プロローグ
真っ白な部屋があった。
壁も、床も、天井も全てが真っ白な部屋。
そこに、二人の人間がいる。
片方は黒い髭を生やした男、もう片方は背の高い美しい女。
二人は、お互いに顔を合わせてはひたすらに嘆いていた。
――なぜ、こうなってしまったのだろう。
――なぜ、私達はあの子を置いていってしまったのだろう。
男は顔を天を仰ぎ、声を張り上げてはただ、ただ嘆く。
――あんなに醜くて、非情で、あの子を傷つけるばかりの世界に。
――一人、残してきてしまった。
女が咎めるような視線を送っても、男は嘆くことをやめない。
――どうすればいい? どうすれば、あの子を護ることが出来る?
――どうしたらいいんだ。一体、どうしたら……
――待って。わたくしにいい考えがあるわ。
さっきまで黙っていた女が、急に口を開く。
その言葉に、男は嘆くことをやめ、尋ねた。
――いい考え? 一体、どんな考えだい?
女は男に向かって微笑み、こう言い放つ。
――あの子を護ってくれる、最強の……
***
ここは、とある世界のとある島国、の首都……からだいぶ離れた田舎町。
そんな田舎町の中で、一際目立つ大きな家。
この家の持ち主は、代々地主か何かでそれなりにお金持ちらしい。
まぁ、そのことはこれから始まる物語には関係ないので置いておこう。
さて、この大きな家から少し離れたところ(と言っても敷地内なのだが)に道場がある。
ただ今、この道場の中では二人の男性が組み手の最中である。
片方は、身長が二メートルはあり、がっちりとした筋肉に身を包んだ大男。
そしてもう片方は……背も低く、標準よりも少し痩せている小柄な少年。
誰がどう見ても体格差がありすぎる二人である。
大男は少年を弱いと見たのか、余裕の表情を浮かべている。
対して少年は、特に表情も変えずただ目の前の相手を見ているだけである。
「用意」
師範らしき老齢の男性の声で、二人は同時に構える。
「始めっ!」
そして再びかけられた声で、二人同時に動き出す。
次の瞬間には、少年が大男を軽々と投げ飛ばしていた。
「そこまで! 勝負あり!」
師範からそう告げられるまで、投げられた大男も、二人の組み手を見ていた他の男達も誰一人として状況が理解できないのか、固まったままだった。
ただ一人、少年が無表情のまま汗もかかずに胴着の帯を結びなおしていた。
少年の名前は宇留野 悟。
これから始まる物語の、主人公である。
***
少年――悟は朝稽古を終えた後、朝ごはんを食べていた。
他の家族はもう食べ終わってしまったのか、そこには悟以外誰もいなかった。
――いや、一人ではなくなった。
背の高い青年が、居間に入ってきたからである。
ワカメと豆腐の味噌汁をすすりながら悟はその様子を横目で見たが、すぐに興味を無くしたのか味噌汁を置いて大根の漬物に箸を伸ばす。
青年は悟の目の前に座り、にこやかな笑顔を浮かべながら悟の食べる様子をじっと見ている。
しかし、悟は気にする風でもなく朝食を続ける。
……暫く、その場は悟が朝食を取る音しかしなかった。
「ごちそうさま」
ようやく朝食を終え、手を合わせる悟。
「おいしかったか?」
そう問いかける男を無視し、悟は黙々と食器を片付ける。
しかし男はめげずに悟に話しかけ続ける。
「いやぁ、今日の朝食はまた格別だったな。贅沢を言えば、俺は味噌汁は油揚げ派なのだが」
無視。
「それにしても聞いたよ。自分の倍以上はある体躯の男を投げ飛ばしたんだって? さすがは悟だ。お祖父様が自ら道場の跡継ぎに指名しただけのことはある」
再び、無視。
「全く悟は冷たいなぁ。返事くらいしてくれたっていいんじゃないか? 少しくらい兄弟間のスキンシップを……」
三度、無視である。
青年はやれやれ、と肩を竦めると再び口を開いた。
「――ところで、相談があるんだが」
その言葉を聞いたとたんに、悟の動きが止まる。
そしてゆっくりと後ろを振り向く。その顔に、表情は無い。
「……手短にお願いします、稔兄さん」
その言葉に、男――稔は頷いた。
場所は変わらず、居間。
