偽りの深淵と、砕け散る白銀
地下の儀式場。
豪奢な女神像の幻影が崩れ去り、現れたのは、悍ましい巨大な一つ目の肉塊――『虚飾の神』の真の姿だった。
『――アハハハハ! 我が美しい国へようこそ、羽虫共! 我が楽園を泥足で汚した罪、その命と血で贖ってもらおうかァ!』
幾重にも重なった不気味な混声が、地下空間に木霊する。
虚飾の神の巨体から、甘ったるく吐き気のする香の煙が爆発的に吹き出され、儀式場を瞬く間に毒々しい黄金の霧で満たしていった。
「下がりなさい。あの悪趣味な化け物は、私が斬るわ」
カノンは静かに告げ、自身の血で創り出した真紅の大鎌を構えた。
だが、彼女の背後にいた二人は、その言葉を素直に聞くようなタマではなかった。
「民間人は下がっていろ! ここは元・天使である私が盾となる!」
大盾を構えて前に出るセラフィに、短剣を拾い上げたミアが舌打ちをした。
「はぁ? 誰が民間人よ、この羽なし天使。私はあんな醜い化け物に幻覚を見せられてたのがムカつくから、八つ裂きにしてやりたいだけ!」
「主の御前で口を慎め、野良猫! 勝手に動いて連携を乱す気か!」
「うっさい! 足引っ張ったらアンタのことも刻むからね!」
二人は初対面から最悪の相性だった。
バチバチと火花を散らしながら、セラフィは盾を構えて突撃し、ミアは獣のような低い姿勢で霧の中へと飛び出していく。
「……はぁ。どいつもこいつも、人の話を聞かないわね」
カノンはため息をつきながらも、大鎌を振るって二人を援護した。
序盤は悪くない勝負だった。セラフィの堅牢な盾が虚飾の神の触手を弾き、ミアの素早い双剣が死角から肉を削ぐ。カノンの神聖な魔力が、敵の再生を阻害していた。
――しかし。
虚飾の神は、下卑た笑いを浮かべたまま、その巨大な一つ目をギラリと光らせた。
『アハハ! 威勢がいいなぁ、羽虫共。だが、お前たちの心は……ヒビだらけだ』
虚飾の神が一つ目から放ったのは、破壊の光線ではなかった。
周囲の黄金の霧を媒体にし、相手の脳内に直接作用してトラウマや願望を抉る、最悪の精神攻撃『偽りの深淵』だった。
「……安い幻覚ね」
カノンは自身の神聖な魔力で一瞬にして幻影を掻き消した。
だが、背後で戦っていた二人の動きが、ピタリと止まる。
「……姉、さん……?」
セラフィの瞳から生気が消えた。
彼女の脳裏に蘇ったのは、堕天の記憶。神々の腐敗に異を唱え、自分を庇って光に焼かれ、翼を千切られて死んでいった美しい姉の姿。
『アハハハ! お前は姉を救えなかった。お前が真面目ぶって神々の言葉を鵜呑みにしていたからだ。お前には誰も守れない。その盾は、姉を見捨てた臆病者の証だ……!』
「……違う……私は……!」
虚飾の神の声にトラウマを抉られ、セラフィの力なく大盾が地面に落ちた。彼女は崩れ落ち、頭を抱えて震え出した。
一方、ミアもまた、別の幻覚に囚われていた。
「あ……あったかい……お花畑……」
ミアは短剣を取り落とし、恍惚とした表情で空を掴もうとしていた。虚飾の神が見せていた、あの『幸せな夢』が再び彼女の脳内を支配したのだ。
『ミア。私を信じなさい。お前のようなゴミを愛してくれるのは、私だけだ。さあ、戻っておいで……』
「……かみ、さま……。ミアを……愛して……?」
洗脳から覚めたばかりで精神が不安定なミアは、完全に戦う意志を失い、フラフラと虚飾の神の方へ歩き出してしまった。
「二人とも、目を覚ましなさい!!」
カノンが叫ぶが、幻覚に囚われた二人の耳には届かない。
隙だらけになった二人を見て、虚飾の神は一つ目を大きく見開いた。
『アハハハハ! まずは、その薄汚い盾と猫から消し飛ばしてやろうッ!!』
虚飾の神の一つ目から、神聖な魔力を凝縮した最大威力の怪光線――『蹂躙の光』が放たれた。
動けないセラフィとミアを、跡形もなく消し去るための破壊の光。
「……ッ!!」
カノンの体が、思考よりも先に動いた。
光線が着弾する直前。二人の目の前に、白銀の髪をなびかせたカノンが飛び込む。
「……人の命を使い捨ての玩具みたいに扱うなんて、本当に反吐が出るほど美しくないわッ!!」
カノンは叫び、自身の魔力を限界まで練り上げた『血の防壁』を展開した。
ズガァァァァァァァン!!!
