破られた不可侵と、優しき神の最期
神の国と、人間の国。
そのちょうど境目に位置する深い森の奥底に、私の育ての親である『怠惰の神』が統治する隠れ里はあった。
数日間の旅を経て、私たちはその森の入り口へと辿り着いた。
だが、見慣れたはずの風景に、私は強烈な違和感と嫌な予感を覚えた。
「……嘘でしょ。結界が、ない」
いつもなら、森の入り口には怠惰の神が命を削って張った『完璧な防護結界』が存在し、神々の目すら欺く不可視の領域が広がっているはずだった。
しかし今日、その結界は跡形もなく消え去り、森の奥へと続く道が無防備に口を開けていたのだ。
「カノン様? どうされましたか、顔色が……」
「……急ぐわよ! 嫌な予感がする!」
私はセラフィの言葉を遮り、ドレスの裾を翻して森の中へと駆け出した。
もしかして、怠惰の神の体調がさらに悪化して、結界を維持できなくなってしまったのだろうか? それとも――。
不安が胸を締め付ける中、私たちは隠れ里の中心部、怠惰の神がいつも眠っていた小さな花畑へと飛び込んだ。
「……っ!!」
そして、その不安は、想像を絶する『最悪の形』で的中することになる。
一面に咲き誇っていたはずの白い花々は、赤黒い血でドロドロに染まり果てていた。
その血の海の中央にいたのは、山のように巨大で醜い『大男』。
そして――大男の太い腕に掴み上げられ、その無慈悲な顎によって、文字通り『喰らわれて』いる、怠惰の神の姿だった。
「ぁ……あ……」
私の喉から、声にならない掠れた音が漏れた。
ピチャリ、ピチャリと、大男が肉を咀嚼する悍ましい音が花畑に響く。
私たちが飛び込んできた気配に気づいた大男は、ギョロリとした濁った瞳でこちらを一瞥した。
「カノン様、下がって!!」
「カノンに何見せてるの、ぶっ殺す!!」
セラフィとミアが怒りに任せて飛び出そうとした、その瞬間。
大男は興味を失ったように「チッ」と舌打ちをすると、巨体に似合わぬ神速で、空間そのものに溶けるようにして一瞬で消え去ってしまった。
ドサッ、と。
喰い散らかされた怠惰の神の小さな身体が、血だまりの中へ無惨に投げ出される。
「……いやっ! あぁぁぁっ!!」
私は悲鳴を上げながら、怠惰の神の元へ転がり込むように駆け寄った。
その姿は、あまりにも凄惨だった。148cmしかなかった中性的な身体は下半分が完全に欠損し、残された上半身からも、神の命である金色の血が止めどなく溢れ出している。
「しっかりして! 今、私の血で……エリクシルにも負けない私の血で、治すからッ!」
私は震える手で自身の指先を噛み切り、怠惰の神の口元へ血を垂らそうとした。
だが、血に染まった小さな手が、私の腕を弱々しく、けれどきっぱりと押し留めた。
『……だめだよ、カノン。もう、手遅れだ。私の神格の半分は、もう……あいつの腹の中だからね』
「そんな……嫌よ、結界で守ってくれるって言ったじゃない……私を隠してくれるって……っ!」
私はボロボロと涙をこぼし、冷たくなっていく怠惰の神の手を両手で包み込んだ。
いつも眠たげだった怠惰の神は、酷く苦しそうに、それでも私を安心させるようにふわりと微笑んだ。
『ごめんね。……あの大男は、「暴食の神」だ。食えば食うほど力が増す、忌まわしき悪食……』
「どうして……どうして同族のあなたを……」
『……あいつ、お前が神々を殺して急激に強くなったことに、危機感を抱いたんだよ。だから、力を蓄えるために……手負いだった私を、喰いにきたのさ』
ガツンと、頭を殴られたような衝撃が走った。
私のせいだ。私が虚飾を、色欲を殺して力を示してしまったせいで、暴食の神の標的が、この優しい神に向いてしまったのだ。
「ごめんなさい……私のせいで……私が、復讐なんてしなければ……っ!」
私が泣き崩れると、怠惰の神は血濡れた指先で、私の頬の涙を優しく拭ってくれた。
『謝らないで、カノン。……ああ、本当に、大きく、強くなったね。お前の母親に、そっくりだ……』
怠惰の神は、遠い昔を懐かしむように目を細めた。
そして、命の灯火が消えかける中、私に最も残酷で、最も重要な『真実』を語り始めた。
『いいかい、カノン。よく聞きなさい。お前の父親であり……お前の愛する母を惨殺したのは、すべての神の頂点に立つ、最も神格が高い「傲慢の神」だ』
「……傲慢の、神」
『ああ。あいつの座する至高の玉座へ至るには、神の理を超えなければならない。……他のすべての神と共に行くか、あるいは……』
怠惰の神は、悲しそうに私を見つめた。
『すべての神を、殺して、その神格を奪うしか……道はないんだ』
「――ッ」
それが、私が父の元へたどり着くための、絶対の条件。
母を殺した傲慢の神を殺すには、育ての親である目の前の彼を含め、すべての神の命を終わらせなければならないという、絶望的な運命。
『……カノン。私から、最後のお願いだ』
怠惰の神の瞳から、スッと光が薄れていく。
彼は残された最後の力を振り絞り、私の服の袖を弱く握りしめた。




