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5年間フードデリバリーで支えた貧乏な彼氏が、高級車で別の女に雨宿りさせていた件

作者: 熾星
掲載日:2026/09/02



雨の夜、フードデリバリーに使っていた電動アシスト自転車を盗まれた。


 犯人らしき人影を追いかけた拍子に足をひねり、私は道路脇の水たまりに転んだ。足首が痛くて立ち上がれず、コンビニの前に座り込んだまま、五年間付き合っている恋人の桐生悠真にLINEを送った。


【自転車を盗まれた。足もひねっちゃって……迎えに来てもらえる?】


 かなり待ってから、ようやく返信が来た。


【そんなことでわざわざ呼ぶの? 俺が車も持ってないから嫌になった?】


 悠真はずっと、実家の事業が失敗して多額の借金を抱えていると言っていた。私もそれを信じ、古いアパートで暮らし、値引きされた弁当を分け合う生活を、二人で未来のために耐えているのだと思っていた。


 その時、目の前を黒いレクサスLSが通り過ぎた。


 赤信号で速度を落とした車の後部座席に、見慣れた男がいた。いつも金がないと言っていた悠真が、高そうなスーツを着て、入社してまだ三か月にもならない白石美羽の頬についた雨粒を優しく拭っていた。


 その夜、社内Slackはその話でもちきりになった。


 そこで初めて知った。


 五年間、私の前で貧乏人を演じ続けていた恋人は、東央グループ創業家の一人息子だった。



1



 腫れた足を引きずりながら、白波市郊外にある古いアパートの六階まで上がった。エレベーターもない築年数の古い1Kで、家賃は月五万二千円。冬は窓の隙間から冷気が入り、夏になれば狭いキッチンに立っているだけで汗だくになるような部屋だった。


 五年前、悠真と一緒にここへ引っ越した日のことを、私は今でも覚えている。何もない部屋の真ん中で、彼は私を抱きしめた。


「いつか金が貯まったら、広いベランダのある部屋に引っ越そう」


 私はその言葉を、ずっと信じていた。


 部屋の隅にある四千九百八十円のワークチェアは、先月、悠真が腰が痛いと言うので三軒も店を回って買ったものだった。その横の簡素な本棚も、中古ショップで板を買い、自分で組み立てた。


 棚には起業や経営、金融関係の本が並んでいる。悠真が将来会社を興したいと言うから、古本屋を回るたびに一冊ずつ買い足したものだった。


 プレゼントしても、彼はいつもそれほど喜ばなかった。


 私はてっきり、私に金を使わせるのが申し訳ないのだと思っていた。


 でも違った。


 高級車で送り迎えされ、オーダーメイドのスーツを着て育った男にとって、私が必死に選んだ数千円の椅子も、中古の本も、最初からたいした価値などなかったのだろう。


 スマートフォンが震えた。


 Slackの雑談チャンネルでは、十数秒ほどの動画が何度も共有されていた。さっき私に泥水を浴びせて走り去ったレクサスが雨の中に停まり、悠真が黒い傘を差して後部座席へ回り込む。


 彼は美羽のためにドアを開け、傘をほとんど彼女の方へ傾けていた。さらに肩をかばうように手を添え、そのままマンションのエントランスまで送り届けている。


【桐生さんって、本当に東央グループの御曹司だったの?】


【今日の取引先との懇親会で、酔った取引先が白石さんにずっと酒を勧めてたらしいよ】


【桐生さんが止めても相手が引かなかったから、最後は自分が桐生会長の息子だって明かしたらしい】


【何年も隠してたのに、新人一人守るために正体明かすって……それもう恋じゃない?】


【白石さん、ドラマのヒロインみたい】


 画面に流れていく文字を見ながら、入社したばかりの頃を思い出した。


 私と悠真はその時、すでに二年間付き合っていた。私が東央デジタルソリューションズに入社すると、彼は職場での交際は人事上面倒になるから、社内では関係を隠そうと言った。


