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泥濘

 幸いなことに、俺に前科はつかなかったが、しつこいほど念入りな取り調べを受けた。

 どうしても取り調べをしたい相手がいるとき、警察が使う手法に「転び公妨」というのがある。

 これは、警察官が暴行を受けた風を装って、公務執行妨害で標的を確保するやりかたで、俺はそれを仕掛けられたのだと、後になってわかった。

 そんな手の込んだことをしたのは、大東さんを捕まえるため。動いていたのは、公安の外事二課。大東さんには中国共産党のスパイ容疑がかけられていたのだそうだ。

 大東さんは、公安の手が自分に伸びているのを察知し、俺にも告げずにいきなり姿を消したらしい。焦った警察は、俺と大東さんの店に手がかりが残っているのを期待して、家宅捜索に踏み切ったというわけだ。

 俺が何も知らない「雇われ店長」だとわかると、警察は俺に急に興味を無くし、公務執行妨害は取り下げられ、2日間の拘留で蹴り出されるようにして釈放された。身元引受人になったのは俺の父親だった。

 俺が釈放される日、俺の父親は無言で警察の差し出した書類にサインし、無言で頭を下げていた。俺とは一言も話さなかった。俺を見る事すらしなかった。

 「あの……」

 事の経緯を話そうとする俺を、父親は身振りで止めた。

 そして、頭痛がするのか、こめかみを指で揉む。ため息が、彼の口から洩れた。

 「君が、どんな目にあったか、その経緯は何か、私には興味がない。考えるのも面倒くさいし、下げたくもない頭をクソ馬鹿の上司に下げて会社を早退して、警察に君を引き取りに行くのも、嫌で、嫌で、嫌で、嫌で仕方がない。出来れば、私に迷惑をかけるのだけはやめてくれないか」

 俺の父親は、俺が暴力事件を起こしたことで、会社のエリートコースから外れてしまった。有名な商社の課長だったのに、その子会社よりさらに遠い孫会社の経理担当に異動になり、そこは事実上の窓際ポストで、彼は鬱屈を貯めていたのだと思う。

 一万円札が、数枚、俺の目の前に突き出された。俺がそれをぼんやり見ていると、俺の父親は苛立たし気に俺にそれを握らせた。

 「母さんがヒステリーを起こしている。しばらくは、お前は家に帰るな」

 そう言い捨てて、彼は街の中に消えた。

 俺は、一万円札を握りしめて、雑踏の中に立ち尽くしていていた。


 帰巣本能の様に、俺は繁華街に戻っていた。

 ひょっとしたら、大東さんに会えるかもしれない。

 そんなことを俺は、無意識に想っていたようだ。

 不思議と大東さんを恨む気持ちは沸かなかった。俺を一人の大人として扱ってくれたのは大東さんだけだったし、何処にも……家族の中にすら……居場所が無い俺に、居場所を与えてくれたのも彼だけだった。

 商いのノウハウを教えてもらって、自分の店を出すなんて夢も俺には抱くことができた6年間だった。

 それも、突然終わってしまい、俺は途方にくれていた。俺はなぜか父親にもらった金で、クリームパンを買い、それを食べていた。

 クリームパンは好きでも嫌いでもない。むしろ、甘い菓子パンはあえて買うことはない。なのに、なんでクリームパンなのか考えると、俺の心はギザギザに傷ついていて、何か優しいものに触れたかったのではないかと思う。

 6年前なら荒れて、ケンカでもしていたかもしれない。だが、俺は大東さんとの6年間で社会の荒波にもまれた。

 年齢も25歳になり、漠然と将来について考えるようになってもいた。だから、今更「無頼の徒」に戻るなど出来ない。

 何処にも居場所がない。家にも帰る場所がない。駅前の広場には、家路を急ぐサラリーマンが疲れた体を引きずって歩いていた。バーや居酒屋の呼び込みが、道行く人々に声をかけていた。ぴらぴらした服に着飾った女が、やにさがった男の腕にぶら下がるようにして甘えているのは、おそらくキャバクラかなんかの同伴出勤だろう。

 そんな様子を俺は呆けた様に、ただ眺めていた。

 「あれ?たーくんじゃない?」

 クリームパンを持ったまま、茫然と駅前広場のベンチで座っていた俺に声をかけてきたのは、大東さんの店の常連客だった女性だった。その人のフルネームは知らないけど、大東さんはその女性を「サチコさん」と呼んでいた。

 俺とも当然顔見知りで、俺は彼女の事を「サチ姉」と呼び、彼女は俺の事を「たーくん」と、あだ名で呼ぶ程度には親しい間柄だった。

 「こんなとこで何してるの?」

 店に来るときは、地味な装いのサチ姉だったが、今日は見違えるほど着飾っていた。サチ姉が俺の隣に座る。香水の匂いがふわりと漂った。

 俺は、この2日間にあったことを、ポツリポツリと話した。

 「何それ、ウケるぅ」

 俺にとって、深刻な事態を、サチ姉は笑い飛ばした。

 しかし、よく考えたら、務めていた店が『スパイ容疑』でガサ入れにあって、警官をぶん殴って公務執行妨害で逮捕されるなんて、一生のうちそれほど経験できる事柄ではない。

 「え、何? 何? 臭い飯食べたの?」

 屈託なく、サチ姉が質問してくる。俺は、問われるままに、俺が体験した事をサチ姉に話していた。

 最初は、なんて無神経な女だと呆れていたが、彼女と話しているうちになんだか落ち込んでいるのがバカバカしくなってきたのも事実だった。

 「じゃあさ、たーくんさ、仕事にあぶれちゃったなら、うちが仕事紹介しよっか? うちの客に『ガタイのいい男いないかなぁ』って、頼まれているんだよね」

 俺の話に大笑いして、目尻にたまった涙を指で拭いながら、サチ姉が言った。俺にとって2度目の転機がそれだった。


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