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泥水の味と、気高き吸血の流儀

神の国から下界へ降りて、数日が経った。

 道中で拾った(勝手についてきたとも言う)元・天使の騎士セラフィと共に、私たちは人間の住む小さな宿場町へと立ち寄っていた。


「カノン様、お湯加減はいかがでしょうか。もしぬるければ、私が魔力で適温に……」

「結構よ。それよりセラフィ、あなたずっと扉の前に立っているつもり? 流石に気が散るのだけれど」

「ハッ! 申し訳ありません、万が一不審者がカノン様の湯浴みを覗き見ようとした際、即座に両目を潰せるよう待機しておりました!」


薄汚れた宿屋の、これまたカビ臭い浴室。

 木の湯船に浸かりながらため息をつく私の声に、脱衣所の外からセラフィの暑苦しい声が返ってくる。

 彼女はあれからずっとこの調子だ。「私の盾になる」という宣言通り、食事の毒見から寝床の警護まで、二十四時間体制で私に付き従っている。真面目なのは結構だが、少し過保護すぎて息が詰まる。


「……はぁ。お湯まで濁っている気がするわ」


私はそっと目を閉じ、湯船の縁に頭を預けた。

 全身の関節が軋むように痛み、喉の奥がカラカラに乾いている。熱いお湯に浸かっているせいではない。体の内側から、焼けるような熱が込み上げてきているのだ。


――月に一度の、吸血衝動。


吸血鬼の血を引く私には、定期的に他者の血を欲する抗いがたい本能が備わっている。

 幼い頃、この熱と渇きに泣き叫ぶ私を、怠惰の神はただ黙って抱きしめ、夜が明けるまで背中をさすり続けてくれた。自分の血(神の血)を与えれば私が死ぬと分かっていたから。そして、他者の命を奪うことを良しとしなかったから。

 あの不器用で温かい手が、今はもうない。


「……っ、ふぅ……」


ズキリと疼く犬歯を舌先でなぞりながら、私は湯から上がった。

 粗末なリネンで体を拭き、黒い外出着に着替えて部屋へ戻る。


「カノン様、お顔の色が優れませんが……っ!?」


部屋で直立不動のまま待機していたセラフィが、私の顔を見るなり血相を変えた。

 無理もない。鏡を見なくてもわかる。今の私の瞳は、普段の落ち着いた真紅から、血に飢えた獣のようなドギツい赤へと変色しているはずだ。荒い息を吐きながらベッドに腰を下ろす私に、セラフィが慌てて駆け寄ってくる。