「同じ部署で付き合ってるって知られたら、何かあるたびに変なこと言われるだろ。会社では普通の同僚でいよう」


 その言葉を信じ、私たちは社内で名字で呼び合った。昼食も一緒に取らず、出勤時間も帰宅時間もわざとずらした。


 私はずっと、彼が私たちの関係を守ろうとしているのだと思っていた。


 違ったのだ。


 悠真はただ、私が自分の恋人だと知られたくなかっただけだった。


 玄関の鍵が回る音がした。


 悠真が入ってきた。


 懇親会で着ていたらしい濃いグレーのスーツをまだ身につけていた。高そうな腕時計も、袖口から覗くカフスも、この狭い部屋の中ではひどく場違いに見えた。


 床に座っている私を見て、彼は眉をひそめた。


「なんでそんなところに座ってるんだ?」


 私は顔を上げた。


「ずっと私を騙してたの?」


 悠真の足が止まった。


「何の話?」


「桐生家は落ちぶれた。お父さんの会社は失敗して借金だらけ。自分には何もないって、ずっと言ってたよね」


「全部嘘だったの?」


 悠真はしばらく黙っていたが、やがてテーブルの方へ歩き、水を一杯注いだ。


「全部が嘘ってわけじゃない」


 耳を疑った。


「じゃあ、何なの?」


「俺は知りたかっただけだよ」


 悠真は水を一口飲んだ。


「もし俺が桐生家の人間じゃなかったら、それでも好きになってくれる女がいるのかって」


「子供の頃から、金や家柄目当てで近づいてくる人間を散々見てきた。結婚相手までそういう女だったら嫌だったんだ」


 悪びれる様子もなかった。


 私と過ごした五年間すべてが、彼にとっては試験だったかのような口ぶりだった。


「だから私を五年間も試したの?」


「この部屋で一緒に暮らしたのは私だよ。値引き弁当を一緒に食べたのも私。起業したいって言うから、夜に配達までして貯金してたのも私」


「なのに今、みんなが悠真の“本当の相手”みたいに言ってるのは、どうして白石美羽なの?」


 悠真はため息をついた。


「紗季、考えすぎだよ」


「俺の彼女はずっとお前だ」


 こちらへ歩み寄り、私を起こそうと手を伸ばす。


 私はその手を避けた。


 悠真の表情に、一瞬だけ不快そうな色が浮かんだ。


「今日は特別だったんだよ。美羽が取引先に絡まれてたんだ」


「まだ入社したばかりで、ああいう場に慣れてない。俺が止めなかったら、あの男がそのあと何をしてたか分からないだろ」


 私は紫色に腫れた左足首を見せた。


「だから美羽を守るためなら、五年間隠してきた身分まで公表できたんだ」


「私は自転車を盗まれて、足まで痛めて、一人で雨の中から助けを求めた。それでも悠真にとっては、“そんなこと”だったんだね」


 彼の眉間に深い皺が寄った。


「同じ話じゃないだろ」


「自転車は買い直せる。足をひねったなら病院に行けばいい。でも美羽が相手にしてたのは重要な取引先だ。対応を間違えれば、今後の仕事にも影響する」


「紗季、いつからそんなに人と自分を比べるようになったんだよ」


 私はしばらく彼を見つめた。


「三か月も付き合いのない人の方が、五年一緒にいた私より助ける価値があったんだね」


 その時、悠真のスマートフォンが鳴った。


 画面には「美羽」の名前が表示されていた。


 彼はすぐに電話を取った。


「どうした?」


 ついさっきまで私に向けていた苛立った声とは違い、ひどく優しい。


「大丈夫。今日のことはもう片づいたから」


「怖がらなくていい」


 向こうで何か言われたらしい。


 悠真は時計を見た。


「分かった。今から行く」


 電話を切ると、財布から封筒を取り出してテーブルに置いた。


「十万円入ってる」


「明日、新しい電動自転車を買え。それから病院にも行ってこい」


 横には湿布の箱まで置いた。


「もうこんなことで喧嘩するのはやめてくれ。俺も今日は疲れてるんだ」


 それだけ言って、彼はまた出ていった。


 閉まったドアを見たあと、テーブルの上の封筒に視線を落とした。


 十万円。


 五年間の気持ちまで、彼に値札をつけられたような気がした。



2



 翌朝、六時半に目が覚めた。


 悠真は帰っていなかった。


 交際を会社に知られないよう、私たちはずっと時間をずらして出勤していた。私は六時半に起きて二人分の朝食を作り、そのまま満員電車で会社へ向かう。悠真が家を出るのは、いつもそれより一時間以上あとだった。


