邂逅
気を取り直し、改めて眼を閉じて、睡魔の襲来を待つ。
俺の睡魔はえらく気難しくて、ちょっとの変化ですぐにどこかへ消えてしまう。だが、睡魔を邪魔する闘争の気配は止むことがなく、暴力に酔い興奮した気配が漂いはじめていた。
楽しみにしていた、睡眠はあきらめないといけないことになりそうだ。思わずため息が出た。
俺は疲れていて、機嫌が悪い。そう、八つ当たりも辞さないほどに。
ベンチから立ち上がる。2人の男が、滑り台の近くで誰かを蹴りまわしているのが見えた。蹴っている2人はいかにも暴力に慣れた感じに見えた。
蹴られているのは、汚らしい長髪のひょろっとした痩せぎすな男で、頭を抱えて地面を転げまわっている。
俺が感心したのは、殴られているもやし野郎が、転げまわることで急所を蹴られるのを的確に避けていること。股間と腹部は体をくの字に曲げて膝と足でガードし、頭部は手で守っている。脇を締めているので、脆い肋骨は肘と上腕でカバーしている形になっていた。
2人の男がだいぶ痛めつけているように見えるが、蹴られている男は、見た目ほど深刻なダメージを受けていないはずだ。
座ったままで硬くなった筋肉をほぐすため、俺はストレッチをして、それから滑り台に近づいた。蹴られている男を助けるとか、そんな行動のためではない。ただ単に、そっちが俺の家への近道だったからに過ぎない。
2人の男が蹴るのをやめて俺を見る。彼らの頬の肉がびくびくと痙攣していた。アドレナリンが放出されて、興奮状態にあるのだろう。蹴られているもやし男も俺を見た。
彼は、一瞬だけ驚いたような表情をしたが、ほろ苦い笑みに感情の漣を隠してしまった。それが、なんとなく俺を落ち着かなくさせる。国分店長や、大東さんを連想させるからだろうか。
「この野郎、何ニヤついていやがんだ」
俺は、自嘲の笑みを浮かべてしまったらしい。未だに民芸店での日々に未練があるのが情けなかった。それは、思いつく限り、最悪の状態で終わってしまったというのに……。
それを加害者側の2人が見咎めてしまった。
「俺の事は、気にするな。面倒臭ぇから絡むんじゃねぇよ」
俺はそう答えたが、言葉に含んだ棘は隠さなかった。
こいつらのせいで、久しぶりに眠れそうだったのを引き戻されてしまったのだから。それに、こんな明け方にいかにもひ弱そうなもやし野郎を蹴りまわす奴らなどロクな奴らじゃない。
「でけぇ口たたくじゃねぇか」
「なめたマネしてんじゃねぇぞ」
巻き舌で、2人がいきがる。改めて見ると、こいつらは若い。二十歳そこそこだろう。ケンカを繰り返していた6年前の俺はこんなだったのだろうかと思うと、恥ずかしさのあまり叫んじまいそうだ。
「はい、はい。怖い、怖い。それじゃ、俺はこれで帰るぜ」
歩き出した俺の前を遮るようにして、蹴っていた2人のうちの1人が俺の邪魔をする。俺が怯んだと思ってかさにかかっているのだ。躾の出来ていない犬ころは、逃げる者をみるとキャンキャン吠えて追いかけるだろ?こいつらは、それと同じ習性だと思えばいい。
要するに、馬鹿なのだ。
「絡むなって、警告したぜ」
立ち止まって言う。こいつを避けて通ればいいのだが、俺は機嫌が悪くてイラついていたから、少々凶暴な気分になっていた。何でこの馬鹿のために、俺がわざわざ歩くルートを変えなければならない?