先ほどと違うといえば、朝食が消え、代わりに二人の前に湯のみが置かれているというところだろうか。
悟は茶をすすりつつ、稔が話し出すのを待つ。
「実はな、お前に一つ頼みたいことがあるんだ」
「お断りします」
即答である。
「……まだ何も言ってないんだが」
「どうせ、ろくでもないことでしょう。僕が付き合う義理はありません」
悟はそう言うと、立ち上がって居間を出て行こうとした……が、それはすぐに阻まれる。
目の前に、二人の男女が現れて道を遮ったのだ。
「何をしているんだ、悟」
「……それはこっちのセリフです、母さん。父さんまで何をしているんですか。門下生を見ているんじゃなかったんですか」
「い、いや……はは……」
気の弱そうな男性が、曖昧な笑みを浮かべる。直後に「へらへらするな」と女性に頭を叩かれた。
「な、何をするんだ雪! 痛いじゃないか!」
「お前がへらへらとしているからだ、孝志。叩かれたくなければしゃきっとしろ、しゃきっと」
くだらないことで言い合いをする両親を横目に、悟は居間を出て行こうとする……が、再び雪に阻まれてしまう。
「……母さん」
「悟、話も聞かずに真っ向から否定するのは関心しないぞ」
「そうだよ。話くらい、いくらでも聞いてやればいいじゃないか」
「でも、」
「いいから座れ。まずはそれからだ」
孝志の優しい説得と、雪の奇妙な威圧感に押されて悟はしぶしぶと先ほど座っていた場所に戻る。
二人もそれぞれ稔の隣に座った。
「……で、相談って何?」
「ああ、実は――俺が保護した幽霊のことなんだが」
次の瞬間、悟は素早く居間を飛び出した。
三人が悟を呼び止める声が聞こえるが、悟はそれを聞こえないふりをして無視する。
――くだらないアホだバカバカしい! 何が幽霊だ!
憤る気持ちを抑えつつ、悟は二階への階段を駆け上がり、そしてやや乱暴に自分の部屋の扉を開けた。
するとそこには、
立派な服を着た……少し身体が透けている男性と女性が居た。
……悟は、ゆっくりと扉を閉めた。
***
『どうもはじめまして、アルベルト・レオン・バルツァ=フランシャールと申します』
『わたくしはフリーデリケ・グレーテ・ルミナ=フランシャール。この方……アルベルトの妻です』
立派な服を着た二人は、深々と頭を下げた。
悟もゆっくりと頭を下げ、自己紹介をする。
「……宇留野 悟です。今回はうちの兄がご迷惑をかけたそうで」
「悟、お前は何か勘違いをしている。俺はこのご夫婦が困った顔をしながら早朝の町内を彷徨っているところを保護したんだ。決して俺がこのお二人に迷惑をかけたワケではな、」
「お前は少し黙っていろ」
雪が稔を黙らせる。
悟は心の中で母に賞賛を送りつつも、顔はきっちりと二人……フランシャール夫妻のほうへと向けている。
『……それにしても驚きました。まさか、私達の姿を見ることが出来る方がいるなんて』
「うちの家系は、霊感が強いらしいからな」
『まぁ、そうなのですか』
「えぇ、特に母や俺は家系の中でも特に強くて、」
「それで、僕に頼みたいことがあるとか」
稔の話を遮り、本題へ入るように促す悟。
その言葉に、フランシャール夫妻は少し沈んだ顔を見せる。
『えぇ……サトルさんに頼みたいことがあるの』
『どうか、話だけでも聞いてくれんか?』
必死な様子の二人に、悟は無言で頷いた。
『実はな……私達はこの世界とは違う世界の人間なのです』
わかります、と悟は心の中で呟いた。
明らかに服装も名前も、この世界のものとは違うもの。
今更、それを疑うことはしなかった。
『そして、見てのとおりわたくし達は既に死んでおります』
『偶然できた休暇の最中、旅行をしている時に事故が起こり……うぅ……』
『泣かないで、あなた。あれも運命だったのよ』
顔を覆い、泣き崩れるアルベルト。そんな夫の肩を支え、慰めるフリーデリケ。
――いい加減、本題に入って欲しい……。
そうは思いつつも、口には出さない悟。
口に出せば、二人が傷つくことは明白だからだ。
『そこで本題なのですが』