 そんな生活が五年も続いた。


 テーブルの上には十万円の入った封筒と湿布がそのまま残っている。


 私はどちらにも触れなかった。


 身支度を済ませ、昨夜書いた退職届を鞄に入れた。まだ痛む足を引きずりながら出社すると、オフィスでは朝から何人もの社員が美羽の席を囲んでいた。


「桐生さん、本当に東央グループの跡取りだったんだね」


「白石さんたち、いつからそういう関係なの?」


「昨日、取引先とまで揉めて守ってくれたんでしょ? すごくない?」


 美羽は頬を赤らめながら手を振った。


「違いますよ。私たち、本当に付き合ってません」


「昨日も取引先にお酒を勧められて困ってたら、桐生さんが助けてくださっただけです」


「そのあとも雨だったから、たまたま送っていただいただけで……」


 周囲から笑い声が上がった。


「マンションの中まで送ってもらって“たまたま”は無理あるって」


「動画じゃずっと白石さんかばってたじゃん」


「御曹司にそこまでされたら、もう期待しちゃうよね」


 私は入口に立ったまま、そのやり取りを聞いていた。


 やがて美羽がこちらに気づいた。笑顔が一瞬だけ止まったものの、すぐに席を立って近づいてくる。


「高瀬さん、足どうしたんですか?」


 彼女が腕に触れようとしたので、反射的に避けた。


 その瞬間、美羽が小さく悲鳴を上げた。


 次の瞬間には、床に尻もちをついていた。


 オフィスが一気に静かになる。


 美羽は目を潤ませ、信じられないという顔で私を見上げた。


「高瀬さん……」


「桐生さんのことが気になってるのは分かります。でも、それで私を突き飛ばすなんて……」


 何を言われているのか理解するまで、一瞬かかった。


 反論しようとした時、隣の会議室の扉が開いた。


 悠真が数人の管理職と一緒に出てきた。


 床に座っている美羽を見るなり、すぐに駆け寄る。


「美羽?」


 彼女を起こし、まず手首や足元を確認した。


「どこか痛くないか?」


 美羽は小さく首を振った。


「大丈夫です。私がちゃんと立ってなかっただけなので……」


 その言い方が、かえって私を悪者にした。


 周囲の視線が痛い。


 悠真はようやくこちらを向いた。


「高瀬」


 紗季ではなかった。


 ただの同僚に向けるように、名字だけで呼んだ。


「事情はどうあれ、会社で人に手を出すのはよくない」


「私が突き飛ばしたところ、見たの?」


 悠真は一瞬黙った。


「みんな、美羽が倒れるところは見てる」


「まず謝れ」


 思わず笑った。


「桐生悠真」


 彼の顔色が変わった。


 周囲も静まり返る。


「五年間一緒にいた相手に、最後はこうするんだ?」


 悠真が一歩前へ出た。


「高瀬。ここは会社だ」


「俺たちが特別な関係だったみたいな言い方はやめろ」


「仕事上のことは、会社のルールに従って処理する」


 胸の奥がぎゅっと縮んだ。


 昨夜でもう十分傷ついたと思っていた。


 まだ痛める場所が残っていたらしい。


 五年。


 千八百日を超える時間。


 それが彼の口から出れば、「特別な関係みたいに言うな」の一言になる。


 悠真の後ろに立っていた美羽が、誰にも見えない角度でわずかに口元を緩めた。


 その直後、悠真は人事担当者へ目を向けた。


「高瀬が過去に担当した案件も、もう一度コンプライアンスチェックを入れてください」


「特に三年前のASTERプロジェクト。あれは外部SDKのライセンス処理に問題があったはずです」


 全身が冷えた。


 三年前、私と悠真がまだ入社して間もなかった頃。


 大きな案件を取るために、何週間も連日残業をしていた。ASTERプロジェクトでは、青嶺テクノロジーが提供していたデータ分析用SDKを使う必要があった。


 当時、東央が取得していたのは評価用ライセンスだけだった。商用利用の正式契約はまだ完了していない。


 私は提出を止めようとした。


 深夜二時、オフィスに残っていたのは私と悠真だけだった。


「手続きは俺がやる」


「締め切りに間に合わない。紗季は先に技術版を提出してくれ」


「正式ライセンスはあとから処理すればいい」


 そう言われた。


 提出に使ったのは、私の社員アカウントだった。


 プロジェクトは成功し、社内でも高い評価を受けた。その後、私は何度かライセンスについて悠真に確認したが、もう処理済みだと言われた。


 だから信じた。


 三十分ほどして、人事担当者が一枚の書類を持って私のデスクに来た。


「高瀬さん」


 困ったような顔をしていた。


「ASTERプロジェクトの調査が終わるまで、自宅待機をお願いすることになりました」


 書類に目を通した。


 泣きもしなかったし、言い争う気にもならなかった。


 代わりに鞄から退職届を取り出し、机の上に置いた。


「では、これも一緒に受け取ってください」


 担当者は目を見開いた。


「本当にいいんですか?」


「はい」


 五年間使ったデスクを片づけた。


 それだけ長く勤めたのに、私物は段ボール一箱にしかならなかった。


 会社を出てしばらくすると、悠真からLINEが来た。


【今日は仕事の話だ。プライベートを持ち込むな】


 少しして、もう一通。


【調査が終われば戻せるようにする】


 そして。


【今夜、ちゃんと話そう】


 駅のホームでその文字を眺めた。


 私はトークルームを削除し、悠真をブロックした。


 アパートに戻り、自分の荷物をまとめるのに四十分もかからなかった。服とパソコン、本が数冊。それから引き出しの奥から、五年前に初めて撮ったプリクラが出てきた。


 安物のパーカーを着た悠真が、私の肩を抱いて笑っている。


 二秒ほど見つめてから、ゴミ袋に入れた。


 部屋を出る前、合鍵を靴箱の上に置いた。


 五年前、ここが二人の人生の始まりになると思っていた。


 今となっては、ただ私がようやく立ち去ることのできた場所だった。



3



 その夜、悠真は遅くまで会社に残っていた。


 退勤時、美羽が彼のオフィスの前で待っていた。


「桐生さん……今日も送っていただけませんか?」


 前日なら断らなかったかもしれない。


 けれど、その日はなぜか美羽の声すら鬱陶しく感じた。


「タクシーで帰って」


 それだけ言い、悠真は上着を手に会社を出た。


 帰り道、考えていたのは紗季のことばかりだった。


 昼間の言い方は少しきつかったかもしれない。


 それでも彼の中では、紗季が今回も少し機嫌を損ねているだけだと思っていた。五年間、二人が一度も喧嘩をしなかったわけではない。紗季が怒っても、悠真が少し態度を和らげ、何か買って帰れば、最後には彼女の方から折れていた。


