始動
『バッド・カンパニー』を出て、繁華街に出る。
夕方から夜へ、町が変わってゆくところだった。
昼の間、眠っていたようなこの猥雑な一角は、夕方にやっと目を覚ました様になる。
ゴリが衛兵のように店の入り口に立っているのが見えた。俺もそこに昨日までは立っていたのだ。
また、地下鉄に乗る。混んでいた。空いている時間にばかり乗車していたので、なんだか新鮮な気分だ。
乗客はどいつもこいつも、疲れた顔をしている。窓に映る俺の顔も同様だ。電車に揺られていると、トロリと眠気が襲ってきた。バッド・カンパニーを辞めて、なんだか肩の荷が下りたような気がしていて、その途端のことだ。
今日は、色んなことがあった。疲れたが、充実している。家に帰って、飯を喰って、眠る。当たり前のことだが、今まではそれが出来なかった。
佐藤から連絡があるまで、体調を整えることに専念することにした。
俺の身体能力は商売道具。それを研いでおくのは、金を受け取る者として当然の義務だ。
国分の予言じみた言葉を思い出す。それは、まるで呪詛の様だった。その薄気味悪さを頭の中から振り払うために、体を動かすことは良い事だ。
魚肉ソーセージと、ゆで卵で夕食を採る。明日から、体重を少し落とさなければならない。あと2㎏ほど落とす。試合前なら更に4㎏落とすのだが、そこまでするつもりはない。
眠る前なのでパンとか米などの炭水化物は避けた。ウェイトの絞り方は知っている。もともと、俺は減量では苦しまないタイプだった。今でもその体質は変わらない。
横になると、すぐに睡魔が襲ってきた。この機を逃さず、眠る。待ち望んでいた『深い眠り』だった。夢も見ないまま、気が付いたら朝だった。
ラードのようにべっとりと背中に張り付いていた疲労感はすっかり拭われている。警察の小汚い『転び公妨』とやらでしょっ引かれて以来、数か月ぶりのさわやかな目覚めかもしれない。
バターもつけず、焼いただけのトーストを1枚。それに魚肉ソーセージを乗せて包んだだけの朝食をとる。お湯を沸かして、インスタントコーヒーも入れた。
食休みしながら、ストレッチをして、早朝の町にランニングに行く。
数か月、ランニングをさぼっていたので、さすがに体が重い。それも、焦らずに取り戻す。そもそもランニングしようという気分にすらならなかったのだから、バッド・カンパニーを辞めたことは、今のところ俺に良い影響を与えているようだった。
江戸川の河川敷で、ひとしきりシャドーをする。仮想の敵を目の前に作って、実戦さながらのコンビネーションやフットワークを行う訓練をシャドーという。
再び家に着いたときは、ぐっしょりと汗をかいていた。現役の頃は、これほど汗をかかなかった。これが、衰えというものなのだろう。Tシャツとスエットを洗濯機に放り込んでスイッチを入れ、俺はシャワーを浴びた。
疲れたが、心地の良い疲労だ。なによりも気分が晴れている。国分の不気味な予言じみた言葉は、狙い通り俺の頭からすっかり消えてしまっていた。
体を動かくすことは大事だ。俺はそれをすっかり忘れていた。食欲が戻り、睡眠のリズムも正常にもどりつつある。体のキレも良くなり、わずか3日ほどで、目標の2㎏減量を果たした。
佐藤から連絡が入ったのは、バッド・カンパニーを辞めてから、4日経った夕方のことであった
「待たせてしまって申し訳ない。ようやく次のネタを仕入る目途がついたようだ。同行を頼みたい」
佐藤は、独特の堅苦しい言い回しで、俺に言う。場所と時間を指定された。電気街に近い駅だ。そこにある喫茶店が待ち合わせ場所になった。俺は、もちろん快諾して、準備を整える。特に装備というものはない。唯一、日曜大工店で購入した工事用の『防刃手袋』を、愛用している軍用パーカーのポケットに突っ込んだ位か。
足回りはエアクッションのバスケットシューズにした。機動性を重視するとそうなる。いつも履いているジャングルブーツでは、走る必要がある時に少々重い。
被ったキャップは、佐藤の指示だ。なるべく、俺の面を割らせたくないので、俯いただけで顔を隠せるつばの広いキャップを購入するよう言われていたのだった。
いよいよ、実戦だ。佐藤の仕事の一端は見たが、企画の端緒から関わるのは、当然だが初めてになる。
俺はヤクザだのチンピラが大嫌いなので、少し楽しみでもあった。また、佐藤という人物の手並みにも興味がある。あの捨て鉢ともとれる無謀さがどこから来るのか、俺はそれが知りたい。
俺は佐藤という奇妙な人物を丸裸に分解してみたいのだ。
俺が、地下鉄の駅から地上に出ると、見計らったかのように佐藤から電話が来た。
「8時の方向、斜め上空を見てくれたまえ。黒猫って名前の喫茶店があるだろう?そこに入ってほしい。私を見つけても無視するように。BOX席になっているから、私の後ろの席を確保するんだ。私はある人物と会うのだが、その会話を聞いていてほしい。顔は常に伏せて、見られない様にしてくれたまえよ」
なぜ、そんなスパイじみた事をするのか、俺にはよくわからなかったが、俺は今、佐藤に雇われている身だ。依頼された通りにやる。それだけだ。それに、異様に強い佐藤の警戒心も理解できなくはない。国分も言っていたが、わざわざ危険な相手にケンカを売るような真似をしているのだから。
俺は、喫茶店に入るとざっと中を見回し、佐藤の席の後ろに座った。
なぜ佐藤がこの喫茶店を選んだか、理解出来たような気がする。この店は出入り口が2つあるのだ。
そして、佐藤の選んだ席は、柱の関係で、その両方の出入り口から死角になっている場所だった。
俺は、ウエイトレスにコーヒーを注文して新聞を開く。内容は見ていない。顔を隠すための小道具だ。
佐藤は、トーストをぱくつきながら、アイスコーヒーを飲んでいる。
国分が「アイスコーヒーの存在を認めない」と言っていたことを、俺は何となく思い出していた。




