつつ、訂正はしなかった。いくらミッション系の大学といっても、学生の認識はそんなものだと心中に収める。先輩の言うとおり、下を向く必要はない。今の状況を踏まえると胸を張ってはいられないのも事実なのだが。

「高校とは違って、キャンパスには一万を超える学生がいる。出身は北海道から沖縄まで。いろんな気候、風土で育ってきたから、その土地独特の習わしを大切にしたり、それぞれの思想を持っている。社長の息子もいれば、芸能人だっている。きっと一生の付き合いになるヤツが必ず現れるさ。俺でよければ、その一人になるぜ」

「ありがとうございます。こちらこそよろしくお願いします」

先輩は「じゃあ飲み直そう」と言って、焼酎とウーロン茶を註文した。グラスがふたつ届き、酒が飲みたければウーロン茶にこれを混ぜろと、焼酎の瓶を前に置いた。自分のペースでやれという気遣いが嬉しかった。酒を飲みたい気分ではあるが、このままだと酔い潰れて迷惑をかけそうなので、胃が痛くなるのも構わずウーロン茶を飲み続けた。

『なるようにしかならん』北山先輩を見ていると、なぜか勇気がわいてくる。席に座り込んだまま働かない2年の連中に文句も言わず、テキパキと幹事の仕事をこなす先輩が頼もしく見えた。この人に出会えただけでも価値はあったと確信する。


コンパ以来サークルに一度も顔を出していない僕は、同じ学部の越野順平とつるんでいた。履修科目がほとんど同じということもあり、急速に仲良くなった。

神学部には大きく分けると二通りの人種がいる。元々クリスチャンで信仰心が深く、将来は宗教関係の仕事に就く者。そして残りの7割超は、無神論者とまでは言わないが、メーカーや銀行、商社といった一般企業に就職していく。僕のような牧師の息子ばかりが通う学部だと思っている人が多いようだが、それは大きな誤解で実情はさほど他の学部と変わらないのだ。大学によっては環境が大きく異なるようだが、うちの神学部は幅広い層の人間が在籍している。年々、受験突破のレベルも上がってきているが、昨年のデータによると、同じ試験日だった経済学部に比べると合格最低点で70点も引き離されている。まあ、人間の価値は偏差値や学歴で決まるものではないと分ってはいるが、現実を見てしまうと思うところはあるものだ。実際に僕が合格したのは、この部だけなのだから。

同じ試験で合否が決まる工学部は、IT関連につながる電子や情報系学科と、人気のない化学系では、合格最低ラインが70点以上も開く年があるので、僕たちだけ下手に見られる心配がないのも分かっている。ただ、我が部は他に比べて、マイナスイメージが強いのは確かだった。そんなことを考えている自分が一段と卑屈に見えてくる。

ひねくれた僕に勇気を与えてくれるのが順平だった。彼は3回生に上がる際、商学部へ編入するつもりでいる。商学部を受験して落ちたのかというとそうではなかった。『俺は自分の学力を知っていたから、頑張れば手が届きそうな神学部を選んだんだ』と豪語する。高3になった時からここ1本に絞り対策を立てたらしい。つまり目指す大学にまず入って、それから道を開けばいい、という考え方なのだ。自慢できる話ではないが、そう言ってはばからないところがこいつらしい。見た目はチャラ男、普段のいい加減な言動からは想像できないくらいに、目的意識をしっかり持ち勉強に励んでいた。編入するには2年までの結果が考慮され、かなり優秀な成績を残さない限り計画は破たんする。税理士になるという将来設計を立て、地道に努力している姿を見るたびに、自分も目標を持たなければと前向きにさせてくれる存在でもあった。

僕らのたまり場となっている学食の喫茶コーナーは半地下にあるせいか、湿っぽくてカビ臭いといった理由で女子連中は寄り付かない。それに加え、この折の節電で照明が薄暗く貧乏くさいイメージは拭えない。でも金まわりが悪い男連れが、ゆったりと過ごすには絶好の場所だった。いつものように3時限目が終わった後、長時間の保温で煮え切ったコーヒーをすすりながらソファーでくつろいでいた。

「なんか、面白いことねーかなー」

順平は両手を突き上げ、大きく伸びをしてからクッションに身体を深く沈めた。

「面白い話じゃないけ…」――「じゃあいいや」

順平は眠たそうな声で、僕の前置きを遮った後、「うそうそ」と付け加え、腰を伸ばして前がかりになった。そして、ひとの顔色を覗い、眉にしわを寄せてから耳を傾けた。

「苦しゅうない。そちの相談事を聞いてやろう。大船に乗ったつもりで話してみよ」

〈お前は殿様か〉どうやら茶化さずにはいられない性分らしい。でも、同じ立場で、悩みを打ち明けられるのは、こいつしかいない。

「俺たちの学部って、他の学生からどう見られてるんだろう」

例のコンパの出来事を忠実に再現してから、心に残っていたモヤモヤをぶつけてみた。すると、間髪入れずに返答があった。

「そんなことで悩んだりするのってばかばかしくねーか」

呆れた表情で、またソファーに背中をゆだねた。空気が抜ける音が出るくらい強く。

「今の俺には大問題なんだ」

「何が大問題だ。そんな常識に欠ける女とは二度と会わなけりゃいいだけのことだ。サークルもやめちまえ。彼女がほしけりゃ、コンパでもなんでも設定してやるよ」

順平の言うことは間違ってはいない。でも、僕にとってはそんな単純な話ではなかった。一回きりのことで、こんなにへこんだりはしない。心の奥にトラウマがあるのだ。

忘れもしない、それは感受性に富んだ高校時代に遡る。


        ◇


 もの心ついてから中学の途中までは優等生だった。子供のころに洗礼を受け、牧師の息子として、何不自由なく育てられた。朝起きると胸の前で十字をきり、当たり前のように神への祈りを捧げ、学業に励む毎日を過ごしていた。中学時代は野球部に所属。二年でレギュラーを掴んだものの、家の手伝いが忙しくてサボリがちになり、練習に明け暮れるチームメイトにあわす顔がなくなった。教会の行事を中心とする生活。小さいころから普通だと思っていたことが普通ではなくなった。それに気づいたのは中2のとき。お店を経営する個人事業主やサラリーマンなどの一般家庭とはまったく違う特殊な環境に嫌気がさした。最上級生にもなると、おぼろげに将来を考えるようになり疑心暗鬼になった。親にはミッション系大学の付属高校の受験を勧められたが、通学に時間がかかるという理由で近所の公立高校へと進んだ。僕が親の希望を断った初めてのことだった。

レールに敷かれた人生に疑問を抱き、世間でいう高校デビューを飾った。といっても、根がまじめなわけで、茶髪にするのが精一杯。しかも、控えめな茶髪。女の子が軽めに染める栗色に近かった。チャラい連中ともつるんだが、やはり性格が合わずすぐに離脱。放課後はカラオケやゲーセンで騒ぐのが関の山だった。店の苦情が来ていると学校から連絡があると、親父は息子の性格を読みきって「迷惑だけはかけるな。若いときは好きにやればいい。お前はすぐ飽きるから打ち込めるものを見つけろ」とそっけない態度を取った。親父が正論を言っているのは自覚していた。でも、あの時は理路整然たる忠告より感情的に怒られる方がましだった。『ぐれるって難しい』と思い知らされた。何をやっても中途半端に終わる自分が情けない。