 今回も同じだろう。


 駅前の商業施設を通った時、ふと足を止めた。


 以前、紗季がショーウィンドウの前で長く眺めていたバッグを思い出した。値札を確認したあと、「やっぱり好みじゃないかも」と笑って立ち去ったものだ。


 当時の悠真は、彼女が値段を見て諦めたことに気づいていた。


 今なら買ってやってもいい。


 新しい電動アシスト自転車も、二十万でも三十万でも構わない。


 もう身分は知られてしまったのだから、紗季の前で貧乏人を演じ続ける必要もない。


 そう考えると、少し気が楽になった。


 きちんと謝って、美羽の件も説明すればいい。


 そうすれば紗季は、これまでと同じように自分のそばに残る。


 午後十一時を過ぎた頃、悠真はようやくアパートへ戻った。


 鍵を開ける。


 中は真っ暗だった。


「紗季?」


 返事はない。


 電気をつけた瞬間、悠真の動きが止まった。


 靴箱から一足消えている。壁に掛けてあった上着もなく、クローゼットを開ければ紗季が使っていた半分だけが綺麗に空いていた。


 洗面所の化粧品やタオルもない。


 キッチンの棚からは、彼女が毎朝使っていた白いマグカップが消えていた。


 部屋のあちこちに空白ができている。


 その時になって初めて、悠真は、この家にあるものの大半が紗季によって整えられていたことに気づいた。


 テーブルクロスを選んだのも紗季だった。


 冷蔵庫の食材を期限ごとに整理していたのも紗季だ。


 玄関の予備の傘を買ったのも、毎朝着るシャツを前夜にアイロンがけしていたのも彼女だった。


 紗季のものが消えただけで、五年間暮らしたはずの部屋が突然よその家のように見えた。


 悠真はしばらく立ち尽くしてから、スマートフォンを取り出した。


 電話をかける。


 出ない。


 もう一度。


 やはり出ない。


 三度目になる頃には、苛立ちが混じった。


「何を怒ってるんだよ……」


 LINEを開く。


【どこにいる?】


【そろそろ帰ってこい】


【今日の会社でのことなら、説明する】


 何通送っても既読がつかなかった。


 電話にも出ない。


 五年間、どれだけ喧嘩しても、紗季がここまで完全に彼を拒んだことはなかった。


 悠真は初めて、今回だけは何かが違うと感じた。


 連絡先を開き、紗季につながりそうな人間を探す。


 しかし、すぐに手が止まった。


 紗季の両親がどこに住んでいるのか、おおよその地域しか知らない。


 大学時代の友人の名前も、ほとんど覚えていなかった。


 五年間、紗季の生活は悠真を中心に回っていた。


 それを彼は、当たり前のこととして受け取ってきた。


 苛立ちに任せて靴箱を蹴った。


 扉が大きく揺れ、上に置かれていた鍵が床へ落ちる。


 乾いた音がした。


 悠真が目を落とす。


 紗季の合鍵だった。


 持っていくのを忘れたのではない。


 置いていったのだ。


 悠真の顔から、初めて余裕が消えた。


 鍵を拾い上げながら、ようやく理解した。


 紗季は数日頭を冷やしに出ていったのではない。


 本当に、自分のもとから去ったのだ。


 * * *


 翌朝、悠真は人事部へ向かった。


「高瀬紗季が入社時に登録した住所を教えてください」


 担当者は困惑した。


「申し訳ありません、桐生さん。社員の個人情報を私的な理由で開示することはできません」


 悠真の声が低くなった。


「じゃあ、緊急連絡先は?」


 担当者は一度だけ登録情報を確認し、微妙な表情を浮かべた。


「高瀬さんが登録している緊急連絡先は……桐生さんです」


 悠真は答えなかった。


 その場に立ったまま、自分には紗季を探す方法がないことを初めて知った。


 紗季は人生の大事な欄に、ずっと彼の名前を書いていた。


 けれど悠真は、彼女が自分を失った時にどこへ行くのかさえ知らなかった。


 * * *


 その頃、私は大学時代からの友人、森川奈緒の部屋のソファに座っていた。


 奈緒は私の前にしゃがみ、腫れた足首を見て顔色を変えた。


「こんなに腫れてるのに、昨日一人で帰ったの?」


 私は答えなかった。


 転んだ時についた手のひらと膝の擦り傷には薄いかさぶたができていたが、足首はまだひどく腫れている。少し動かすだけでも鈍い痛みが走った。


 奈緒は湿布を貼りながら、だんだん腹を立て始めた。


「紗季。あんた、この五年間どんな暮らししてたの?」


「昼は会社で働いて、夜は配達。自分の服も食べたいものも我慢して、あいつの“起業資金”を貯めてたんでしょ?」


「なのに本人は最初から金持ちだったって?」


 私は俯いたままだった。


 奈緒の怒りは収まらない。


「雨の中で足をこんなにしても、迎えに来るのは面倒。でも入社三か月の白石さんが取引先に絡まれたら、高級車で送り届けて、何年も隠してた身分まで明かす」


 彼女は私の顔を見た。


「紗季。ちゃんと考えて」


「この五年間、本当に“一緒に苦労してた”の?」


 鼻の奥が熱くなった。


 悠真はいつも言っていた。


 二人で頑張ろう。


 二人で乗り越えよう。


 私もそう思っていた。


 でも奈緒に言われて、初めて気づいた。


 苦労していたのは、最初から私一人だったのかもしれない。


 奈緒は私の顔を見て、それ以上責めるのをやめた。薬を片づけ、隣に座る。


 その時、テーブルの上に置かれた自宅待機通知が目に入ったらしい。


「ちょっと待って」


 紙を手に取り、もう一度読み直した。


「紗季。三年前の神崎直哉って覚えてる?」


 私は顔を上げた。


 混乱し続けていた頭の中に、その名前だけがはっきり浮かび上がった。


 三年前、ASTERプロジェクトの受注を争っていた会社の一つが、青嶺テクノロジーだった。


 最終プレゼンのあと、青嶺テクノロジー代表取締役社長の神崎直哉から直接連絡をもらったことがある。私の技術提案書を読んだと言い、青嶺に来ないかと誘われたのだ。