いつの間にやら泣き止んだアルベルトが、真っ直ぐに悟を見つめる。
悟は居住まいを正し、アルベルトの言葉を待つ。
『サトル君、どうか――どうか私達の娘を護ってくれ!』
アルベルトはそう言うと、正座をして頭を下げる――いわゆる土下座、をして頼み込んだ。
『わたくしからもお願いします!』
と、フリーデリケも同じように土下座をする。
悟は一瞬だけ驚いたような表情をするが、すぐさまいつもの無表情に戻る。
「……理由を訊いてもよろしいですか?」
悟がそう尋ねれば、アルベルトは顔を上げて言った。
その表情は、とても必死なもので。
『ミノル君から聞いた。君は、類稀なる体術の才があると』
「……それと、この話に何の関係が?」
『私の称号は公爵――爵位の中でも最高位だ。更にフランシャール家はその辺の貴族が束になっても太刀打ちできないほどの名家。しかし、それ故にフランシャール家が失脚、そして没落することを望む輩はたくさんいる。私は、そんな輩から家や家族を護ってきた。だが――……』
アルベルトは俯き、悔しそうな声で言う。
『……だが、私は死んでしまった』
その声には悔しさや無念、そして悲しさ、寂しさ……そんなものがいっぱいに込められていた。
『人間、死ねばそれまで。私も妻も、自分達が死んだことを潔く受け入れている。……しかし、私の娘は生きている。私達がいない、あの広い家の中で……一人、生きている』
『……きっと、フランシャール家の失脚を望む者はすぐにでも動き出します。そうなれば、娘は……リディは命を狙われることとなるでしょう』
フリーデリケの静かな声が居間に響く。
この場にいる全員が、二人の話に耳を傾けている。彼らの話を遮るものはこの場にはいない。
『リディはまだ15歳……成人すらしておらんのに、あの子はフランシャール家の当主となる。そして悪魔のような連中と対峙することを強要され、そいつらに命を狙われようとしている。だから……!』
「……だから、僕にお嬢様を護ってほしいと?」
アルベルトは、強く頷く。
『ミノル君から話を聞いて、もはや君しかいないと思った。頼める人物は、もはや君しかいないと。どうか、どうか頼む。娘を――リディを、護ってくれ!』
アルベルトは再び頭を下げ、必死に頼む。
大事な一人娘を思う、父親の姿。
悟は、何も言わなかった。いや、言えなかった。
何故なら、悟が口を開こうとした瞬間に雪が話し始めたからである。
「あなたの気持ち、よく分かりましたアルベルト殿。……愚息ではありますが、多少なりとも腕は立ちます。どうぞ、こき使ってやってください」
「母さん!?」
『おお! 引き受けてくれるのですか!』
「ちょ、あの、」
「よくぞ決意したぞ悟!」
抗議しようとする悟だが、それはとある人物の乱入により遮られる。
それは今朝、悟の組み手を見ていた老人――悟の祖父であった。
「克真お祖父様!?」
呆れた顔をする悟を無視し、祖父・克真はフランシャール夫妻に話しかける。
「お二人の言葉、この克真にも届きました。まだ未熟者ですが、ご安心ください。あれも宇留野家の男、きっと自分の信念と誇りを持ってお嬢様を護ってくれることでしょう」
『おお!』
『なんと頼もしい!』
盛り上がる三人。
会話に入れない、と悟は察したのか助けを求めるように父と兄へと目を向ける。
しかし、既に二人はあちら側にまわっていた――祖母・千鶴子の手によって。
「悟さんは一通り家事も出来る上に落ち着いておりますし、執事として働くのはどうでしょう。ただ護衛として働くよりかはトゲがないと思いますけれど――あなた達もそう思いますよね、孝志さんに稔さん」
「はい! さすがですお義母さん!」
「見事なアイディアですお祖母様!」
ちなみに余談ではあるが、孝志は入り婿である。
さて、味方がいないことを悟った悟だが、彼はそんな状況下でさえ表情を大きく歪めることも、声を荒げることもせず。
ただ、
――これは、もう逃げられないな。
とだけ思った。
こうして、悟はフランシャール公爵家令嬢の専属執事としての道を歩むことになったのである。