そんなとき心を躍らしてくれる彼女ができた。帰宅途中にいきなり告白された。話したこともない、近くの女子高の下級生だった。今どき珍しいセーラー服が似合うあどけない少女。僕もそうだったが、彼女も交際は初めてだった。喋っていても優しさがにじみ出て、少し内気な性格も心地よかった。「貴子」と名前で呼ぶと、頬を赤らめ恥じらう姿が可愛らしく、とても自ら告白するタイプには思えない。付き合ってから順調な交際が二か月ほど続いた。しかし、思ってもみなかった急展開に言葉を失うことになる。

「氷室君のうち、教会なの?」――「そうだけど、それがどうかしたの」

その日を境に彼女からの連絡は途絶えた。訳が解らなかった。電話を掛けても受信を拒否され、一度、校門前で待ち伏せをしたが見事に無視された。

そして数日のちにわかった。なぜ突然、彼女が離れていったのかが。

『このまま付き合ってたら教会に嫁がされちゃうよ』

『やめときな貴子。あんたにはもっと普通の彼氏が似合うって』

『教会の息子っていうの隠してたんでしょ。なにか訳ありじゃないの』

あくまで噂だが、仲のいい友達数人に悪いイメージを植え付けられたのだと聞いた。別に家のことを隠していたわけでもなし、牧師を継ぐ気もさらさらない。女子高とは伏魔殿なのか。女子特有の妬みが渦巻く世界に引き込まれたに違いないと信じたかった。彼女に恨みはない。これ以上、詮索しても埒が明くすべは見当たらない。まったくバカな話だが、事実として受け止めるしかなかった。そして僕の心には深く大きな傷だけが残った。

それから、教諭や親の顔色をうかがいながら、ちんけな反発を繰り返した。絶対に後継ぎはしないという意思表示だった。高校では遅刻早退の常習犯となり、職員室に呼び出されるたびに担任から『お父さんは立派なのに』と言われた。お前に何がわかる、と心で唱えた。しかし、生まれ育った環境がそうさせるのか、強い正義感だけは絶対に抜けきれない。鬱憤が溜まっても我慢の日が続いた。

そして二人目の彼女ができたとき、僕の小さな反抗期は終わりを迎えた。


        ◇


順平がコーヒーのお替りを淹れて戻ってきた。

「氷室さ、何でも深く考え過ぎなんだよ。真面目なのは、お前のいいところだ。でもな。俺が言うのもなんなんだが、もっとアバウトに生きたらどうだ。すべての人に受け入れられるなんて無理なんだよ。極端な話、9割に理解されなくても、1割の人がお前のこと分かってくれたらいいんじゃないかな。力を抜くところは抜かんと息切れしちまうぞ」

こいつに人生論を語られるとは思ってもみなかった。でも、その通りかもしれない。アバウト――今の僕には耳触りのいい言葉だった。決して手抜きするという意味ではない。臨機応変に対応しろということだ。聖書に謳われている平等は理解できるけど、すべての人に対して平等に接することなんて、誰にもできないやしない。

「俺んちの親父はサラリーマンだから、お前とは境遇が違うのを承知でいうけど、要は今何をしたいかだろ。将来のことなんか、4年になってからでも遅くはないさ。俺たちまだ入学したばかりだぜ。4年間、いや最低3年間は大学生活を謳歌することだけ考えようぜ。それが若者の特権だ。だから打ち込めるものを見つけろ。俺も全面的に協力するから。くよくよすんなって、このバカたれが」

語気を強めながらの言葉が心に響き、身体を突き抜けた。ぐるぐると頭の中を渦巻いていた過去の亡霊が洗い流されたような気がした。本当にバカなのは順平の方だが、出会って間もないのに、照れもせず金八先生ばりのセリフを言いやがる。こいつと同級生になれてよかった。傍にいるのは心強い。どこまでもポジティブなのが羨ましい。こういう能天気な考え方は僕には到底無理だが、こいつと付き合っていたら迷いながらも前へは進めそうな気がした。順平はダメ押しとばかりに続けた。

「卒業してからついて回る学歴は志学館大卒。誰も学部なんて気にはしねーよ。親父の後を継ごうが、一般企業に就職しようが、お互い『充実した4年間でした』と胸を張れるようにしようぜ。道は自分自身が切り開いていくものだ」

順平が前に突き出した拳に、僕も拳を合わせた。固い友情の証だと思っていると、すっとぼけたことをつぶやいた。「となると、まず必要なのは女だな」

ニコニコ笑ってはいるが、眼が真剣なのは言うまでもない。さっきまでの迫力はどこへいったのやら。まあ、こういうチャラい部分も含めての順平だ。

「お前、どうせ夜も暇だろ。俺に付き合え」

『どうせ』は余計だ。僕の返事も聞かずに携帯を耳に当てる。

「あ、俺。今晩ヒマだったら飲みに行かねー。なんか落ち込んでるがヤツがいるから、可愛い友達連れてきてよ」僕をダシに使い、合コンの相手を探すのであった。


人気のあるパンキョーは五百人ほど入る階段教室で講義がある。初回は、様子見の学生で席が埋め尽くされ、校内一の大教室があふれかえる。今後サボっても差し支えないかを見極めるためだ。学校側が受講人数に制限を設けていないことに驚いてしまう。想像以上の混雑にたまりかねた教授がマイクを握り、「講義をちゃんと聴くなら空いている席に座って。私は出席を取らないから」と言い放った。数十人が教室を後にしたが、どこからとなく話し声がして、集中できる状態ではない。ザワザワした感じに耐えられなかったのか、教授は淡々と、今後1年間のスケジュールと方針を打ち出した。

「えー、ちょっと静かにして」マイクを通し割れた声が鳴り響いた。一瞬、静寂になる。

「君らが一番訊きたいことを説明しておきます。前後期ともに試験は実施しません。といっても全員が単位を取れるわけではなく、レポートを提出してもらって優劣をつけます。きっちりしたものを作れば、単位を落とすことありません」

冗談交じりに5分も続いた〝演説〟は、「まあ、みなさん察しが付いたと思います」という意味深な言葉で締めくくられ、本題の講義へと移った。出席必要なしというお墨付きをもらった学生がぞろぞろと出口の方へ大移動を始めた。あれだけの熱弁をふるう先生なら、授業も聞く価値はあるのにと思ったのは僕だけではないはずだ。予定通りとばかりに教授は、見て見ぬふりをし、学生に背を向けて黒板にチョークを走らせた。落ち着かないまま授業が進んでいく。ザワザワした雰囲気に包まれ、後方には教授のマイクを通した声はほとんど届かない。熱心に受講しようという気もないのに少しイラッとする。想像していた風景とまったく違うからだ。この日は不完全燃焼のまま終わってしまった。

二回目、三回目と受講者が半減し、四月の終わりには、数えられるほどの人数になった。学生の本分は勉強というけれど、イマドキの学生は然にあらず。まあ、他人はどうでもいい。求めていたのはこれだ、と一人で納得する。心に春のやわらかな陽が差し込んできたようだった。出席しなくても容易に単位が取得できる講義に出続ける理由はたったひとつ。それは、大学生らしい気分を十二分に味わえる、この教室の雰囲気だった。