 給与も役職も東央より良かった。


 自分のチームも任せると言われた。


 それでも私は、ほとんど迷わず断った。


 悠真が東央にいたからだ。


 あの頃は、将来一緒になるなら、仕事も二人で同じ方向へ進んでいくものだと思っていた。


 奈緒が尋ねた。


「ライセンスの件、悠真が“先に提出しろ”って言った記録、残ってないの?」


 少し考えた。


「個人クラウドのバックアップに、たぶん残ってる」


 その夜、三年前のメールとチャット履歴を探した。


 本当に残っていた。


 その中の一通は、悠真本人から送られている。


【正式ライセンスの処理は俺がやる。紗季は先に提出して】


 その文字を長い間見つめた。


 三年前は、それを信頼だと思った。


 今では、自分が勝手に判断したのではないと証明できる数少ない記録になっていた。


 翌日、私は神崎直哉に電話をかけた。


 数回の呼び出し音のあと、低い声が聞こえた。


「はい」


「神崎社長、高瀬紗季です」


 向こうで一瞬、沈黙があった。


「お久しぶりです、高瀬さん」


 長い挨拶はしなかった。


「三年前のASTERプロジェクトで使われた、青嶺のSDKについてお話ししたいことがあります」


 その日の夕方、青嶺側の法務担当者を交えて会った。


 私は自分の手元に残っていたメールとチャットの記録を見せた。確認すると、当時東央に与えられていた評価用ライセンスでは、その後の商用利用まで認められていなかった。


 東央側にも、正式契約が完了した記録が見当たらないという。


 神崎社長が資料を読み終え、私を見た。


「三年前の時点で、問題には気づいてたんですか?」


「確認はしました」


「桐生が処理すると言ったので」


 神崎社長は数秒黙った。


「高瀬さん、昔と変わらないですね」


 眉を寄せた。


「どういう意味ですか?」


「仕事では慎重なのに、人を信用する時だけ無防備だ」


 それだけ言い、資料を法務担当者へ渡した。


「ここからは会社で確認します」


 二週間後、退職手続きが正式に完了した。


 私は五年間勤めた東央デジタルソリューションズを離れた。



4



 青嶺テクノロジーはすぐに、東央側へ正式な通知を送った。


 ASTERプロジェクトでは評価用ライセンス終了後も、対象SDKが商用サービス内で継続利用されていた。最初の協議で折り合いがつかず、青嶺は最終的に東央デジタルソリューションズを提訴し、五千万円の損害賠償を求めた。


 通知が届いた日、悠真は別の番号から私に電話をかけてきた。


 出なかった。


 しばらくして、奈緒が以前の知人から聞いた話を教えてくれた。


 東央の法務責任者が訴状関係の資料を持って悠真のところへ駆け込んだ時、彼は別のプロジェクトについて打ち合わせをしていたらしい。


 ASTERの名前を見た途端、顔色が変わったという。


 さらに関係者一覧の中に「高瀬紗季」の名前を見つけると、法務責任者を会議室へ呼び、長い間話し込んでいた。


 その頃、私は青嶺テクノロジーに正式入社していた。


 肩書きはプロジェクトマネージャー。


 直属の上司は神崎社長だった。


 初日、案内されたデスクには、新しいパソコンと社員証、それから分厚いプロジェクト資料が置かれていた。


 神崎社長が資料を私に渡す。


「三年前、高瀬さんを誘ったのは、あの提案書を読んだからです」


「今も理由は同じです」


 資料を受け取った。


「つまり?」


「採用したことを後悔させないでください」


 思わず笑ってしまった。


 青嶺へ来てから、初めて肩の力が抜けた気がした。


 数日後には六人のチームを任された。エンジニア、プロダクト担当、プロジェクト管理経験者が揃っている。


 再び企画書を作り、要件会議を開き、スケジュールを組み、顧客との仕様確認に追われる日々が始まった。


 忙しかった。


 でも不思議と苦しくなかった。


 一週間後、訴訟に関する最初の正式な協議が行われた。


 双方の弁護士と担当者が集まる。


 悠真も来ていた。


 以前より明らかに痩せ、目の下には濃い隈ができている。


 私を見るなり、席を立った。


「紗季」


 まっすぐこちらへ歩いてくる。


「先に二人で話そう」


 私は一歩下がった。


 隣にいた神崎社長が口を開く。


「桐生さん」


 悠真が足を止めた。


「今日は高瀬さんも、青嶺側のプロジェクト責任者として来ています」


「個人的な話は、会議のあとにしてください」


 悠真の視線が、私の社員証へ落ちた。


 青嶺テクノロジー。


 プロジェクトマネージャー。


 高瀬紗季。


 長い間、その文字を見ていた。


 まるでそこで初めて、私はもう彼が知っている世界の中にいないのだと理解したようだった。


 会議が始まった。


 ASTERプロジェクトのライセンス履歴、東央側の説明資料、青嶺が保管していた評価契約。


 必要なものがすべてテーブルに並んでいる。


 もう私は、誰かの判断の責任を肩代わりする必要はなかった。



5



 訴訟は長期化しなかった。


 青嶺側には当時の評価用ライセンス記録が残っていた。東央は、その後正式な商用契約が成立したことを証明できなかった。


 さらに私のチャット履歴から、プロジェクト提出前にライセンス上の問題を指摘し、悠真が「自分が処理する」と指示していたことも確認された。


 最終的に双方は和解した。


 東央デジタルソリューションズは三千万円の和解金を支払い、公式サイトにライセンス管理上の問題について説明を掲載した。


 東央グループは非上場企業だったため、株価が下がるようなことはなかった。


 それでも影響は小さくない。


 主要顧客のいくつかが新規案件を一時停止し、取引銀行からも内部統制とリスク管理について説明を求められた。社内では責任の所在を明らかにする調査が始まり、悠真の父親である桐生会長も、役員会で彼の管理能力を厳しく問いただしたらしい。


