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交叉

 「物事に介入したからには、最後まで行うのがスジってものじゃないのかね?」

 体のダメージを確かめるように、ゆっくりとした動作でもやし男が立ち上がる。

 長い髪をしているが、いわゆる「おしゃれ」で髪を伸ばしているのではなく、単なる蓬髪だ。

 背は高い方ではない。170センチあるかないかというところ。

 肩から斜交いにキャンバス地のカバンをかけている。

 黒縁のメガネをしているが、それもなんだか昭和っぽいやぼったさだ。意外と鼻筋は通っているが、鼻と唇の間が広いので台無しになっている。猿を真似したような顔つきになってしまうのだ。

 年齢は、おそらく俺と同じか、ちょっと上くらいか?

 「まぁいい。結果的に助けてもらったのだから、礼を言わねばなるまい。ありがとう」

 喋り方が変だが、それよりも俺の注意を引いたのが目だ。

 メガネのレンズ越しに見るそれは、どこか昏いのだ。秘密を抱えた目。何か鬱屈を抱えた目。ぐつぐつとしたマグマの様な激しい怒りを抱え込んだ目。そんな目をこのもやし男はしているのだった。

 穏やかだった大東さんが、時折こんな目をしていたのを俺は知っている。例えば、俺が彼の故郷を訊ねた時なんか、そうだった。身近なところでは、俺の雇い主である国分店長がそんな目をしているだろうか。

 それに、俺を見た時に、一瞬だけ走った男の動揺。それも、妙にひっかかる。

 「俺が勝手にやったことだ。礼を言われる筋合いじゃねぇ」

 俺は、この場を早いところ去りたくて、ぶっきらぼうにそう答えた。たいがいの奴はそれで怯むのだが、この男は鈍いのか、それとも図太いのか全く意に介していない。

 男は、体についた土埃を手ではたいて落しながら、

 「いや、君は大きく迂回することができたのに、あえてここに来た。それは、私と君に『縁』が出来たということなのだよ」

 などとほざいている。俺はどうも理屈っぽい男が苦手だ。『えにし』って何だ?

 「つまり、どういうことよ」

 俺は、思わず聞き返してしまった。無視して帰ればよかったのだが、なんとなく放っておけない気分になるのは、俺にとって恩人であり、裏切り者でもある大東さんの影をこの男に見たからかもしれない。

 「1日だけ、私を匿ってほしい」

 俺が『なに言ってやがる』と言うより前に、男はさっと手を差し出した。

 「私の名前は佐藤一郎。ジャーナリストだ」

 俺は、反射的に差し出された手を握っていた。

 「俺は、田中太郎。バーで用心棒をやっている」

 なんで握手して自己紹介しているのか。自分でもよくわからないまま、俺はそうしていたのだった。


 うやむやのうち、結局俺はこいつを家に連れてくることになってしまった。見ず知らずの輩なら連れてくる義理はないけど、握手して自己紹介を互いにしたなら、もう「知り合い」ということでいいか。そう思ったのだろうか。

 俺の部屋には極端に物がない。飲み物を冷やすだけの小型の冷蔵庫が一つ。本棚が一つ。それだけだ。本棚には、ベトナム語、タイ語、インドネシア語といった東南アジアの会話集があるだけだ。

 大東さんに商いのノウハウを教わり、独立して店を持つ。この本たちは、そんな俺の夢の残滓。

 捨てないでそのままとってあるのは未練というものか。もう、暫く手に取っていないのだが、捨てる決断がつかない。

 「何もないとこだなぁ」

 佐藤という自称ジャーナリストは、本当に遠慮なく俺の部屋に入ってきて、不躾に内部を見渡す。

 「あんた、歓迎されているわけじゃないんだぜ。文句あるなら出ていけ」

 そういって、俺は冷蔵庫の中からミネラルウォーターのペットボトルを出して、佐藤に投げてやった。佐藤は、ろくにこっちを見ずにそれでもペットボトルは正確にキャッチする。運動神経は悪くないようだった。