ノートに黒板を写し書きする鉛筆の音、広々とした空間にポツンポツンと固まって座る学生の姿、遠くに見える教壇。すべてが心地よい。憧れていた青春映画の一場面にそっくりだった。そして一番のお気に入りは、大きな窓から差し込む柔らかな光。これは映画にもない設定だ。ステンドグラスを通した教会に広がる荘厳な光とはまったく別のものだが、なぜか心が洗われる。この悠々たる気分は、決して大人数では味わえないものだった。

いつものように教室全体を見渡せる最上段の中央に陣取っていた。出席している勤勉な学生のほとんどが前寄りに着席するので、周囲には誰もいない。今日もゆったりした時間を過ごすため長椅子を占領していると、女子学生がトントントンと階段を小走りに駆け上がり近寄ってきた。「横に座ってもいいですか」

意表をつかれた格好だ。断る理由もないので、いや断る暇もなく、小首を傾げながら「どうぞ」と左手を差し出した。彼女は「すいません、お邪魔します」と言って、一つ分の席を空けた左隣に腰掛けた。座る場所ならいくらでもある。ましてここは真面目に勉強できる環境ではない。声を掛けようか迷っていると、彼女は突然〝自己紹介〟を始めた。

「覚えていますか。岡崎架純です」

面食らった僕は、椅子の右側に手をつき、ハイジャンプの背面跳びのように仰け反った。ひんやりした感触が腕に伝わる。聞き覚えのある名前だったが思い出せない。呪文のように名前を頭の中で何度も唱える。そうかと思った瞬間、ニッコリ笑う彼女の顔がすぐそばにあったので、さっき以上に驚いてしまった。コンパの席であった彼女とは別人だった。見分けがつかなかったのは会場が暗かったせいもある。サッチーとかいう度派手な友達がマシンガントークを炸裂させていたため、隣にいた彼女が霞のような存在になっていたことも主たる要因だ。しかし、見間違えた最大の理由―それは今日、化粧をまったくしていないからだった。こちらが素の彼女であるのは疑いようのない事実なのだ。

「あのコンパのときの」―情けないことに声が上ずってしまった。

白い薄手のセーターに淡い花柄のストール、ひざ上のチェック柄スカートという清楚な服装に、ノーメイクの透き通るような肌は、高校1年だと言われても疑えない。この初々しさは、朝ドラの顔となった能年玲奈のようだ。女は化粧で化けるというけど、悪いイメージに化ける例もあるのだと知らされた。

北山先輩とは交流しているが、悪い印象しか残っていないサークルに参加することはなかった。ここでの再会は偶然ではない。ありきたりの挨拶を交わしただけで、授業が始まり沈黙が続く。スピーカーを通して教授の割れた声が響き渡る。普段より音量が大きくなっているようだ。もともと講義が好きで出席しているのではないから、勉学に励む気などさらさらない。だが、いつも以上に横が気になって身が入らない。チラッチラッと様子をうかがう。そして右側に座らせるべきだったと後悔する。机の反射がキラキラして、まぶしい。真面目にノートをとる彼女は、自然とうつむき加減になり、横顔を隠すストレートの髪が光に揺れる。授業に集中している姿にドキッとし、鼓動が波打つ。一言も話し掛けれないうちにチャイムが鳴り、短いようで長い1時間半が終わった。

休み時間になると、『何を話せばいいのか』と思い巡らせていたのが杞憂に終わる。

「氷室さん、よかったら昼ごはん一緒に行きませんか」

思いもよらぬお誘いに緊張はとけ、「ぜひ」と即答した。

階段教室の下には学生食堂がある。高校の学食ほど安くはないが、メニューも充実していてワンコインでお腹いっぱいになる。でも、せっかくの機会なので、北山先輩に紹介してもらったオムライスのおいしい喫茶店に決めた。西門を出て徒歩7分、少し入り組んだ路地裏にあるアンティーク風の素敵なお店だ。北山先輩の知り合いが経営しているのだという。『気に入ったヤツしか連れていかないんだ』と先輩に言われ、嬉しかったのを思い出す。『彼女ができたら一緒に来させてもらいます』と返答したのだが、きょうは先走り過ぎた感は否めない。親しくもなっていない子を連れて行くのは少し気が引けたが、迷いはなかった。なぜなら、これからの学生生活において大切な存在になる予感がしたのだ。店までの間、授業中ずっと疑問に感じていた率直な気持ちをぶつけてみた。

「なぜ、いきなり声を掛けてきたの?」彼女は少しはにかみながら、「いつもは、こんな大胆なことはしないの」と前置きしてから答えた。ロングヘアーが横顔を隠す。

「コンパでわたしの知り合いが一方的に喋って、席を変わってからそのまま……。悪いことをしたと思い、ずっと気になって探していたの。謝ろうと思って。部室に顔を出しても会えないし。まさか、同じ講義を取っているとは思わなかった」

友達ではなく〝知り合い〟と言ったことに、なぜかホッとする。

「サッチーだったっけ? あの人、どういう関係なの」

「下宿先が近いだけなの。たまたまコンビニで一緒になって……」

それ以上は知る必要もなかった。僕にとっては、どうでもいい存在。岡崎さんと仲良くなったとしても障害にはならないと確信する。入店する直前に「コンパでは気を悪くさせてゴメンね」と謝ってくれた。君が謝罪する必要は何もないのにと思ったので、僕も「さっき顔を見たとき、誰か判らなかったんだ。ゴメン」と頭を下げた。彼女は「えー、ひどいな、もー」と言ったあと、「そんなの分かってたよ」と舌をペロリと出した。あどけない仕草は、三つ下の可愛い妹を思わせるようだった。二階に上がり、白い木製のドアを開けると、カウベルが出迎えてくれた。「いらっしゃいませ」と奥の方からマスターが叫ぶ。明るい窓際の二人席が空いていたので、彼女をエスコートして腰を下ろした。

「ここはオムライスが絶品なんだ。一度食べたらやみつきになるよ」

「じゃあ、私もそれにする」

「飲み物は何にする? ドリンクセットにするとプラス150円だけど」

「ちょっと寒いけどアイスミルクティーがいい」

僕はオムライスのドリンクセットを二つ註文した。

「落ち着いた雰囲気の店だね。誰かに教えてもらったの」

彼女はグルリと店内を見渡した。中も白を基調としているので明るい。カウンターは木目調で椅子も同じ色目でどっしりしている。背もたれの上部に横に並んだ小さなマルがふたつ、その下には弧を描いた穴が空いていて、彼女は「スマイルマークみたいで可愛い」と言った。確かにそう見える。何度も通っている僕は全然気づかなかったのに、女の子の目の付け所は違うのだと感心した。ところどころに鎮座するアンティーク家具がマスターのセンスを物語る。老夫婦が経営するような静かで自分の世界に没頭できる店でもないし、ガロの曲のような学生が集まる店でもない。ちょっと大人の気分に浸れる隠れ家なのだ。