 以前の同僚からメッセージが来た。


【桐生会長、役員の前で「お前は事業を管理しているのか、それとも私情で人事を動かしているのか」って言ったらしい】


 続いてもう一通。


【白石さんも辞めたよ】


 画面を見つめた。


【まだ試用期間中だったんだけど、最近ミスが続いてたみたい】


【桐生さんとの噂で部署もかなりやりづらくなって、本採用にはならなかったって】


【辞める日は泣いてた】


【でも桐生さん、引き止めなかったらしいよ】


 読んでも、嬉しいとも悲しいとも思わなかった。


 ただ、妙に見覚えのある流れだと思った。


 悠真はいつも、自分が困った時になると、切り捨てやすい相手を選ぶ。


 以前は私だった。


 今度は美羽だっただけだ。


 青嶺では、新しい大型案件を任された。


 コードネームは「MORNING STAR」。


 私はまた忙しくなった。


 昼は顧客との会議、夜は企画書や仕様書の修正。気づけば夕食を食べないまま日付が変わっていることもあった。


 そんな頃、悠真からの連絡が再び増え始めた。


 ブロックしても別の番号から届く。


 最初は責めるような内容だった。


【紗季、これで満足か?】


【俺たちの問題のために、会社までこんなことにして、本当にそれでいいのか?】


 削除した。


 数日後、文面が変わった。


【紗季、俺が悪かった】


【美羽とは一度も正式に付き合ってない】


【あの子が俺をすごいって見る目が、ただ気持ちよかっただけなんだ】


【あの日だって、守ってやりたかっただけだった】


 さらに何日かすると。


【美羽はもう会社を辞めた】


【もう会わない】


【戻ってきてくれ。やり直そう】


 返事はしなかった。


 そのうち、彼は金の話を始めた。


【今まで紗季が出してた生活費は全部返す】


【配達して貯めた金も倍にして返す】


【欲しいものがあるなら何でも買う】


 最後の一文を見た時、あの雨の夜を思い出した。


 十万円。


 新しい電動自転車。


 悠真は今でも、すべてのものには金額がつけられると思っている。


 私はスマートフォンをサイレントにして、机の端に伏せた。


 MORNING STARの企画書に戻る。


 午後十一時を回った頃、オフィスにはほとんど人が残っていなかった。


 作業を続けていると、手元に温かい飲み物が置かれた。


 顔を上げる。


 神崎社長だった。


「明日の朝九時半、クライアントとの打ち合わせがありますよ」


 時計を見る。


「あと十分だけ」


「前回も同じことを言ってました」


 彼はホットミルクのカップを私の方へ少し押した。


「飲んだら帰ってください」


 それだけ言って、自分のオフィスへ戻っていった。


 カップを両手で持つ。


 まだ温かかった。


 人から大切に扱われるために、自分の価値を何年も証明し続ける必要なんて、本当はなかったのだ。



6



 一か月もしないうちに、悠真は青嶺のオフィス近くにあるカフェで私を待ち伏せした。


 その日は顧客との打ち合わせを終え、店に入った瞬間、奥の席に座っている彼が目に入った。


 明らかに痩せていた。


 顎には無精ひげが伸び、目は赤く充血している。


 テーブルの上には、保温容器が置かれていた。


 私に気づくなり立ち上がる。


「紗季」


 私は足を止めた。


 悠真は容器を持って近づいてきた。


「作ってきた」


 蓋を開ける。


 湯気と一緒に、豚汁の匂いが広がった。


 私が昔から好きだったものだ。


 一緒に暮らした五年間、冬になると何度も私が作った。


 けれど、悠真は一度もまともに台所へ立ったことがなかった。


「何度も練習した」


 彼は容器をこちらへ差し出す。


「少しだけでも食べてみてくれないか?」


 豚汁を見た。


 思い出したのは、一緒に食卓を囲んだ日ではなかった。


 あの雨の夜だ。


 自転車を盗まれ、足首が腫れ、一人でコンビニの外に座っていた。


 スマートフォンには、たった一言。


 ――そんなことでわざわざ呼ぶの?


 悠真が低い声で言った。


「紗季......」


「もう一度、やり直せないか?」


 私は黙っていた。


「俺が悪かった」


「美羽に好かれてるのが、正直気持ちよかったんだ」


「俺の家のことを知ったあと、あの子が俺を見る目が変わって……それが新鮮だった」


 悠真は俯いた。


「でも、五年間一緒に暮らしてたのは紗季だ」


 しばらく彼を見た。


「昔、何度も思ったことがあるよ」


 悠真がすぐに顔を上げる。


「いつか悠真も、私に何か作ってくれたらいいのにって」


 目にわずかな光が戻った。


「これからなら、毎日でも――」


「でも、もう遅いよ」


 言葉を遮った。


 悠真の表情が固まる。


「紗季……」


 私は鞄から一部の書類を取り出し、テーブルに置いた。


「ちょうどよかった。これ、持って帰って」


 悠真が表紙を見た。


 顔色が変わった。


「青嶺が、東央デジタルソリューションズに出資する?」


「そう」


 ASTERのライセンス問題以降、東央デジタルソリューションズはいくつかの主要案件を失っていた。特にASTER関連事業の立て直しには資金と新しい技術基盤が必要になり、会社は第三者割当増資を含む資本業務提携を検討し始めていた。