「いきがってんじゃねぇぞ」
俺の目の前の男が、いきなり俺のボディに拳を叩き込んできた。初動の動作がみえみえだったし、避けるのも面倒くさいので、俺は腹筋に力をこめただけだった。砂の入ったボールを腹の上に落とし、ボディブローに耐える訓練をしていた頃と比べれば、防御力は落ちているだろうけど、素人のパンチを跳ね返す程度の腹筋は残っている。
「先に手を出したの、お前だからな。こいつは、正当防衛ってやつだ」
俺は、お返しにアッパー気味のボディブローを打つ。
それだけで、そいつは生まれたての小鹿みたいになって、内股になった足を震わせてげぇげぇとえずいた。
「この野郎」
もう一人が、ポケットからバタフライ・ナイフを取り出す。普段からカチャカチャと振り回して遊んでいるのだろう。なかなかさまになった動作だがそこまでだった。
いつもならはナイフを見ただけで相手は戦意喪失というパターンらしい。
だが、俺相手にそれはない。「で? どうすんの?」という感じだ。
そいつは、ナイフを見せたのはいいが、どうしていいか分からないようだった。振ったり、刺したりする度胸は無いらしい。俺は、一歩踏み込んで、左のジャブを放つ。
思い切りスピードの乗った本気の一撃だ。俺は素手の相手にナイフをちらつかせる男に手加減できるほど、人間が出来ていない。
多分相手は俺が何をしたのか、見えていない。しかし、額に衝撃を感じて、強制的に上を向いたことだけは分かったはずだ。
俺は素早く引き戻した左手でショートフックを、そいつの上向いた顎に当てた。こんなこと、ボクシングの試合なら狙って出来るものじゃないが、素人相手なら出来る。顎をある角度で衝撃を加えると、脳がゆすられて平衡感覚が正常に働かなくなるのだ。
そいつはナイフを取り落として、糸が切れた操り人形のようにストンと腰を落とした。丁度いい高さになったそいつの顔に俺は靴底を押し当てて、そのまま踏み抜いてやった。
俺は身長182センチ、体重は75キロある。試合の時は、69キロまで体重を落としてライト・ウエルター級で出場していたのだが、ウエイトコントロールしないとだいたい75キロ前後で落ち着く。その75キロの体重がかかった靴底とアスファルトの地面に挟まれ、そいつの後頭部と鼻が鈍い音を立てた。
白目をむいてやがるが、まぁ死んでいないだろう。鼻血がすごいので、鼻骨は折れたかもしれない。
俺は、相変わらず生まれたての小鹿の様な足取りで、よろよろと逃げようとしているもう一人の男をつかまえて、引きずり立たせた。そいつは、何かを言おうとしたが、何も聞きたくないのでもう一度ボディブローを叩き込む。何を言いたかったのか知らないが、そいつの口からは、潰れたカエルの鳴き声に似た音がもれただけだった。
「俺はこれで立ち去るが、お前はあそこで倒れている馬鹿を介抱して帰れ。お前ひとりで逃げるなんて、冷てぇじゃねぇか」
そういって、もう一度ボディを打つ。そいつはげぇげぇと吐き、四つん這いになった。俺はもう一度そいつを引きずり起こして、またボディを打った。
「わかったのか?」
俺はそう念押しして、またボディを打つ。
可哀想に、今日のこの男の小便は血の色だ。
男は、声が出せないかわりにガクガクと頷いて、涙の浮いた目を俺に向けてくる。
久しぶりに拳を振るった昂揚感は、すぐに消えてしまった。「弱い者イジメをしてしまった……」そんな後味悪い気分が残る。
「くそ」
俺はもう一度そいつのボディを打った。そいつは失禁していた。匂いからすると、大便も小便も垂れ流している。くせぇし、汚ぇし、興醒めだ。
舌打ちしてそいつを蹴り飛ばす。
まるで、水と間違えて酢でも飲んじまった気分だった。
俺がやったことは、完全に過剰防衛。犯罪だ。俺は早々に退散することにした。
睡眠は、今日はあきらめることにする。店の勤務は明日までOFFなので、ゆっくり眠るチャンスだったのだが、とんだ災難だ。
「待ちたまえ、君」
公園を出ようとした俺に声をかけてきたのは、失神男と失禁男に蹴りまわされていた人物だった。