「北山先輩とちょくちょく来るんだ。学校が近いわりには学生が少ないだろ」

「私も常連になろうかな。でも、ひそひそ話には向かないね」

「岡崎さん、内緒話なんかするんだ」

「女が何人か集まれば男の子の話題が多くなるし。ほら、私って内気な性格だから好きな人の名前とか言えないし」―うつむき加減の彼女に、ドキッとする。会ったばかりの僕でないのは百も承知。でも想像だけは膨らんでいく。言葉に詰まったところで、店員がオーダーしたセットを運んできたので助かった。ナイスタイミング。

「おいしそう。いただきまーす」両手を合わせ、無邪気な笑顔がはじける。

ここのオムライスは洋食屋でよく出てくるデミグラスソースではない。卵も今風のフワトロじゃなく、薄く焼きあげた上にケチャップがかかっている昔懐かしい逸品。見た目は愛想なく映るが、中身はしっかり鶏肉が大量に入っていてライスの味付けが絶妙なのだ。

一口食べ、目を丸めて彼女が発した「おいしい」の感想は、さっきの『おいしそう』とはまったく違っていた。『客が多いと居心地が悪くなるから、口コミで広げないでくれよ』と言った先輩にも申し開きがたつ笑顔だった。

大学生になってから、野郎以外と二人きりで食事するのは、考えてみれば初めて。入学するまでに思い描いていた昼下がりの午後って感じがする。おいしそうに頬張る彼女を見ていると、なんだか食べないうちから、お腹がいっぱいになる。なぜだか、僕の頭の中で、♪いっぱい食べる君が好き♪という森山直太朗の歌声がグルグルまわって放れない。店内には、大好きなシカゴの名曲「素直になれなくて」が流れているのに。そういえば、先輩と来たときも、ケニーロギンスの「フットルース」やフィルコリンズの「ワンモアナイト」が掛かっていた。ザ80年代洋楽という選曲は、マスターの趣味? 今度、訊いてみよう。

彼女がペロリとたいらげたとき、僕のオムライスはまだ半分残っていた。これでは男女逆でしょう、と嬉しいような悲しいような。女の子が男の前で、がっつくのは勇気がいりそうなのだが、よほど信頼されているか、アウトオブ眼中のどちらかだ。これからの関係発展に期待するとしよう。食後のコーヒーを飲みながらの会話は盛り上がり、あっという間に時間が過ぎた。スポーツ観戦が好きであるとか、ピアノを習っていること、僕が目指していた文学部の話などなど。そして違和感がまったく無かったことに、ふと気づく。

――そうだ。言葉遣いに全然イヤミがない。出会ってから間もないのに、数年来の友達のように気兼ねなく会話が成立していた。回想してもフィーリングが合うというしかない。屈託なく自然に喋れたのは、思いもよらぬ収穫で、念願のメアドもゲット。マスターのシブイ選曲に、『わたし、この曲、知ってる』と鼻歌でメロディーを合わせたのにも驚かされた。で、最も衝撃を受けたのは、コンパでの控えめな性格から一転、きょう見せた活発な印象だった。気さくでいて時折見せるシャイな一面、なにより明るい笑顔に引き寄せられる。どちらが本当なのだろうか。名前も忘れていた岡崎架純という女の子に俄然興味が湧いてきた。それに『好きな人』という言葉は、まだ決まった相手がいないということを意味する。いろんなことが頭をよぎり、僕の心には好印象だけが刻まれた。

「珍しいな、氷室君が女の子を連れてくるなんて。もしかして彼女かい」

お勘定の際、マスターから茶化された。

「いや、違いますよ。まだ友達にもなってないんです」

「えっ、いい雰囲気だったから、てっきりそうかと。ゴメンゴメン」

そういって頭をかきながら、飲み物代をまけてくれた。横を見ると、彼女はバッグを両手で前に持ち、うつむき加減に照れているようだった。大学へ戻る途中、冗舌だった彼女が一言も喋らない。マスターの一言を気にしているのか、重苦しい雰囲気に包まれた。お互い意識し合っているうちに西門へ到着した。これからバイトの僕は、授業があるという彼女を見送った。「じゃあまたね」と手を振った彼女の後ろ姿を眼で追いかけた。

『またね』の笑顔に、淡い期待を抱きながら。

 

 5ヶ月ぶりの再会であった。

朝の祈りを終え中庭に出ると、日向ぼっこをする透き通った女性がベンチに座っていた。淡い光を吸った白いワンピースに目を奪われたが、逆光気味で顔が確認できない。金のエンジェルが歌っているみたいだ。もう讃美歌は聴こえるはずもないのに、やさしいメロディーが脳裏をかすめた。しばらく眺めていたいという衝動にかられたが、ゆっくりと一歩を踏み出した。いきなり声を掛ける勇気もなく、5メートルほど離れた彼女の前を横切ろうとしたとき、脇にあった黒いバイオリンケースに目が留まった。鼻歌をやめた彼女と目があった瞬間、高鳴る胸をキューピットの矢で突き抜かれたような気がした。

忘れもしない、木枯らしが吹く冬の歩道橋で出会ったひとだった。あの時はチェロを運んでいたけど、両方弾けるのかも知れない。クラシックを習っている人など、そう多くはいないはず。理想の女性像としてずっと胸に抱き続けてきた、そのひとが目の前にいた。

 うそだろ――こんな偶然、ある訳がない。二度と会うこともないと諦め、削除していた記憶を掘り起こした。やはり彼女だ。見間違うわけがない。神様が一度きり与えてくれたチャンスだと感謝しつつ、不審に思われないように近づいた。十中八九、僕のことなど覚えていないだろう。すると、彼女がペコリと頭を下げた。

 「おはようございます。素晴らしいお天気ですね」

 明日から五月というのに日陰はまだ肌寒く、陽が当たる場所との寒暖差が激しい。南国の海を映したような青空が広がる気持ちのいい朝。よく見ると、白いワンピースに花が咲いていた。バラのような大輪ではなく、淡いブルーの小さな花があしらわれている。カーディガンの上からでもウエストがキュッとしまっているのがわかり、彼女に着られるため作られた衣装のように思えた。ごく一般のあいさつに聞こえたので、僕も「気持ちのいい朝ですね」と返した。きっかけをつかんだせいか、胸の鼓動が小さくなり、焦る気持ちは泡と消えて行く。ゆったりとすがすがしい朝のひとときを堪能する彼女を見ていると、いきなり歩道橋での話を持ち出すような無粋な振る舞いはしたくなかった。

 「あのー、覚えていませんか」

 そんなわけがない、急いでかぶりを振ってみせた。太陽の反射がまぶしいのか、彼女は目を細めて恥ずかしそうな素振りで、こちらをうかがう。僕はその美しさに目を奪われて言葉にならなかった。目の前にいる彼女は幻で、強い日差しにさらされていると蒸発して消えてしまいそうな気がした。男はなぜ儚げな女性に弱いのだろうか。太陽が高くなる前にしぼんでしまう青白い朝顔を思い出した。出会ったときは、シックな服装に髪を束ねていたせいか、ずいぶんと大人っぽく見えたのに、今はあどけない少女のようだ。そのギャップに戸惑いながらも、朝の光でツヤツヤと輝く黒髪は、かなり伸びたような気がする。至近距離から見た彼女は、悩める者を優しく包み込む天使のようだった。