カノンの血の防壁と、虚飾の神の蹂躙の光が正面から激突する。
だが、結果は火を見るより明らかだった。
カノンの血は、確かに神聖で強力な魔力を秘めている。しかし彼女は、自身の美学から吸血鬼としての本能を拒絶し、これまで一度も『他者の血』を飲んだことがなかった。
血を吸うことで力を増すはずの吸血鬼としての力は、致命的なまでに弱かったのだ。神聖な魔力だけでは、上位存在である『神格』の壁を越えることはできない。
「……っ、あ……」
ピキッ、と防壁にヒビが入り、次の瞬間、蹂躙の光が防壁を粉々に砕いて、カノンの華奢な体を直撃した。
「ああぁぁぁぁぁッ!!」
鮮血が舞う。
カノンは大量の血を流し、力なく冷たい石の床へと倒れ伏した。彼女の白いドレスは赤く染まり、その瞳からはスッと光が失われていく。
『アハハハハ! 馬鹿な吸血鬼め! ゴミを庇って死ぬとは、滑稽の極みだァッ!!』
虚飾の神が勝利の雄叫びを上げる。
カノンの血飛沫を浴びたことで、ようやく強固な幻覚から引きずり出されたセラフィとミアは、目の前の凄惨な光景に息を呑んだ。
「……カノン、様……?」
セラフィは震える手で、倒れたカノンに触れた。
姉を救えず、そして今また、自分を庇って命を落とそうとしている気高き少女。
『……人の命を使い捨ての玩具みたいに扱うなんて、本当に反吐が出るほど美しくないわッ!!』
その言葉が、セラフィの胸に突き刺さる。彼女は私に「盾になれ」とは言わなかった。ただ、打算なく一つの命として尊重してくれたのだ。
ミアもまた、自身の足元で血の海に沈むカノンを見て、呆然としていた。
「どうして……」
ミアは震える声で呟いた。
生贄として買われ、幻覚でいいように利用されるだけだったゴミみたいな自分。そんな自分を、美しい彼女は命を懸けて庇ったのだ。
『豚のように幻覚で飼い慣らされて死ぬなんて、反吐が出るほど美しくないわ』
あの時、カノンは確かにミアを『ゴミ』ではなく、一つの『命』として扱ってくれた。初めて、本当の意味で自分を見てくれた。
それなのに。せっかく見つけた、本物の光が。
「……許さない」
ミアの瞳孔が、スッと細く、獣のように収縮した。
「あいつ、カノンを……傷つけた。絶対に、殺す。ぜんぶ切り刻んで、ぐちゃぐちゃにしてやる……ッ!!」
ミアは血塗れの双剣を握り直し、ギリッと歯を食いしばった。
セラフィもまた、地面に落ちていた大盾を拾い上げ、静かに立ち上がる。
「……行くぞ、野良猫。私が正面から奴の注意を引く。お前は死角から目を潰せ」
「指図しないで、羽なし天使。……でも、あいつを殺すためなら、使ってあげる」
カノンの気高き血が、決して交わるはずのなかった二人の反逆者を結びつけた。
圧倒的な神の力に抗うため、怒りに燃える白銀の盾と狂信の双剣が、今、虚飾の神へと牙を剥く。




