静寂の夜と、寄り添う体温
怠惰の神の隠れ里を後にし、私たちは西の果て――『暴食の神』が支配する美食の都を目指して、深い森を歩き続けていた。
日が落ち、野営のための焚き火を囲む。
パチパチと爆ぜる赤い炎を見つめながら、私は自分の白い両手を見下ろしていた。
(……この手で、あの人を)
血の汚れはとうに拭い去ったはずなのに、私の手には、彼を斬り裂いた時の生々しい感触と、黄金の光の温もりがまだこびりついている気がした。
母の仇を討つためとはいえ、自分を愛してくれた存在を奪って得た、この強大な神格の力。その重さに、心がギリギリと軋む。
「……」
私が無意識に膝を抱え、小さく息を吐き出した時だった。
「はい、カノン。これ」
隣に、ポンッとレヴィアが座り込んできた。
彼女が差し出してきたのは、焚き火でこんがりと焼けた、一番大きくて美味しそうな串焼きのお肉だった。
「……いいの? あなた、まだお腹空いてるでしょう」
「うん。でも、これ一番上手に焼けたから、カノンにあげる。私、カノンがいっぱい食べる方が嬉しいもん」
いつもなら「私のご飯!」と絶対に食べ物を手放さない、あの大食いの竜が。
レヴィアはへへっと照れくさそうに笑い、私の手に無理やり温かい串焼きを握らせた。それは彼女なりの、最大級の慰めだった。
「……夜風が冷えますね」
背後から、ふわりと温かい布がかけられた。
セラフィが自身の白い騎士のマントを外し、私の華奢な肩を包み込むようにそっと羽織らせてくれたのだ。
「カノン様。あなたは気高く、美しい私たちの主です。ですが……どうか私たちの前でだけは、一人ですべてを背負い込もうとなさらないでください」
「セラフィ……」
「主の盾である私は、主の心の痛みからすらも、あなたをお守りしたいのです」
セラフィはそれ以上何も言わず、ただ静かに、私の背中を守るように後ろに座り込んだ。
そして、私のもう片方の隣には、ミアが音もなく腰を下ろした。
彼女は何も言わない。ただ、私の空いている左手を両手でそっと包み込み、自分の頬にすり寄せた。
「……泣きたい時は、泣いていいよ。カノンが泣けないなら、私たちが代わりに怒るから」
ミアの細い指先から、人間らしい、けれど確かに温かい体温が伝わってくる。
天使、人間、竜族。
種族も生まれも違う三人。私がただ気まぐれに命を救い、血を与えただけの、狂信的な眷属たち。
でも今、彼女たちが私に向けてくれているのは、血の契約による強制的な忠誠心や快楽じゃない。
ただ純粋に、私の痛みに寄り添おうとしてくれる、不器用で真っ直ぐな『安らぎ』だった。
「……本当に、あなたたちは……」
張り詰めていた心の糸が、じんわりと解けていくのを感じた。
涙は出なかった。でも、冷え切っていた胸の奥に、焚き火よりもずっと温かい火が灯るのが分かった。
「……ありがとう。少しだけ、眠るわ」
私はレヴィアからもらった串焼きをかじり、ミアの肩にそっと頭を預けた。
背中にはセラフィのマントの温もり。隣にはレヴィアの寝息。
魔力を流すことも、血を吸うこともない静かな夜。
それでも私は、生まれて初めて、心の底から安心して目を閉じることできた。
この温かい『家族』がいれば、どんな絶望的な神が相手でも、絶対に負ける気はしなかった。