 「よかったら横に座りませんか。ぽかぽかして暖かいですよ」

 バイオリンを膝上に載せて、一人が十分に座れるスペースを空けてくれた。思ってもみないお誘いに、「あ、はい」と応え、お尻が半分はみ出しそうな端っこに腰掛けた。緊張しているのが分らないように息遣いを静める。少し伸ばせば手の届く距離に彼女がいる。口から心臓が飛び出しそうだった。これほどまでに意識させる女性が今までいただろうか。震える感情を抑えつけるので精一杯だった。

 「教会から出てこられましたが、ミサにはいつも?」

 「正確に言うとミサではなくて、日課にしている朝のお祈りです。父が牧師なので、その手伝いも兼ねて休みの日は毎朝きています」

 彼女が驚いたような表情をした。開いた口を隠そうと、とっさに当てた両手を、そのまま下ろし膝で挟み込んで、お辞儀をした。

 「いつもお世話になっています」

 僕はキツネにつままれたような感覚で、さっぱり何のことか分からず、「はっ」と大声を上げた。小さな顔を隠したサラサラの黒髪に手を当て、ハープをなでるように整えると、彼女は学生寮を指さし、「あそこに住んでいます」と力強く言った。

 さっきの『はっ』より数倍驚いたけど、今度は声も出なかった。家の近く、つまり教会の離れには学生寮がある。同じく牧師だった祖父が、苦学生を住まわせるために建てたアパートだ。僕が生まれるずっと前からそこにあり、見た目は相当古い。収益度外視の低料金で十部屋を貸していて、祖父が亡くなった今も父が遺志を継いでいる。

こんな偶然ってあるのだろうか。一瞬、耳を疑いたくなった。突然のあいさつに戸惑ったものの、「住み心地はいかがですか」と無難にまとめた。いや、そのつもりだった。

クスクスと笑う彼女。「言い遅れましたが」と前置きしながら、初めて大家を訪ね挨拶するように自己紹介を始めた。名前は烏丸詩織だった。

この春に入寮し二階の角部屋を借りていること、自宅は東山区にあり、ネスレ女学院の2回生であることなどを教えてくれた。膝上に鎮座する光沢ある黒いケースが、ワンピース姿の彼女と一体化している。剣を手に持ったジャンヌ・ダルクのように、僕の頭中には必須アイテムとしてのイメージが植えつけられた。一旦、彼女から目を背けて逆方向を見る。静かにたたずむ古びた学生寮は、バイオリンと、いや気品のある彼女とは余りにもミスマッチだった。京都市内に自宅があるにもかかわらず、2回生で転居してきたのも少し気になったけれど、お嬢様にも家庭の事情くらいはあるものだ、と折り合いをつける。

「なかなかの住み心地ですよ」

「えっ……」

「あ、さっきの質問に対する答えです」

とっさに口をついて出た言葉だったので、僕自身も忘れていた。スルーしてくれてもよかったのに、律儀と言うか何というか。それに彼女が言うと社交辞令に聞こえないのが不思議だ。家主でもないのに少し嬉しかった。これから草むしりくらい手伝ったら、彼女と話せる機会が増えるかもしれない、と調子のいいことばかりを思い描いた。

「長い連休なのに帰省しないんですか」そう尋ねると、彼女は少し困ったように顔を背けて、「…ええ」と言った後、「近いのでいつでも帰れますから」と答えた。表情から察するに、話したくない事情があるようなので慌てて話題を切り替えた。

「そういえば、前にお会いしたときはチェロを抱えていたと記憶していますが?」

生まれたての我が子をあやすように、彼女はそっとバイオリンを柔らかく抱え込んだ。チェロは妹が習っているのだという。姉妹そろってクラシックとは、さすがお嬢様学校に通うだけのことはある。そしてなぜ妹の楽器を運んでいたのかという、話の流れからごく自然な疑問をぶつけると、彼女の顔がいっそう曇った。分かりやすいリアクションだった。当たり障りのない質問を投げたつもりが、また裏目に出てしまった。家を出た事情に関係があると直感した僕は、とっさにバイオリンが聴きたいと頼んだ。すると、彼女は「少しなら」と笑顔で応じてくれた。場に慣れてきたのと、お尻が痛くなってきたこともあり、少しだけ彼女に近づいてから座り直した。

彼女はさっと立ち上がり、ケースをベンチにやさしく置いた。バイオリンの値打ちは見当もつかないが、光沢ある茶色が反射して高級感を演出する。ハンカチを挟んで顎にバイオリンを当てた瞬間、凛とした空気が張り詰めた。弓を構える美しい姿勢に思わず見とれてしまう。すると、ステージでスポットライトを浴びるかのように朝のまっさらな柔らかい光が彼女に降り注いだ。持って生まれた気品が漂う。心地よかったそよ風は止まり、樹木の葉がこすれ合う音も途絶え、緊張感を伴った静寂が辺りを埋め尽くした。

弦を押さえる左手の指がしなやかに動く。右手で軽く支えた弓がバイオリンと直角に激しく動くと、経験したことのない強くてなめらかな音色が鳴り響いた。こんな間近で生の演奏を聴くのは、もちろん初めてだった。聴き覚えのある曲。小学校の音楽室が思い浮かぶ懐かしいメロディーが身体に注入されていく。目をつむってじっくり鑑賞したい気もしたが、彼女に視線が釘付けとなる。この幸運を見逃してはなるものかとばかりにしっかり瞳に焼き付けた。サビの部分だけだったので、ほんの1分くらいだったが、彼女の技術は存分に伝わってきた。こんな贅沢があっていいのだろうか。さっきまで何を喋っていたのかも忘れてしまった。完璧なまでの容姿から卓越した演奏を繰り出されたら、たいていの男は骨抜きにされるだろう。僕も当然その一人になってしまった。

ひと言でうまいと思う演奏もあれば、人に感動を与える演奏もある。彼女は明らかに後者だ。前者を歌にたとえるなら、音程を外すことがない歌手。昨日たまたまテレビで視たカラオケで歌の優劣を決める番組を思い出す。最高点を連発して女王と呼ばれていた歌声には興味さえ湧かなかった。極端な話、機械が織り成すヴォーカロイドと大差がない。評論家のようにうまく説明できないけれど、平坦で薄っぺらい感じがした。一方の敗者は後者の部類に入った。得点ではまったく及ばなかったものの、聴く者に感動を与えていた。感情を込めて周りを圧倒する歌唱力とパフォーマンスに心が震える。少なくとも僕の中では群を抜いていた。映し出された観客の涙しているシーンが本物を証明していた。

僕の採点では、烏丸詩織は紛れもない本物だった。当然、容姿を含めてのことだけれど。

「タイトルご存じですか」

余韻に浸っていた僕は、ハッと我に返り、慌ててノーのジェスチャーをする。

「クライスラーの愛の喜びです」

演奏に引き込まれていたので、拍手するタイミングを逃した。人は想像を超える驚きがあると、言葉を失うものなのだと改めて思う。ステージの上に立つドレス姿の彼女を思い浮かべたら、ブラボーという大きな歓声と惜しみない拍手の渦が耳の中でこだました。

