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蛆虫

 俺が店に入って十分程経った頃、くたびれた背広とくたびれたコートとくたびれた顔の中年の男が、無言のまま佐藤の席に座った。俺は後ろを振り返ることなく、窓ガラスに映るその姿を確認していた。

 男は背広の胸ポケットからタバコを取り出して、安っぽい100円ライターで火をつける。俺はタバコを吸わない。ボクサーだった頃の習慣だ。

 だが、いがらっぽい匂いでその銘柄がわかった。ハイライトだ。そのタバコは、大東さんが好きでよく吸っていたタバコだった。

 「叶から上手くせしめたらしいな」

 男がくわえタバコのまま言う。血色の悪い唇の動きに合わせ、火のついたタバコがタクトの様に上下に振られた。灰が、彼奴の膝の上に落ちたが、気にしている様子は無い。

 声は、肺病を患っているかのような、ぜいぜいした声だった。

 「まあまあでしたね」

 言葉短かに佐藤が答える。俺の耳には、佐藤の声にわずかに軽蔑の響きがある様に思えた。彼は、目の前の男を嫌っている。そしてそれを隠していない。しかし、目の前のくたびれた男はそれを意に介していない様子だった。

 無言のまま、佐藤が銀行の封筒をテーブルの上に載せる。男は、灰皿にタバコを押し付けて消し、そのついでといった自然な態度で封筒を取る。

 封筒の中身を確認すると、無表情だった男の顔に笑みが浮かんだ。爬虫類がむりやり笑みを浮かべるとこんな笑顔だろうなと思わせる、けったクソの悪い笑顔だった。

 「多いじゃねぇか」

 新たにタバコに火をつけながらぜいぜいした声で言う。

 「叶君のとこの若いのが手柄を焦って、私を尾行しましてね。振り切ったつもりでいたんですが、捕まってしまったわけです。たまたま通りかかった人に助けてもらったのですが、命拾いしましたよ。それで、叶君にはちょっとペナルティを課したというわけです。治療費だって、私の様なフリーランサーは馬鹿にならないですからね」

 くたびれた中年の男が咳の発作を起こした。ポケットから汚いハンカチを出して、そこに痰を吐く。

 「あんまり、笑わせるな。それにしても、叶の野郎は若いのを押さえられなくなってきたのか。そろそろあそこも見切り時かね」

 あれは、咳の発作ではなく、笑い声だったらしい。いつも痰が絡んだような声なので、こっちまで咳払いをしたくなっちまう。

 「で、次のネタを仕入れたいのですが……」

 つかれた中年男の前に、ウエイトレスがいちごパフェを置く。

 彼は揉み手をして、パフェ用の細長いスプーンを手に取る。似合わな過ぎて醜悪ですらある姿だった。

 「いちごは良い。俺はいちごが大好きだ」

 そう言って、誇らし気にパフェの頂点に立っているひときわ大きないちごを慎重な手つきで掬い上げ、口に運んでいる。

 鼻毛の出た団子鼻をひくつかせ、無精ひげに覆われた顎を突き出して、うっとりと目を閉じている。

 俺は、佐藤の嫌悪の意味が何となく分かるような気がした。こいつは、いちいち挙動が気色わるいのだ。

 佐藤は男をせかさなかった。中年男も、明らかに佐藤を嫌っていて、わざと佐藤を焦らすような行動をとっているのが分かる。だから、佐藤は「どうでもいい」という態度をとっているのだろう。

 つかれた中年男は、佐藤を待たせたまま、時間をかけてパフェを堪能していた。最後に大きなげっぷをしたのは、最後の嫌がらせか。

 佐藤は薄ら笑いで、それに応じている。

 「あ、これね」

 男は、背広の内ポケットから、折りたたんだ大判の封筒をテーブルの上に投げ出す。まるで、犬に餌を投げてやるような仕草だった。

 佐藤は、ずずず……と音を立ててアイスコーヒーを啜り、

 「こりゃどうも」

 と、頭を下げる。投げ出された封筒に、佐藤は手を伸ばさなかった。それが不満だったのか、中年男の顔に隠していた佐藤への侮蔑の表情が浮かぶ。

 「この、ハイエナ野郎が……」

 と、吐き出すように言い、席を立ち店を出て行った。

 そうするだろうなと思っていたが、もちろんパフェ代金は置いて行かない。たかるのが習性になっているようだ。

 「誰だ、あいつは」

 俺は、姿勢をかえないまま、声だけを佐藤にかけた。

 「名前は氏家和正。『ウジ虫』って、この業界では呼ばれているよ」

 そこで、佐藤はやっと封筒に手を伸ばした。開封しないまま、キャンバス地のバッグにそれを入れる。

 「時間をずらして出よう。『漂白』しつつ、例の駅で降りる。君も30分後に行動を起こしてくれたまえ」


 例の駅とは、俺が降りる終点の駅の3つ手前の駅のこと。この駅からバスで揺られること10分の場所に、佐藤の事務所兼住居があるらしい。

 「事務所といっても、倉庫みたいなものさ」

 佐藤は仕事柄、名刺を配ることがあるが、実はその住所は共同秘書サービスの住所だ。オフィスを構える必要がない小規模な事業主たちのために、常駐の秘書をシェアし、郵便物の仕分けや電話の受け答えや、FAXの受信などを行うサービスがあって、佐藤はそこに架空のオフィスを置いているのだった。

 メールや郵便物はそこに届けられ、メールはそのオフィスサービスのPCから遠隔でダウンロードし、郵便物はたまに、まとめて受け取る。

 フリーランスの仕事なので、その程度で事足りるのだ。都心にオフィスを構えて事務員を雇うより、コストはかなり安い。

 俺が案内される事務所は、その架空の事務所ではなく、佐藤の本当の本拠地で、所在を知られたくない場所であった。

 二十分に1本ほどで運行している都バスに乗る。始発駅なので、平日の昼間ともなれば、地元のお年寄り以外の利用者は少ない。

 都バスは、住宅街を通って首都高の下を潜り、大きな産業道路に出る。そのまま、天神様で有名な駅まで行くのだが、俺と佐藤は産業道路に出る前にバスを降りた。

 佐藤について住宅街に入ってゆく。トタン塀の町工場跡と思しきボロ屋があり、今にも崩れそうな錆びついた外階段を上がって、かつてこの町工場の事務所だった場所に入る。

 ここが、佐藤の本拠地だった。ここは、旋盤工場だったらしい。折しもの不景気と後継者不在でこの工場は閉められることになり、いろんな偶然が重なって佐藤がここを買い取ることになったそうだ。


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