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流転

 大東さんは、俺から見ると父親ほどの年代で、体はそう大きくもなく、筋肉が張りつめている風でもない。つまり、見た目は普通の中年男性。俺は、不良を殴ったことはあったけど、無意識に自分なりの一定の「線引き」をしていたのか、一般市民を殴ったことがなかった。

 だけどその日、俺は何時にも増して凶暴な気分だったようだ。何も考えなしに、大東さんの方に踏み出し、ジャブを放っていた。もちろん、手加減はしていた。おせっかいな中年のおっさんを追い払うために、ちょっと脅かしてやるのが目的なのだから。

 その瞬間、俺の体はふわっと浮いて、背中から地面に叩き付けられていた。受け身なんかとる余裕はなかった。辛うじて、右手で後頭部を守ることが出来たくらいだ。

 「乱暴だなぁ」

 大東さんはそういって笑っていた。俺は飛び起きると思い切りスピードを乗せたジャブを放っていた。超高校級と言われた、左のジャブだ。

 大東さんは、半円を描くような足さばきで俺から距離をとり、俺の左ジャブを簡単に殺してしまう。

 俺は更に踏み込んで、左ジャブ、右ボディ、左フックと、得意のコンビネーションを叩き込んだ。それでも、距離をとられてしまう。そのくせ、大東さんは陽炎のように俺の懐に入ってきて、ポンと掌底で俺を叩くのだ。

 軽くタッチするだけなのだが、正確に打たれれば悶絶する急所に触れてくる。大東さんが本気で打ってきたら、俺は何度ダウンしたことだろう。

 俺は、汗みずくになり、拳を振り続けた。

 もう、トレーニングなんかしていないので、すぐに息が上がり、足がもつれた。

 そして、俺は泣いていた。泣きながら手を振り回していた。もう、パンチなんかじゃない。駄々をこねた幼児の様に手を振り回しているだけ。

 屈辱だった。殴るしか能がない俺が、それすらも出来ないのか? そんな思いが、後悔と鬱屈と渾然一体となって、ほとばしっていたのだと思う。

 もうフックとは呼べない大振りな横薙ぎの一撃を、大東さんはひょいと掻い潜って俺に肉薄した。また叩かれると思って、俺は体を強張らせたが、泣き疲れた子供をあやすように、大東さんは手を俺の頭の上に載せてこう言っただけだった。

 「もういい。男が泣くなバカ」

 後で知った事だが、大東さんは「華嶽希夷門心意六合八法拳」という長い名前の拳法の師範で、うさんくさい自称中国拳法の達人なんかと違って、本物の達人だった。俺は、それを身を以て知った。

 知り合いの格闘技マニアの奴に聞いたところ、中国では秘拳と呼ばれているそうで、その伝承者の一人と遭遇出来たのはすごく幸運なことだったらしい。

 拳法漫画じゃあるまいし、これで俺が大東さんに弟子入りしたとかそういう話ではない。

 ある日、大東さんがふっつりと行方をくらませてしまうまで、大東さんの本職である、アジアの民芸品の輸入雑貨店を俺が手伝うきっかけがそれだという話。

 俺は、大東さんに懐いた。大東さんは「華嶽希夷門心意六合八法拳」の師範だったけれど、それを人に伝授することは考えておらず、俺にも稽古をつけることはなかった。

 俺も、大東さんにそれをねだることはしなかった。

 大東さんは、アジアを中心とした民芸品や雑貨を扱う店をやっていて、各地を飛び回って買い付けを行っていた。

 その間、店は休みとなるのだが、俺が雇われることによって、仕入れ旅行中でも店を開くことが出来、大東さんは「助かる」と言ってくれた。

 俺は、人に感謝されるのがうれしくて、店を切り盛りした。

 商売の基本は、大東さんに教わったし、コツはすぐに飲みこんだ。

 それに、接客は苦にならなかった。俺でもこんな声が出るのかと思えるほど、愛想のいい声が自然と出ていた。

 俺は17歳で高校を中退し、荒んだ生活を約2年続け、大東さんと出会ったのが19歳。それから、真面目に大東さんの店で働き、一番まっとうな時期を過ごした気がする。

 仕事について、親も安心したのか、あからさまに俺を邪魔者にしなくなった。給料は決して高くなかったが俺は無駄遣いせず、僅かだが貯金も出来た。全てがよくなるように感じた6年間だった。

 しかし、それは、突然前触れもなく終わりを告げたのだった。


 その日、俺は愛着がわいてきた店のシャッターを開け、店の前を掃除していた。ショーウインドを磨き、展示してある商品を整え、エスニックな雰囲気を出すためにお香を焚く。BGMはインドの民族音楽。店のマスコットであるガネーシャの像を磨いて店の外に出した。

 ここまでは、いつもと同じ。だが、その日はこれからが驚きの連続だった。

 店の前は、道路を挟んで中規模なマンションがあるのだけど、そこの来客用駐車場に白いバンが停まっていて、そこからゾロゾロとスーツ姿の男が出てきたのだ。見れば、道の左右からもスーツ姿の男が一塊になって歩いていた。

 あきらかに、この店を目指しているように見える。俺は、何をしていいのかわからず、ただ茫然と立っているしかできなかったと思う。

 「君、田中太郎君だよね? 今からこの店、家宅捜索に入るから。これ、捜査令状ね」

 何やら難しい文字が並んでいる書類を見せられたが、俺はこの時まだ状況を理解出来ていなかった。

 「5月9日、午前9時8分、家宅捜索に入ります。田中君はこっち来て。何も触っちゃだめだよ。色々お話聞きたいからさ、おじさんたちときてくれるかな?」

 いつの間にか店にトラックが横付けされ、段ボール箱が次々と組み立てられて、せっかくディスプレイした商品がそこに詰め込まれていく。

 写真を撮る者もいた。起動させたばかりのノートパソコンも乱暴に電源が切られて、持ち去られてゆく。

 誰かが、マスコットのガネーシャ像を段ボールに詰め込んだのを見たとき、ショック状態だった俺は、はっと我に返った。

 「おいおいおいおいまて! お前ら、何やってんだ!」

 店に戻ろうとする俺を、若い私服警官が乱暴に押さえる。そいつの口元には薄い笑みが浮かんでいて、俺を軽蔑するような嫌な目つきで見ていやがった。

 それで、久しぶりに俺の頭にカッと血が昇ってしまった。

 瞬間的に手が出ていた。

 身についた、左のジャブ。

 若い警官の顔にもろに当たる。

 若い私服警官の薄笑いが消えて、苦痛にゆがんだのを見「ざまぁみろ」と思う間もなく、別の警官に両足を抱え込むようにしてタックルされた。柔道で言う『諸手刈り』っていうやつだ。

 俺は、地面に転がされた。背中が痛かったのを覚えている。どさくさまぎれに、殴られた若い警官が膝を俺に落としてきたことも、鮮明に思い出せる。そいつは、鼻血を出していやがった。

 「公務執行妨害! 確保! 確保!」

 誰かが叫んでいた。腕を捩じり上げられたが、俺は抵抗しなかった。

 「ワッパかけろ! ワッパ」

 その日、俺は生まれて初めて手錠をかけられた。その時はわからなかったが、『ワッパ』とは手錠の事。

 俺がそれに気が付いたのは留置所の中でだった。


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