「バイオリンの小作品の中でも、私のお気に入りなんです。弾いていると、落ち込んでいるときでも明るい気分にさせてくれるから」音楽を語る真剣な眼差しは、瞳の奥に力強さがある。第一印象の儚いイメージは一気に吹き飛んだ。そして彼女の潤んだ唇から発せられた『愛の喜び』に、一瞬たりともドキッとなってしまった自分が恥ずかしい。

「本当に感動しました。オーケストラが迫力あるのは知っていましたが、楽器単体でもこんな力強い音が出せるなんてびっくりしました。しかも優美な演奏を独り占めでき、きょうは幸せな一日になりそうです」

「そんなに褒めてもらったのは初めて。いつでもとは約束できないけど、また練習するときにでも聴きに来てくれたら励みになります」

〈また会ってくれると期待していいのか〉心の中で叫び、小躍りしながら帰宅した。

もう何度、同じ曲を聴いただろう。晩御飯をさっさと済ませ部屋にこもってから、1時間余りヘッドホーンを着けたままだ。CDには有名なクラッシクの短編が15曲も入っているが、彼女の演奏した曲にリピートをかけているので次の曲は始まらない。母親の持っていたレコードが気に入り、いつもは80年代の洋楽ばかり響かせているが、たまにはクラシックもいいものだ。彼女の顔が浮かんでは消え、また浮かぶ。窓を開けても学生寮は見えない。枠に両肘をつき、闇に向かってため息をもらす。居ても立ってもいられないもどかしさ。ストーカーみたいで気が引けたけど、我慢できず散歩に出た。

昼間と違い夜はまだ肌寒い。上着を羽織ってくればよかった。教会の中庭に出ると、彼女の部屋には明かりがついていた。この朝、並んで座ったベンチから、ぼんやり寮を見上げると、消灯の部屋がほとんどだった。帰省している住人が多いらしい。こうやって学生寮をゆっくり眺めたのは初めてだ。子供の頃から当然そこにあり、借りている学生にも興味はなかった。気になる人がいるだけで、こんなボロっちい建造物にも親しみが湧いてくるなんて、まったく不思議なものだ。そう思って見ると、ひび割れた白壁に蔦が絡まり、あまり手入れが行き届いていないように感じた。修繕などの敷地の管理は誰がしているのだろう。今まで、気にならなかったことが、無性に気になってきた。この知りたいという衝動は、烏丸詩織に向けられたものに間違いなかった。

部屋に戻っても落ち着かず、動物園のシロクマのように部屋をうろうろするばかり。今度は、どうやって話し掛けようか、何とか親しくなる方策はないものか。布団に入ってもなかなか寝付けない。暗闇に目が慣れて、天井の模様までが気になり始めた。すると彼女と初めて会ったときの光景がフラッシュバックした。


        ◇


ビュービューと強風が吹き荒れる十二月初めの寒い日。クリスマスムードが漂う街の華やかさに反して人影は少なく、コートの襟を立てて足早に通り過ぎるサラリーマンが数人いるだけだった。僕は大型書店で専門書を買うため大阪に来ていた。出かける前、テレビでは気象予報士のお姉さんが『学校の先生も忙しく走りまわる』なんて、師走っぽい話題を挟んでいたが、そういった活気はまったく見当たらない。先を急ぐ車のタイヤ音だけが耳に飛び込んでくる。歩く人はみな、寒波を避けようと縦横無尽に張り巡らされた地下街に潜り込んでいるのだ。

彼女に出会ったのは、歩道橋を上る階段の途中だった。ダークグレーのハーフコートから黒のドレスがのぞいていて、今にも折れそうな細い脚が伸びている。背丈ほどある楽器を重たそうに抱えていたので、後ろ姿に向かって声を掛けた。中身はたぶんチェロ。クラシックに縁のない僕でも想像はつく。確か、すぐ近くにフェニックスホールというコンサート会場がある。コンテストに出場するため急いでいるように見えた。

「手伝いましょうか」そう呼び止めたところまではハッキリと覚えている。再び記憶を取り戻し、我に返ったときは黙々と楽器を運んでいた。

なぜだろう? ゆっくり思い返すと、こうだ。階段の下から見上げた気品漂う容姿に声を掛けたまではよかったが、振り返ったとたん、その美しさに言葉を失う。高層ビルの陰になってはいたが、そこだけがまぶしくて目をそらさずにはいられない。ビル風が止み、今までうるさく感じていた車の音も消えうせる。静寂の時間が流れたかと思うと、次の瞬間、『大胆なことをした』という焦燥の波が気弱な僕の心を包み込んだ。草原の中でライオンに見つかったカモシカのごとく、格の違いを感じてしまったのだ。現時点で人間としての完成度に大きな開きがある。〝生態系ピラミッド〟に照らし合わせる限り、頂点に君臨する彼女との差は歴然だった。頭の中で、振り向いた一瞬が何度もリプレイされる。目の前にいる百獣の王の美しさに圧倒されてしまった。

拒絶されたら、すぐにでも立ち去るつもりだった。

「ありがとうございます。でも、大丈夫ですから」

予想通り、最初は丁寧に断りをいれた彼女だったが、僕の顔色をうかがってから思い直したのか、「お願いします」とほほ笑んだ。カモシカではなく小動物のリスにでも見えたのかも知れない。他人に安心感を与えるのだけは得意なのだ。

彼女の〝承諾〟を得て、楽器の下の方を持ち、引っ越し業者が高価な荷物を扱うように優しく運んだ。実際の重さにプレッシャーが加わり、想像以上の力仕事だ。緊張感が漂う二人だけの共同作業。実際は地上に到達するまで一分足らずだったが、五分以上にも感じた。手伝っている間は無言だった。話せる雰囲気でもなかったが、それ以上に落とさないことに集中した。運び終えると息が切れたが、男の面目を保とうと平然を装う。

「重かったでしょう」

「へっちゃらです。でも、大切なものを落としてはいけないと緊張しました」

「本当に助かりました。横断歩道を探したんですが、見つからなくて」

「そうだったんですか。人が多い地下街を通るわけにもいかないし」

見渡すと、確かに国道1号線には歩道がない。車優先なのは理解できるが、歩行者には不便な造りだ。もう少し話したいと思ったので、二百メートル先のノッポビルを指さした。

「あそこのホールまでだったら手伝いますよ。僕も向こうに用事があるから」

「ありがとうございます。いつも担いでいますので」

時間が迫っているのか、彼女は丁寧に頭を下げた後、平地なら大丈夫と言い残して足早に去って行った。大事な予定があるでもなし、そのままコンサート鑑賞という手もある。当日券くらい販売しているだろう。どうしても演奏を聴いてみたいという欲望にかられる。でも自分の服装を確認したらすぐに諦めがついた。ドレスコードはないだろうけど、いくらなんでも穴の開いたジーンズはまずい。結局、彼女の記憶をフレッシュなまま脳裏に留め、渡ってきたばかりの歩道橋を後戻りした。

二度と会うことはない君の思い出を胸に、すがすがしい気持ちで帰途に就いた。


        ◇


好機は翌朝に訪れた。あんなに悩んだのが、ばからしくなるほどに。昨日と同じ時間に教会から出ると、彼女は同じような体勢でベンチに座っていた。違ったのは服装とバイオリンが手元にないことぐらいだった。

