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幻影

 「木村氏の内縁の妻、新井昌子さんだけど、東京からわざわざこっちに引っ越してきているんだよね」

 綺麗に盛り付けられた料理を愛でることもせず、適当につまんでは口に放り込むような食べ方をしながら、佐藤が言う。料理人が見たら、泣きたくなっちまいそうな食べ方だ。

 「木村氏との面会の利便性を考えて、大阪医療刑務所の近くに来たと考えるのが妥当だろうね。蓼食う虫も……というけれど、DV被害も受けていた様子なのに、男女の間の機微は理解しがたいよ」

 上品なお吸い物の蓋をどけて、それをぞぶりと飲み、佐藤がため息をついた。料理を賞してではない。明日会う予定の新井という女の不可解さを思ってのことだ。

 多分お吸い物を塩水と交換しても佐藤は気が付かないだろう。

 「で、どうするんだ?」

 佐藤よりは味わう努力をしながら、方針を訊ねる。俺の貧乏な舌では、全ての料理の味が薄いとしか思えないのが情けない。「醤油をどっぷりつけたい」というのが、感想を求められた場合の俺の答えだ。

 「あの、アパートを見たかい?古くて手入れもされていないから、家賃は安いだろうね。つまり、新井さんはお金に困っている」

 それは見ていてわかった。階段は錆ていたし、スレート葺きの廊下の屋根は所々が破けていた。そして、清掃も入っておらずゴミだらけだった。

 「木村氏は派手好きで金遣いも荒かったから、貯蓄なんかないだろうし。そもそも将来に向けて蓄えるような人間並みの知能はなかっただろうしね。それで、結局、やることと言えば盗難車で暴走だなんて、頭が悪いにも程があるよ」

 佐藤が例のカエルじみたけくけくという笑い声をもらす。

 「金に困っている人には金を差し出す。馬鹿は煽てて気持ち良くさせる。これが取材の基本だよ、田中君」

 丁寧に面取りされ、お上品なダシで煮込まれた里芋を、佐藤は箸でぐさりと刺して持ち上げる。そして大口をあけてそれを一口で食べてしまった。笑顔でそれを咀嚼する佐藤の目には、あの昏い光が宿っていた。


 俺は早朝に目覚めた。バッド・カンパニーでの仕事を辞めてから、悩まされ続けていた睡眠障害は無くなり、眠りは規則正しくそして深くなった。

 ただし、年寄のように決まって早朝に目が覚め、体を動かしたくなってしまう。今朝もそうだった。

 俺は、着替えの中からTシャツとスエットのズボンを取り出し、ホテルのハンドタオルを首にかけて外に出た。軽くジョギングをする予定だった。

 ホテルは眠らないので誰かしらフロントにおり、鍵を預けるさいに「いってらっしゃいませ」と言われるのが、煩わしい。

 中之島を一周する。上流側はちょっとした公園になっていて、走っていると気持ちがいい。公園でシャドーをする。多少であるが、体のキレは戻ってきているような気がした。まぁ全盛期とは比べものにならないが。俺は伸び盛りの時期をドブにすてた馬鹿者だ。

 バッド・カンパニーに勤務していた頃は、体を動かすのも億劫だった。あの頃は心が萎えていて、それが肉体を蝕んでいた。

 今はどうなのか? 佐藤についていくのは面白い。刺激がある。金も稼げる。だが、闇の住民相手とはいえどっぷり非合法だし、なんであんな綱渡り野郎と行動を共にしているのか、わからない。

 『俺は何をしたいのか?』

 体を苛めていると、そのことばかりを自問している。

 ずっと佐藤と仕事を続けていくのは、何か違う。「長続きするまい」そんな予感があった。

 国分はバッド・カンパニーに戻ってこいと言っていたが、それは嫌だ。

 外国に行く。そのことに、ぼんやりとした憧れがある。エキゾチックな民芸品を扱う店を切り盛りしていた6年間は、俺のロクでもない25年間のうちで最もまともな期間だったかもしれない。

 民芸品を求めて、外国の市場を旅するのはきっと俺に新しい刺激を与えてくれるだろうなと夢想していた。結局、逮捕されるという最悪な結末だったけど、俺にとっては充実した6年だった。

 何も言わずに去って行った大東さんの事が、のどに刺さった魚の骨ようにずっと俺の心に引っ掛かっている。俺は馬鹿なのでそれを清算しないと次の一歩を踏み出せない。一度に一つの事しか片付けられないのだ。

 佐藤は大東さんと同じ目をしている。鬱屈を抑え込んだ、昏い目だ。俺は佐藤と行動を共にすることによって、大東さんの秘密の一端を解こうとしているのだろうか?

 果たしてそれが、俺の行動をプッシュする解答なのかどうかは、今は分からない。

 とにかく、俺の気が済むまで佐藤に付き合う。そう決めた。俺が俺に課したルールがそれならば、それを守る。

 走りながらパンチを出す。体はブレない。いいコンディションだ。得体の知れない影がもやもやと俺の前に形を成す。それは、俺を見殺しにした俺の父親のようでもあり、世の中に倦んだ国分の様でもあり、危険な捕食者である徳山のようでもあった。

 一歩踏み込んでストレートを打つ。影を打ち抜く。俺の噛みしめた歯の間から空気が漏れて、機関車が蒸気を噴射したみたいな音が漏れた。

 渾身の一撃。全盛期の頃に近いパンチが出せた。俺の目の前に現れた影が揺らめいて消える。俺の拳に吹き払われたかのように。

 その影は、俺の『迷い』そのもだったのかも知れなかった。


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