4 数奇な運命 その3
美しい星の町と書いて美星町。岡山県の山あいにあるこの町は、数年前、井原市に編入された。願いが叶う町として知られ、ロマンチックな星降る夜を楽しみたいカップルや天文ファンに愛されている。
すっかり意気投合した姉妹は、夏休みが終わる前に急きょ、架純の故郷へ行くことを決めた。一刻も早く祖父母に報告をしたい気持ちは分かる。が、しかしである。またもや僕の意見や予定はいっさい無視され、三人での旅となった。文句のひとつくらい言ってやりたいが、架純から連絡を受けたとき、鼻の下を伸ばしてしまった。美女二人とひとつ屋根の下で一夜を過ごすことを想像すると男なら誰でも同じ反応をしてしまうだろう。
架純が岡山で暮らしたのは、京都で独り暮らしを始めるまでの約3年半。最も多感な高校時代を祖父母と過ごしたことになる。詩織は幼少期に一度訪れたことがあるらしい。本人はまったく記憶にないので、初めてのようなものだった。理由はともかく詩織は新幹線の中からそわそわしている。まあ無理もない。彼女の立場になって考えると、最初のあいさつさえ思い浮かばない。――オーソドックスな『お世話になります』はよそよそしい感じがする。『お久しぶりです』や『お元気でしたか』も違和感あり。『初めまして』は事実とも異なるし論外だ。だったら――。僕の浅知恵では手詰まりになってしまうほど、複雑な対面となる。遠くを見つめる詩織の緊張をほぐしてやりたいが、それすらできない。
一方、架純はすっかり旅行気分のようだ。住み慣れた田舎へ帰るだけというのに、テンションが上がりっぱなし。姉と一緒なのがよほど嬉しいのか、気分上々なのである。ビール片手にご機嫌のサラリーマンとまでは言わないが、それに近い雰囲気だ。
「お姉ちゃん、緊張しなくていいよ。事情はすべて話してあるから」
「うん……」
「おじいちゃんたち、すごく会うのを楽しみにしていたから。詩織は元気かって心配していたよ。そんなガチガチな態度だったら、わたしが怒られちゃうよ」
架純は、普段通りにあいさつしてくれたら、あとは自分がうまくやるから、とウインクする。すると、詩織の表情がみるみるうちに柔らかくなっていった。
「あ、そうそう。ハルトくんも普通にしてたらいいから」
「人を付けたしのように言うな!」
架純がペロッと舌を出すと、詩織はきょう一番の笑顔になった。ちゃんと姉のことを気遣っているのだなと感心する。架純がいれば、この調子で和ませてくれるだろう。『悪いように転ぶことはないさ』と自分に言い聞かせると気が楽になった。誘われたときは、自分が参加してもいいのかと迷ったが、招待されたことを名誉にしたい。焦らず、気取らず、恐縮もせず。自然体で会うことが、再会を心待ちにしているお二人にとって最高のプレゼントになるのは間違いない。架純によると、岡山駅から地元の鉄道に乗り継ぎ、さらにバス。まだまだ先は長そうだ。古里がない僕にとっては物珍しさもあり、ゆっくり旅気分を味わうことに決めた。
「一応、ネットで下調べはしたんだけど、美星町ってどんなところなんだ」
「うーん」架純が顎に手を当てて熟考する。窓に風圧を感じると、深緑の風景が一変し、突然、外は暗闇になった。そんなに難しい質問をした覚えはないのだが、一言では言い表せないということなのか。それとも……。
「わたしを育ててくれたまち、かな」
意表をつかれた。トンネルの雑音を切り裂くような、彼女らしい返答だった。真っ黒な車窓に古里への想いを映す架純。穏やかな表情に、僕が知りたい情報がすべて詰まっていた。詩織は納得の表情を見せ、優しい笑顔に変わった。早く会ってみたい。他人の僕がそう感じるのだから、詩織はなおさらだろう。両親の身勝手な行動で音信不通になり、ご存命かどうかも分からなかった祖父母殿。十七年ぶりの再会がかなうのだ。
多感な時期をまっすぐに育て上げた祖父母殿は、思ってた以上に立派な優しい方で、詩織を温かく迎えてくれた。無言で頭を下げた詩織の手を包み込むと心が通じ合った。
「会いたかったよ。こんな日が来るなんて夢みたいじゃ」
しわがれた声が聞こえると、詩織はおじいさんに抱きついた。二人に寄り添うおばあさんと架純。バスに揺られながら想像していた光景が現実となった。
「ご心配をおかけしました。私はこの通り元気です」
涙声だった。違和感のある敬語が入り混じり、うまく言えてないのが逆に心を打つ。ずっと考えていたセリフはあっただろうに。でも、完ぺきでない詩織の新しい一面を見られて、僕は満足だった。頼もしい姉の姿しか頭にない架純も、もらい泣きしていた。
お二人にとって部外者の僕まで手厚い歓迎を受け恐縮してしまう。山あいのこの町は、高原の澄んだ空気のなかですくすくと育った牛や豚の特産品が多く、コクのある乳製品は人気があるという。夕食には豚肉や地元で採れた新鮮な野菜をふんだんに使った昔ながらの料理がテーブルに並んだ。甘辛く味がしみこんだ筑前煮やよく冷えたナスの焼き物に舌鼓をうつ。最初は遠慮気味だった詩織も、自然と箸が進むようになった。
「冷たくておいしい。歯ごたえも全然違います」
敬語を使うかどうか迷いながら話す詩織。もう一歩を踏み出せないでいる。
「お姉ちゃん、敬語禁止。逆におばあちゃんたちが気を使うじゃない」