〈まさか待っていてくれたのか〉そんな思い上がったことを考える僕ではない。いや、そう思う時点で、そこはかとなく淡い期待があったのかもしれない。その姿を見ただけで、じっとしては居られず自分から声を掛けた。

「おはようございます。日に日に暖かくなりますね」

「ほんとに。お出かけ日和ですね」

「二日連続で会えるとは思いませんでした」

軽く挨拶を交わしただけなのに、昨日より気軽に話せているのがわかる。しかし、彼女の次の一言で、緊張がピークに達する。

「昨晩、一人でベンチに座っていたでしょ」

少し意地悪そうな笑みを浮かべた巧妙な言い回しに『しまった』と冷や汗が出る。見られていたなんて全然気づかなかった。天使から小悪魔に変身したような上目遣い。でも冷静に考えれば、何も悪いことはしてないし、隠す必要なんてさらさらないのだ。ここは、うちの敷地みたいな場所だから、なんの不都合もないのである。

「あの寮も古くなったなーって。生まれたときからあったものですから」

「てっきり私の部屋を見てたのかと思いました」

また意地悪な表情で僕をからかい、「冗談ですよ」と笑った。僕を試しているようにも見えるが、再会した昨日とはまるで別人だ。どちらが好みかと訊かれれば、両方ともタイプだと答えるしかない。大人の美しい女性と悪戯好きな可愛い少女が同居しているなら大歓迎である。たぶん、世の中の男の大半がそうであるに違いない。困っている僕を見かねて、昨日はバイオリンの練習場所を探していたこと、夜は窓から三日月を眺めていたら、僕が歩いてきたので、とっさにカーテンの影に隠れたことなどを正直に話してくれた。

無造作に後ろで束ねた髪型が新鮮だ。おめかしせず部屋から出てきました、という恰好が僕の心を和ませた。そして一番嬉しかったのは、僕を待っていてくれたことだった。とにかく安心できる話し相手がほしかったらしい。そういう意味では、彼女にとって僕以上にうってつけの人物はいないだろう。こうなったら〝アンパイ〟でもなんでもいい。

「きょうは待ち伏せしてました」と彼女の口から漏れたときはさすがに鳥肌が立った。

クライスラーの曲を幾度となくリピートし、今も頭の中で響いていることを話すと、昨夜から熱望していた柔らかい笑顔が目の前ではじけた。ツカミはOK、僕にしては上々の出だしとなった。そして、ネタとして用意してきた学生寮にまつわる怪談を披露する。さっき喰らった先制パンチへのお返しだ。

「この寮、建ってから二十五年ほど経つんだけど、五年ほど前に住んでいた音大生が交通事故で亡くなって。ちょうど君が借りている反対側の部屋。それから夜になるとピアノの音が聴こえるという噂があるんだ」

「ちょうどいいわ。バイオリンとピアノってすごく相性がいいの。一度、お手合わせ願いたいな。そのときはぜひ聴きに来てね。必ず招待するから」

びくともしないとはこういうことだ。というか鼻で笑われた感じがした。ほとんど寝ずに考えたブラックユーモアなのにバレバレだったようだ。でも収穫はあった。いつの間にか、二人の間に壁はなくなり、敬語も使わなくなっていた。

「あなたは嘘なんてつけないわ。すぐにわかるもの。とくに女性には絶対ムリ」

褒められているのか、バカにされているのか判定は微妙。ここは素直に喜ぶことにした。半時間ほど話し込んだとき、清水の舞台から飛び降りる気持ちで、「お暇でしたら、昼から散策でも行きませんか」と自信なさげに誘ってみた。9割の確率で断られると思っていたが、彼女の口から出たのはOKだった。

「じゃー、天気がいいのでサイクリングに行きましょう」

予想していなかった返事にドギマギしたが、免許も車もないので、ドライブじゃなくてホッとした。以外と庶民的な発想に、彼女のことをもっと知りたくなった。ネスレ女学院といえば宝ヶ池の高台にそびえるお嬢様学校。苦学生用の寮にきたのは、なぜか。確か、親父が面接してから入寮を許可しているはずなのに――。このさい深い詮索などしてもしょうがない。とにかく約束は取り付けた。彼女にとってはそのつもりがなくても、僕にとっては大学生になっての初デートなのだ。

待ち合わせ場所に到着すると、烏丸さんは春っぽい淡いピンクのセーターにジーンズというラフな格好だった。いくらふわっとしたワンピースが似合いすぎる彼女でも、チャリでスカートは無謀な選択だ。で、期待を裏切られたといえばそうではない。サイクリングにはピッタリの服装。スタイル抜群の彼女が着こなすと立っているだけでも爽快感が漂う。それに引き替え、僕は気合が入っているのが透けて見えた。『外見は結構イケてるんだから、もっと自然体で勝負しろ』と合コンの帰り道で順平に言われた一言が耳に響く。そうだ自然体でいこう。気を楽にして出発した。

賀茂川沿いに出て北へと上ル、定番のコース。彼女から誘ってきただけのことはある。買ったばかりのマウンテンバイクを軽やかに乗りこなす。5キロほど離れたスーパーへ愛車で買い出しに行くという。僕は高校への通学で3年間お世話になった自転車だ。卒業以来、倉庫に眠っていた代物で、パンクこそしていなかったが廃棄寸前のC級品。空気圧を整え、チェーンが錆びていたので油を落としてきたが、一番スピードが出る5速にギアを入れると、ギコギコ耳障りな音がした。彼女と二人きりで出かけれるなら何でもアリだと思い、二つ返事で了解したものの、この自転車はあまりにも役不足だった。

それでも、川沿いを渡る五月の風が心地よい。彼女は容赦なくスピードをあげる。僕は遅れをとらないよう必死に食い下がる。整備されたサイクリングロードを並走する彼女を横目にやると、「自転車の調子、悪そうだけど大丈夫」と気にかけてくれた。「何とか」と風に負けないよう叫ぶと、上賀茂神社まで疾走した。僕の愛車は途中で機嫌を直してくれたのか、出発した時よりいくらかスムーズな走りを見せてくれた。とはいえ、涼しげな顔でペダルを回転させる烏丸さんとは対照的に、運動不足の僕はヘロヘロだった。ぽかぽか陽気のため、背中に汗が流れ落ちる。

散歩する人が増えてきたので、スピードを緩めると神社が見えてきた。1時間近く走っただろうか、やっと目的地に着いた。僕の体力は限界だった。入口付近に自転車を置き、境内で休憩することにした。烏丸さんはペットボトルのスポーツドリンクを一口飲み、「ごめんね」と爽やかな笑顔で謝る。汗すらかいていない彼女に対し、僕は息があがり、「ど・うし・て・です・か」と、とぎれとぎれの声を出すのが精いっぱい。

「試走に付き合わせちゃってゴメン。いつも近所ばかりで、遠出は初めてなの」

ハッハーハー。赤い鳥居が見え、新緑がまぶしい。思えば、そう遠くないこの場所に来るのは初めてだった。宗教の関係で神社仏閣には縁がない。高校時代、友達が待ち合わせして初詣に出かけるのが羨ましかった。親から行くなと言われた訳でもないのに、なんとなく気が咎め、誘いを断ったのを思い出す。大晦日と新年の雰囲気だけ楽しめばよかったのに。何度か断るうちにお誘いさえこなくなった。あの頃の肩肘を張っていた自分を考えるとばからしくなる。仏教徒が普通にキリスト教式の結婚式を挙げ、クリスマスを祝う時代だというのに。息が整うのを待っていた僕に、彼女は遠慮がちな提案をした。