「ひどい熱です……! 病ですか!? すぐに街の治癒士を……いや、私が神聖魔術で……!」

「騒がないで。……病気じゃないわ。ただの、体質よ」


私は鞄を引き寄せ、中から小さなガラス小瓶を取り出した。

 道中の行商人から銀貨数枚で買い取った、保存用の『獣の血』だ。下界の猟師たちが、魔除けや薬の材料として使う粗悪品。

 小瓶の栓を抜き、私は一息にその赤黒い液体を喉に流し込んだ。


「……っ、げほっ……!」


最悪だ。

 泥水に錆びた鉄を混ぜて、数日放置したような腐臭が鼻を抜ける。舌が痺れるほどの不味さに、思わず咽せ返ってしまった。

 それでも、燃えるような喉の渇きはほんの少しだけ和らぎ、荒ぶっていた魔力が落ち着きを取り戻していく。


「カノン、様……? 今、何を飲まれたのですか。それは、まさか……」

「……見ればわかるでしょう。獣の血よ」


口元をハンカチで乱暴に拭いながら、私は顔をしかめた。

 吸血鬼が血を飲む姿など、元・天使の彼女からすればおぞましい光景に違いない。これで少しは私への盲信も冷めるだろう。そう思ってセラフィの方へ視線を向けた。


しかし、彼女の顔にあったのは、嫌悪でも恐怖でもなかった。

 深い、深い悲哀と、自責の念。

 セラフィは突然、私の足元にガタンッと膝をついた。


「な、何をしているの」

「……っ、なんという失態! 主がこれほど苦しんでおられたというのに、私は何も気付けなかった……!」

「だから、体質だって言っているでしょう。月に一度、こうして血を摂取すれば収まるのよ。大したことじゃ……」

「あのような泥水のような血を、カノン様のような気高きお方に飲ませるなど……私の盾としての名折れです!」


セラフィはそう叫ぶと、自身の首元を守っていた防具のバックルを外し、軍服の襟を大きく引き下げた。

 露わになったのは、鍛え抜かれつつも女性らしい、透き通るような白い首筋。彼女の白い肌の下で、力強い命の脈動がトクン、トクンと跳ねているのが見えた。

 吸血鬼の嗅覚が、彼女から放たれる『上質な魔力を帯びた血の匂い』を敏感に感じ取り、私の犬歯が再びズキリと疼く。


「どうか、私の血をお飲みください」

 セラフィは、一切の迷いのない真っ直ぐな青い瞳で私を見上げた。

「獣の血などより、元・天使である私の血の方が、必ずやあなた様の渇きを癒やせるはずです。さあ、遠慮はいりません。この首に牙を立て、私のすべてを喰らってください……!」


それは、文字通り命を投げ出すような、重すぎる献身。

 獣の血の不味さに辟易していた私の本能は、眼の前に差し出された『極上の食事』に飛びつきたくて悲鳴を上げていた。彼女の言う通りだ。この首筋に牙を立てれば、私の苦しみは一瞬で消え去るだろう。


――けれど。


「……服を、着なさい」

「カノン様……?」


私はゆっくりと立ち上がり、彼女の襟元を乱暴に引っ張り上げて、その白い首筋を隠した。


「勘違いしないで。私は、空腹を満たすためだけに誰彼構わず牙を立てるような、下等な獣ではないわ」

「し、しかし、カノン様はお苦しいはず……!」

「ええ、苦しいわ。この獣の血も、吐き気がするほど不味い」


私はセラフィを見下ろし、真紅の瞳で彼女の青い瞳を真っ直ぐに射抜いた。


「だからこそ、私が自ら牙を立てて血を吸うのは、私が『この子を自分のモノにしたい』と心から望んだ相手だけよ。ただの栄養補給のために、あなたを家畜扱いするつもりはないわ」


私の血を与え、そして相手の血をすする。それは私にとって、ただの食事ではなく、対等の関係を超えた『眷属化』という絶対の儀式なのだ。

 出会って数日の、私の庇護欲を勝手に刺激してくるだけのこの真面目な騎士を、勢いで狂わせてしまうわけにはいかない。


「私は誇り高き吸血鬼よ。自分の欲すら律せられないような安い女と一緒にしないで」

「……ッ!」


私の冷たくも静かな宣言を聞いたセラフィの肩が、ビクリと大きく跳ねた。

 怒らせただろうか。そう思ったが、彼女の顔を覗き込むと、その頬はなぜかほんのりと朱に染まっていた。


「あぁ……なんという……なんという気高さ……!」

「……え?」

「己の本能的な渇きにすら屈さず、他者をただの道具として消費することを良しとしない、その圧倒的な誇り高さと慈悲……! カノン様……やはりあなた様は、私が一生を懸けてお仕えすべき、真の『王』です……!!」


セラフィは両手で顔を覆い、感極まったように打ち震えている。

 いや、慈悲とかじゃなくて、単に美学と好みの問題なんだけど。


「……もういいわ。熱が引くまで寝るから、勝手に警護でも何でもしていなさい」

「ハッ! このセラフィ、カノン様が安らかな眠りにつけるよう、扉の前で一睡もせず見張らせていただきます!!」


私はベッドに潜り込み、シーツを頭まで被った。

 不味い血の余韻と、少しだけ残る体の熱。そして、扉の外に立つ過保護な忠犬の気配。

 下界の夜は酷く冷たくて不便だが、ほんの少しだけ、悪くないかもしれない。そんなことを思いながら、私は泥のように眠りに落ちた。


翌朝。

 私たちは宿を発ち、『虚飾の神』を信仰する教団が根城にしているという街へ向けて歩き出した。

 そこで、私がもう一人の『狂信者』と運命の出会いを果たすことになるとは、この時の私はまだ知る由もなかった。

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