優しき神の最期と、血塗られた慟哭
血の海に沈む、かつて美しかった隠れ里の花畑。
私の腕の中で、命の灯火が消えかけている育ての親――怠惰の神は、残された最後の力を振り絞り、私の服の袖を弱く握りしめた。
『……カノン。私から、最後のお願いだ』
「お願い……? 何でも言う通りにするわ。だから、喋らないで……っ!」
ボロボロとこぼれ落ちる私の涙を、怠惰の神は困ったように、けれど愛おしそうに見つめた。
『……私を、殺しなさい』
「――え?」
その言葉の意味が理解できず、私の思考がフリーズする。
『私の神格の半分は、暴食に奪われた。このままでは、残った半分も霧散して消えるか……あいつの腹を膨らませるだけの餌になる』
「嫌……嫌よ! そんなこと……っ!」
『傲慢の元へ行くには、すべての神を殺して、その力を奪うしかないんだろう? ……なら、私の残りの神格は、お前が喰らいなさい』
怠惰の神の言葉は、あまりにも残酷で、そして底抜けに優しかった。
彼は、自分が死ぬ間際でさえ、私を傲慢の神(父)の元へ送り届けるための『鍵』になろうとしているのだ。
「できない……! 私を育ててくれたあなたを、私の手で殺すなんて……そんなこと、絶対にできないッ!!」
『カノン。……お前は、泣き虫だけど、気高く美しい吸血鬼だ』
怠惰の神は、静かに私の真紅の瞳を見つめ返した。
『この不器用で、寝てばかりだった神の最期を……どうか、お前のその美しい手で、飾ってくれないか』
「……あ、ぁぁ……っ」
喉の奥から、獣のような嗚咽が漏れた。
彼には、もう助かる道がない。私の血を与えても、神格を半分喰われた神は元には戻らない。
ならば、せめて。あの薄汚い暴食の神ではなく、私の手で引導を渡すことこそが、彼への最大の恩返しであり、私の『美学』なのだ。
「……っ、わかっ、たわ……」
私は震える右手を持ち上げ、指先を噛み切った。
溢れ出す血が、真紅の大鎌へと形を変える。重い。いつもは羽のように軽い血の鎌が、今は鉛のように重かった。
「……ごめんなさい。ごめんなさい、私を、愛してくれて、ありがとう……っ!」
『ああ。愛しているよ、私の可愛い娘……』
怠惰の神が、最期に満足そうに微笑んだ。
私は目をきつく閉じ、大鎌を高く振り上げ――そして、彼の中央へと、静かに、優しく振り下ろした。
――ヒュンッ。
痛みは、なかったはずだ。
私の大鎌が怠惰の神の身体に触れた瞬間、彼の身体は眩い金色の光の粒子となり、ふわりと宙へ舞い上がった。
そして、その光のすべてが、大鎌を通じて私の身体の奥底へと流れ込んでくる。
「ああぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!!!」
私の絶叫が、血に染まった森に響き渡った。
流れ込んでくるのは、強大な神の力だけではない。彼が私に注いでくれた不器用な愛情、結界の中で共に過ごした穏やかな記憶。そのすべてが、私の心と身体を焼き尽くすように駆け巡る。
「カノン様……っ」
「カノン……」
背後で、セラフィ、ミア、レヴィアの三人が、私の悲しみに共鳴して涙を流しながら、静かに膝をついていた。
彼女たちにも、眷属の繋がりを通じて私の慟哭が伝わっているのだ。
やがて、光が完全に収まった。
森には、血の跡だけが残り、怠惰の神の姿は完全に消え去っていた。
私はゆっくりと立ち上がった。
涙は、もう枯れていた。
その代わりに私の内側を支配していたのは、神格を取り込んだことによる圧倒的な全能感と――すべてを凍りつかせるような、絶対零度の殺意だった。
「……セラフィ。ミア。レヴィア」
私が低く、冷たい声で呼ぶと、三人の眷属が弾かれたように顔を上げた。
「は、はいッ!」
「私の命に代えても」
「カノンの敵は、私が全部燃やす」
私は、自身の大鎌を虚空に向けて構えた。
その切っ先が向くのは、西の果て。あの醜い大男が消え去った方角。
「行くわよ。……神を喰らう、最悪の悪食。『暴食の神』の腹を掻き捌いて、あいつのすべてを泥の中に引きずり下ろしてやる」
悲しみは、もういらない。
育ての親を奪ったあの化け物に、一瞬たりとも安らかな死など与えない。
復讐の吸血鬼と、彼女に絶対の忠誠を誓う三人の狂信者たち。
血塗られた神殺しの旅は、後戻りのできない修羅の道へと、完全に足を踏み入れたのだった。