「氷室君、敬語やめよう。学年は違うけど、同い年なんだから」

意識せずに喋ると元に戻っていた。嬉しさのあまり、「うん」とうなずく。

「じゃあ、これから陽斗くんって呼ぶね。私のことは、シオリでいいから」

下の名前なんて、いきなり呼べるはずがない。しかも呼び捨てで。返す言葉を選んでいると、彼女はごく自然に、デリケートな質問をぶつけてきた。

「陽斗くんって、彼女いるの」――「え、いるわけないっしょ」

なにが『いるわけない』だ。素直に『いない』と答えればいいじゃないか――胸をさすり心の中で叫ぶ。せっかく彼女が自然体で接してくれているのに、自意識過剰もいいところだ。迷ったあげく僕なりに頑張って出た呼び名はさん付けだった。

「そういうシ・オ・リさんはどうなんですか」

「私もいないわよ。ずっとフリー。一人として彼氏と呼べる人はいなかったなー」

驚きのあまり、頭で整理しないまま、失礼なことを口走っていた。

「一度も? そんなきれいなのに。告白されたことは何度もあったでしょ」

「何度も、は無いなー。高校のとき2回だけ。一人は嫌いな人じゃなかったので、デートはしたんだけど、でもうまくいかなくて……」

彼女の表情が少しくぐもった。悪いと思ったが、取り繕うこともできず視線をそらす。見た目で判断してはいけないと散々親父に言われてきたのに。いつも人を傷つけないように、考えてから言葉にすることを心掛けているが、さっきのはまずかったか。数秒の間だけ、乾いた空気と静寂が僕らを包んだ。

すると目の前のお嬢様は、とんでもないことを言ってのけた。

「私と試しに付き合ってみる? 初デートも済ましたことだし」

沸騰した血が逆流し脳天まで駆け上がるのがわかる。逆立ちしてもハイなんて言えるわけがない。可愛い顔してなんてこと言うんだ。この人はきっとフラれた経験がないから、その痛みを知らない。遊女とまでは言わないが、絶対、付き合ったことがないなんて嘘に決まっている。じゃないと、あんな軽いセリフを吐けるはずがない。僕が好意を抱いてるのを承知の上で、もてあそんでいるのだと思うと、一気に淡い恋心が冷めていく。

脱力感が全身を包み込んだとき、僕の表情を察知した彼女が再び口を開いた。

「からかっていると感じたならごめんなさい。まるっきり冗談じゃないから。こういう話になると、経験がないからうまく言葉にできないの。困らせようと思ったんじゃない。反応を見るためでもない。だから信じて」

僕が黙っていると、彼女は独りごとのように小さな声でつぶやいた。

「いやだよね、こんなこという子。ほんとにごめん。私、なに言ってるんだろ」

矢継ぎ早に出てくる自責の言葉にはウソなど見当たらない。サイクリングのすぐ後でも平然としていた彼女の額がうっすら光る。焦っている彼女の姿など見たくはない。お嬢様らしく気品に満ち溢れ、どっしりと構えているのが烏丸詩織だ。残念ながら、僕が理想の女性として追い求めてきた姿は今どこにもない。こんな展開、望んだわけじゃない。今日一日を彼女と楽しく過ごしたかっただけなのに。このままだと、お互い自滅するような気がする。せっかく友達としての土台ができたのに関係を終わらせたくはない。必死に逃げ道を探していたら、ふとした疑問が頭に浮かんだ。なにかがおかしい。彼女にそんな焦る理由でもあるのだろうか。いくらなんでも積極的過ぎないか。落ち着いていた昨日とは様子が違う。確か彼女には、再会したときから安心感を求めているような節はあった。怯えている感じではなく、信頼を分かち合える誰かが傍に居てほしいみたいな。

そのとき、僕の眼には、重大な悩みでも抱えているように映った。

バイオリンが奏でた愛の喜びを思い出す。澄みわたる弦の音色に一点の曇りもなかった。あのあと、確かに彼女は言った。気軽に話せる人がほしい、と。その言葉に嘘偽りはなく、紛れもない本心だった。さっきの交際の申し出は飛躍しすぎたひと言だったんだ。

僕は心に決めた。彼女になら騙されてもいいと。深呼吸してから「信じるよ」と言った。

しばらく時間は掛かったが、俯き加減だった彼女は、らしさを取り戻した。

「じゃあ、寮の管理人さんと下宿人という関係ではなく、まずは友達で」

「僕は管理人じゃあないよ。それは親父だろ」

彼女がクスクス笑ったので、「よろしく」と手を差し出した。

爽やかに決めたのはいいが、少し心残りもあった。惜しいチャンスを逃したのではないか、と。『付き合ってみる?』にOKの返事をしていたら……。いらぬ妄想をしたら耳たぶが熱くなった。仮に交際が始まったとしても後悔するのは目に見えている。恋人という言葉だけの契約が、いかにくだらないものか僕は知っている。もう二度と、ぎくしゃくした関係になるのはまっぴらだ。それに彼女は、僕のことを生真面目で信頼できる男だと思っているから誘ってくれたのだ。そんな彼女の気持ちを無にはできない。だから、これでいいのだと、今は納得する。この調子で仲良くなれば、いずれはチャンスが訪れる。そう期待しながら、次は自分の方から告白できるよう、彼女にふさわしい男になると誓う。

いい関係を築くには、ある程度の時間は必要なのだ。焦ることはない。烏丸詩織がシンデレラのように目の前から消えることはないだから。

「こちらこそ、よろしく」握りしめた右手から、温かい感情が伝わってくる。

真実を訴えかける誠実な眼差し。一瞬たりとも悪女扱いした自分が恥ずかしかった。どこまでも純粋で、どんな色にも染まっていない真っ白な心。そう、歩道橋で出会ったときのイメージ通り。憧れ続けた女性がここにいる。彼女は表情を緩め、はにかむと、硬くなっていた肩の力を抜いた。緊張していたのは僕だけではなかったようだ。

「そろそろ帰ろうか」

「そうだね。日が暮れたら自転車では寒いし」

もっと一緒にいたいけど、今は間が持たない。あの一言がなければ、こんなに意識することもなかった。でも頼られている気がしてちょっと嬉しい。今度会うまでに対策を練り直しだ。もっと素直な自分を見せられるように。

現金なもので、帰り道の僕の自転車は相当軽かった。まるで電動アシストがついているかのように。ハイな気分も重なり、雲の上を飛んでいるようだ。カシャカシャカシャと付きまとってくる軋みさえ気にならない。ペダルを踏み込み、爽やかな風を切って疾走する。往路は景色を楽しむこともできなかったが、復路は心の余裕もあり、賀茂川の流れる音まで聞こえてくる。彼女と並走するのが当たり前のように感じた。

「私、心から相談できる人がいなかったから」

別れ際、小さな声で言い残した彼女は、どこか淋しそうだった。

だったら僕が立候補するだけのことだ。


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