見かねた架純がすぐさま割って入ると、詩織は「ごめん」と素直に応じた。横で頷きながら笑いを浮かべる祖母の敏江さん。祖父の孝義さんが「架純の言うとおりじゃ。そんなんじゃったら、わしらも困ってしまうでな」と相槌を打った。硬さが取れた詩織は、徐々にではあるが家族の輪に馴染んでいった。水入らずの夕食に加わらせてもらった僕は、これが本来の姿なのだと思うと妙に安心感が広がった。近所の川で捕れたという鮎の塩焼きは苦味もあって絶品だった。最後に出てきたのは、なんと自家製のヨーグルト。心のこもったおもてなしに、喜びが伝わってきた。
お腹がいっぱいになり、先にお風呂をいただいた僕は、縁側を借りて夜風にあたりながらくつろいでいた。板張りの上には、写真でしか見たことのない陶器の豚から蚊取り線香の煙が漂っている。うちわを扇ぎながら涼んでいると、なぜか懐かしい思い出がよみがえる。こんな体験は初めてなのに、人間の感覚ってつくづく不思議だと思う。のどかな風景を前にして感慨に浸っていると、孝義さんが瓶ビール2本とグラスをお盆に載せてやってきた。詩織と架純は仲良く一緒に入浴中だ。
「氷室くん、どうだね一杯」――「すいません。では遠慮なくいただきます」
数えきれないほどの星がまたたく満天の空を見ながら飲むビールは最高だった。庭では虫たちが美しい音色を奏でる。京都を出るときの残暑が嘘のようだ。
「ここは田舎でなんにもないが、星空だけはきれいじゃろ」
「僕は生まれてからずっと京都住まいなんで、こんな美しい空を見るのは初めてです。満天の星空を観れただけでも、ここに来た甲斐があります」
「そうか、それはよかった。いろいろあったみたいだけど、今回の件は架純から詳しく聞いとるよ。本当にありがとうね」
「いえそんな、僕は何もしていませんよ。あの二人はこうなる運命だったんです」
孝義さんはコップにビールをつぎたし、一気に飲み干すと気分よさそうに空を見上げた。一人息子が不意の事故でなくなり、晩酌の相手が欲しかったのかもしれない、しわが刻まれた満足そうな顔を見たとき、やはり来てよかったと思い直した。
「僕で良ければいつでも来ます。もちろん、お邪魔でなければの話ですけど。畑のお手伝いでもなんでもやりますから、男手がほしかったら声を掛けてください」
厚かましいとは思ったが、つい流れで言ってしまった。お盆の上にはすでに大瓶が4本も転がっている。いつの間にか、線香の火も消えていた。酒は強くないのか、年のせいで弱くなったのか。頬を赤くした孝義さんは突然、大胆な発言をした。
「あんたなら、架純を任せられる。わしも先は長くないからのう」
酔った勢いの本心かそれとも冗談かは計り知れないが、架純の行く末を案じているのは間違いない。これ以上、可愛い孫の苦しむ姿を見たくないのはわかる。台所で洗い物をする敏江さんも、自分たちが元気なうちに孫の幸せな姿を見届けたいはずだ。でも、電話で架純は僕のことをどう説明したのだろうか。今さらながら気になる。いろんなパターンを描いていたら、孝義さんがうとうとしていた。気づいた敏江さんが、枕と掛布団を持ってきて孝義さんを横にした。
「しばらくこのままで寝かせてあげて。こんなに幸せそうな寝顔は久しぶりだから」
敏江さんはウインクして台所へ戻っていった。ひとりで残ったビールを空けていると、騒がしい声が近づいてくる。新幹線ではおとなしかった詩織も、夕食を終えてからは僕が見たことのないようなはじけっぷりだ。この姉妹、いつからそんな間柄になったんだ? 僕に対する風当たりは弱まったが、蚊帳の外では寂しい気もする。
「あれ、おじいちゃんと飲んでたの? きょう初めて会ったのに意気投合したんだ」
「まあそういうこと。気を使って架純が電話で俺のこと売り込んどいてくれたんだろ。おかげでおじいちゃんに『うちの息子にならないか』って言われたよ」
少しからかってやろうと思っただけなのに、架純の顔がホオズキのように真っ赤になり急にモジモジしだした。そこまで露骨にされるとこっちまで恥ずかしくなる。ちらりと詩織の表情を見やると、やはり大人だった。焼きもちなら大歓迎なのに、嫉妬めいた感情の欠片すら見当たらない。
「まあ突っ立てないで二人とも座れよ。俺んちじゃないけど」
おじいちゃんが寝ていても、広い造りの縁側は三人が腰掛けるには十分だった。架純は高校時代を思い出しているのか、足をぶらぶらさせながら遠くを見ている。二人に挟まれた詩織は優しい眼差しで妹を見つめる。そして僕は美人姉妹を交互に眺めながら幸せな気分に浸った。ゆったりと流れる時間。秋の気配を感じさせる風が、姉妹の濡れた髪を揺らしていく。すると突然、架純が空を指さし「流れ星だ」叫んだ。
「流れ星だって叫ぶ前に、願い事をしなくちゃ意味ないだろ」
「以外とロマンチックなんだね。でも心の中でちゃんと唱えたよ」
「なんて願ったの」詩織と言葉が重なった。
「人に言ったら願いが叶わないんだよ。……でもお姉ちゃんにだけは教えてあげる」
架純は手を添えて詩織に耳打ちした。詩織はニコッと微笑み、架純の肩をそっと抱いた。またも僕は仲間外れにされたが、仲睦まじい姉妹にはかなわない。失われた貴重な時間を取り戻してくれることを切に願う。ふたりの女性を同時に愛することができないのは承知している。だから、今の関係が心地よく感じるのかもしれない。しかし、その小さな切望が、のちに大きく崩れ去っていくことなど僕には知る由もなかった。