「青嶺は増資を引き受けて、東央デジタルソリューションズの一部株式を取得する方向で協議してる」


「ASTER関連事業の再編も、その対象になる」


「この案件の担当は私」


「明日の午前十時、東央本社で桐生会長と正式に話す予定」


 悠真の顔から血の気が引いた。


 ASTER。


 かつて彼が最も誇りにしていた実績。


 自分は桐生家の力など借りなくても成功できると証明した案件だと、何度も語っていた。


 その事業の再建を巡る交渉で、今度は私がテーブルの反対側に座る。


 悠真が突然、私の手首をつかんだ。


「紗季」


「俺は何をすればいい?」


「どうしたら許してくれる?」


 指に力が入っている。


 手首が痛んだ。


「離して」


 悠真は動かなかった。


 私は彼を見た。


「昔だったら、こうやってつかまれたら、私を手放したくないんだって思ってた」


「今はただ痛いだけ」


 悠真の手が固まった。


 やがて、ゆっくり離れる。


 私は鞄を持ち、席を立った。


「紗季!」


 振り返らなかった。


「本当に悪かった!」


 カフェの扉が背後で閉まった。


 豚汁の匂いも、その向こうに置いてきた。



7



 翌朝十時。


 私は青嶺側のプロジェクト責任者として、初めて東央グループ本社へ入った。


 長い会議テーブルの向こう側には、桐生会長と東央側の幹部が座っている。


 悠真も父親の隣にいた。


 会議が始まり、私は東央デジタルソリューションズの現状、ASTER関連事業の再建に必要な資金、青嶺が提供できる技術基盤、それから資本業務提携後の計画について説明した。