 「いやいやいや、屋根があれば上等、上等」

 そういって佐藤はミネラルウォーターを一気飲みして、大きなげっぷを一つもらすと、キャンバス地のバッグを枕に、ごろりと横になってしまった。

 「疲れたし、体中が痛くてたまらん。少し、休ませてもらうよ」

 そう言った5秒後にはもういびきをかいていやがった。

 俺は他人のいびきを聞くと眠れない性質だ。今日は本格的に、眠るのを諦めた方がよさそうだ。

 窓をあける。2階の俺の部屋から、目の前の私道が見える。空はだいぶ明るくなっていて、朝早く家を出るサラリーマンやOLが、駅の方向に向かって歩く姿を散見できる。

 あと1時間もすれば、通学の学生がそれに混じってわいわいと騒ぎながら、この道を通るはずだ。繰り返される町の騒音。それを聞きながら窓辺にもたれていると、俺はいつも、いい気になって不良をぶちのめしていたあの頃を思い出す。

 トレーナーだった爺さんは、闘病生活の末に3年ほど前に死んだ。

 ガンだったらしい。彼はガンに侵されていることを知っていて、それが治療不可能な段階であることも知っていて、だからこそ自分に残された時間を、若手の育成に注ぎたかったのだろう。

 俺がそれを奪ってしまった。葬式に俺は行かなかった。どの面を下げていけばいいのかわからなかったから。

 でも、勇気を出して白い目に晒されるべきだったし、遺影に詫びるべきだったと今では後悔している。

 ボクシング部の先輩や仲間だった奴らは、就職したり進学したりして、それぞれの人生を歩んでいるらしい。もし、国体に出られれば、プロの道に進んだ者が出たかもしれない。

 大学から特待生としてスカウトされていた者もいたかもしれない。俺は俺の「傲慢」さゆえに、彼らの可能性や選択肢を潰してしまったことになる。

そういった事柄たちが、癒えない傷の様にいつまでも俺の胸に痛みを送り込んでくる。

 手を見た。大きな分厚い手だった。「頑丈で重くて良い拳だ」トレーナーの爺さんはそんな事を言って嬉しそうに笑っていたっけ。その拳は、今やクズやゴミを小突きまわすための単なる道具になりさがってしまった。

 本当はリングで戦う気高い拳だったのに。

 栄光を掴むための拳であったのに。

 「疲れた」

 せっかくの休みに何もすることがない。疲労感だけが、毎日、毎日、澱の様に静かに俺の中に降り積んでゆく。

 人はこうして少しずつ腐ってゆき、いつかぼとりと地面に落ちて潰れてしまうのだろう。多分俺の顔は今、国分店長の様に疲れ切って生気のない顔をしているだろう。だから、鏡は極力見ない。

 そこに絶望を見てしまうのが怖い。

 居場所が無いなら出てしまえばいい。そう思って、実家を出た。蓄えを切り崩してこの部屋を契約し、敷金と礼金を払った。

 ここが俺の居場所になるはずだったのに、

 「ここではないどこかに本当の俺の居場所があるのではないか?」

 という強迫観念から抜け出すことが出来ない。

 クズやうすらバカ相手とはいえ、仕事をしている間はそんなことは考えない。その余裕がない。

 辛いのは、今日の様に何もしなくていい日に眠れない時だ。

 語学の本をパラパラとめくる。内容は何も俺の頭に入ってこない。意欲がすっぽりと抜け落ちてしまっていた。そのくせ、本を捨てられない。

 あの時、こうしていれば……そんなことばかりを考えながら、覚醒と睡眠の中間を漂い、時間だけが経過してゆく。

 食欲は湧かなかった。俺は酒も飲まないし、小さな商いを6年も続けていたので金の大切さを知ってしまい、パチンコなどの不毛なギャンブルはバカバカしすぎて出来ない。

 だから、こうして癒えない傷をうじうじと弄りながら、座っているしかないのだ。

 睡眠が救いであることを、わかってくれただろうか? 

 ならば、邪魔されて怒ったことも大目に見てほしいものだ。


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