 桐生会長は資料に目を通しながら、必要なところだけ質問した。


 私は一つずつ答える。


 悠真はほとんど口を開かなかった。


 時折こちらを見ていたが、目を合わせる理由もなかった。


 最終的に、東央側は青嶺からの出資を受け入れる方向で基本合意した。


 会議が終わると、桐生会長が手を差し出した。


「高瀬さん」


 その手を握る。


「三年前の件については、社内でも引き続き責任を明確にします」


「今日の提案はよくできていました」


「ありがとうございます」


 ほかの出席者が次々と会議室を出ていった。


 私は資料をまとめていたが、悠真だけは席を立たなかった。


 二人きりになる。


「紗季」


 手を止めた。


 悠真は鞄から封筒を一つ取り出し、テーブルの上に置いた。


「受け取ってほしい」


 触れなかった。


「何?」


「三千万円」


 眉をひそめた。


 悠真は低い声で続けた。


「今まで紗季が出してた生活費」


「俺のために夜、配達までして貯めてくれた金」


「正確にいくらだったのかは、もう分からない」


 少し間を置く。


「残りは……俺が紗季に返すべきものだと思ってる」


 封筒を見つめた。


 そこでようやく分かった。


 彼は今でも、計算している。


 五年間の家賃。


 食費。


 電車代を節約するために歩いた距離。


 雨の夜も寒い夜も走った配達。


 十分に大きな数字を提示すれば、いつかこの借りは返済できると思っている。


「悠真」


 彼が顔を上げた。


「いらない」


「紗季、これは金で――」


「でも悠真は、ずっとお金で考えてるよ」


 封筒を押し返した。


「あの雨の日は十万円を置いて、新しい自転車を買えって言った」


「今度は三千万円で、五年間を返そうとしてる」


 悠真の唇がわずかに動いた。


 何も言えない。


 長い沈黙のあと、彼は俯いた。


「五年間、紗季を試した」


「でも最後に分かった」


「試されるべきだったのは、俺の方だった」


 目が赤くなっていた。


「紗季」


「愛してる」


「ごめん」


 五年間。


 その言葉を、悠真の口から初めて聞いた。


 けれど心は驚くほど静かだった。


 昔なら何度も想像した。


 初めてデートした日。


 初めてこのアパートで暮らし始めた日。


 暖房代を惜しんで、同じ毛布にくるまりながらカップ麺を食べた夜。


 あの頃はずっと思っていた。


 いつか悠真が本気で「愛してる」と言ってくれたら、一生忘れないだろうと。


 今、ようやく聞けた。


 でも、もう必要なかった。


「謝罪は受け取る」


 悠真が勢いよく顔を上げた。


 目に一瞬だけ希望が戻る。


「でも、戻らない」


 その光が消えた。


「愛って、相手に五年間かけて価値を証明させることじゃない」


「都合のいい時だけ隠して、都合が悪くなったら好き勝手に扱うものでもない」


「失ってから、傷つけた分を金額に換算するものでもないよ」


 悠真を見つめた。


「私はあの五年間、本当に悠真が好きだった」


「だから一緒にいたの」


「今日、三千万円を受け取るためじゃない」


 悠真は座ったまま、長い間何も言わなかった。


 私は資料を持って出口へ向かった。


 ドアの前で、再び声が聞こえた。


「紗季」


 振り返らない。


「もう二度と、こんなふうに誰かを愛したりしない」


 二秒ほど立ち止まった。


「それならよかった」


「でも、その相手はもう私じゃない」


 扉を開けた。


 そのまま外へ出た。



8



 廊下の先で、神崎社長が窓際に立っていた。


 私を見ると、一言だけ尋ねた。


「終わりました?」


「はい」


「じゃあ行きましょう」


 自動販売機で買ったらしいホットコーヒーを渡してくる。


「午後はクライアントとの打ち合わせです」


 受け取った。


「神崎さん」


「はい?」


「本当に雰囲気を壊すのが上手ですね」


 神崎社長が笑った。


「プロジェクト責任者の遅刻の方が、雰囲気より重大です」


 私も笑った。


 エレベーターの扉が開き、二人で乗り込む。


 その時、ふと気づいた。


 悠真のことで眠れない夜が、いつの間にかなくなっていた。


 それから数か月。


 MORNING STARプロジェクトは順調に進んだ。


 第一フェーズのテスト結果は想定より良く、クライアントは早い段階で第二フェーズの予算を承認した。私のチームも六人から九人へ増えた。


 東央にいた頃、私は何か成功するたびに、無意識に功績を悠真へ渡していた。


 プロジェクトが成功すれば、悠真の判断が良かったから。


 顧客に評価されれば、悠真の交渉がうまかったから。


 私の企画書を褒められても、いつも最後には「桐生もかなり手伝ってくれました」と付け足していた。


 今はもうしない。


 自分がやった仕事まで、誰かに分け与える必要はないのだ。


 ある日、奈緒と食事をしている時だった。


「ねえ紗季」


「神崎さんって、あんたのこと好きなんじゃない?」


 危うくお茶を吹きそうになった。


「考えすぎ」


 奈緒は納得しない。


「夜中にホットミルク持ってくる」


「悠真が絡んできたら自然に止める」


「最近は一緒に帰ってるんでしょ?」


 カップを置いた。


「社長だからでしょ」


「社長だからって、そこまでする?」


 返事はしなかった。


 本当は、何も感じていないわけではない。


 ただ、悠真とのことがあってから、少し優しくされたというだけで、すぐにそれを恋愛だと思わなくなった。


 尊重してくれる人がいる。


 自分の能力を認めてくれる人がいる。


 疲れている時に、温かい飲み物を一杯渡してくれる人がいる。


 まずは、それだけでいい。


 急いで名前をつける必要も、答えを出す必要もなかった。


 その距離が、今の私にはちょうどよかった。



9



 三か月後、MORNING STARプロジェクトが正式にリリースされた。


 第一フェーズの結果は予想以上に良かった。


 打ち上げの日、若いメンバーたちはかなり飲んでいて、何度も私を呼んでは「高瀬さんも一言お願いします」と騒いでいた。


 グラスを手に立ち上がる。


 目の前のチームを見ていると、五年前、東央へ入社したばかりの自分を思い出した。


 あの頃の未来は、とても単純だった。


 仕事を頑張る。


 悠真が一番苦しい時期を支える。


 彼が起業して成功する。


 そして結婚する。


 桐生悠真がいない人生で、自分が何をしたいのか。


 そんなことを、私は一度も真剣に考えたことがなかった。


 今なら答えられる。


 打ち上げが終わり、一人で店を出た。


 白波市には少し前まで雨が降っていたらしく、道路はまだ濡れている。


 目の前を、フードデリバリーの電動アシスト自転車が通り過ぎた。


 リアボックスの反射板が夜の街に光る。


 足が止まった。


 数か月前の雨の夜を思い出した。


 盗まれた自転車。


 腫れた足首。


 水たまりのそばに座り込み、来るはずのない人を待ちながらスマートフォンを握っていた自分。


 あの時は、五年間すべてを失ったと思った。


 でも違った。


 失ったのは五年間じゃない。


 もう待つ価値のない人を、ようやく手放しただけだった。


 ポケットの中でスマートフォンが震える。


 MORNING STARのグループチャットだった。


【高瀬さん、クライアントから来週第二フェーズ正式開始でOK出ました!】


 続いて奈緒からもLINEが届く。


【また夜中まで仕事しないでよ。週末ご飯行こう】


 笑って「了解」と返した。


 後ろで店のドアが開く。


 神崎社長が出てきた。


「まだ帰らないんですか?」


「今帰ります」


 二人で駅の方へ歩き始める。


 雨上がりの風が少し冷たかった。


 コンビニの明かりが濡れた歩道に反射している。


 交差点まで来た時、神崎社長が突然口を開いた。


「じゃあ、紗季さん」


「来週、プロジェクトが一段落したら、時間ありますか?」


 顔を向けた。


「仕事ですか?」


「違います」


 返事が早い。


 思わず立ち止まった。


 神崎社長は前の信号を見たまま言う。


「ゆっくり考えてください」


「急いでませんから」


 信号が青に変わった。


 彼が先に横断歩道へ足を踏み出す。


 私はその場で二秒ほど立ち止まり、思わず笑った。


 それから、その背中を追った。


 五年前。


 私は一人の人を愛するために、自分の世界をどんどん小さくしていった。


 今なら分かる。


 本当に残すべき関係は、誰かに自分自身を失わせたりはしない。


 それを知るまでに、五年かかった。


 早すぎもしない。


 遅すぎもしなかった。




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