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鳥籠の令嬢と、眠たげな神様

雲海を見下ろす、永遠に春のような白亜の庭園。

 それが、十七年間の私の世界の全てだった。


「……今日も、下界は騒がしいわね」


大理石のバルコニーから身を乗り出し、私は遥か下方に広がる分厚い雲の切れ間を見つめる。

 雲の向こう側には『人間界』と呼ばれる、神々が作り出したちっぽけな命たちが蠢く大地があるらしい。本で読んだだけの知識だが、そこは泥にまみれ、血を流し、短い寿命の中でひしめき合って生きる混沌とした世界だという。

 対して、私が今立っているこの場所は『神の国』。

 選ばれた絶対者だけが住まう、美しくも静まり返った停滞の楽園である。


ふと、視線を落として自分の手のひらを見つめた。

 透き通るような白い肌。日光に透かせば、青い血管が微かに見える。背中まで伸びた髪は、月明かりを溶かしたような銀色。そして、時折ひどく喉が渇き、全身を灼くような痛みに襲われるこの『吸血鬼』としての体質。


なぜ、神以外の種族である私が、この神の国にいるのか。

 その理由は、十七歳になった今でも知らされていない。


私が知っているのは、私を産んだ母親は、私という命と引き換えにこの世を去ったということだけ。父親の顔も、名前すらも知らない。私にとって『親』と呼べる存在は、物心ついた時からたった一人だけだった。


「ふぁ……あ……。カノン、起きてる……?」


背後から、気の抜けた欠伸の声が響いた。

 振り返ると、庭園に続くサンルームの長椅子で、シーツにくるまったまま芋虫のようにモゾモゾと蠢く人影があった。

 だぼだぼの寝巻きに、手入れのされていないボサボサの髪。性別すら曖昧な中性的な顔立ちには、常に深い眠気が張り付いている。

 このだらしない人物こそが、私をこの神の国で密かに育て上げた張本人――『怠惰の神』である。


「おはようございます。と言っても、もう太陽は天頂を過ぎていますけれど」

「んん……太陽なんて嫌い……眩しいし、なんか偉そうだし……。ねえカノン、喉渇いた……お茶、淹れて……」

「自分の足で歩いて数歩の距離に、水差しがありますよ」

「えー……歩くの疲れる……。可愛いカノンの淹れた紅茶じゃないと、僕、干からびて死んじゃう……」


シーツから片腕だけを出して、ひらひらと情けない動きで私を呼ぶ。

 私は小さく、けれど優雅にため息をついた。呆れながらも、結局は用意しておいたティーセットに手を伸ばし、少しぬるめの紅茶を淹れてやる。


「ほら、起きてください。こぼしますよ」

「んふふ、ありがと……。カノンは本当に、いい子に育ったねぇ……」


カップを受け取った怠惰の神は、ふにゃりとだらしない笑顔を浮かべた。

 この神様は、名前の通りとにかく怠惰だ。私が一人で服を着られるようになった五歳の頃から、身の回りの世話のほとんどを放棄し、今や「最低限死なない程度の環境」を与えるだけの超放任主義を貫いている。


けれど、私は知っている。

 神の国に隠し書庫として存在する資料室の片隅で、ボロボロになった一冊の育児日記を見つけた日のことを。

 そこには、私がまだ赤ん坊だった頃の記録が、几帳面な字でびっしりと書き込まれていた。


『夜泣きが酷い。三日寝ていない。神なのに倒れそう』

『初めて吸血衝動が起きたようだ。喉の渇きに泣き叫ぶこの子を見るのは辛い。私の血は奇跡を起こすが、神以外の者が飲めばその身を焼き尽くし、確実に死に至る。だから与えるわけにはいかない』

『他の神であれば、下界から人間の生贄を攫ってくるだろう。だが、この子を生かすために他者の命を奪うことなど、私にはできない。ただ手を握り、夜が明けるのを待つしかない。無力だ』


神の血を与えれば私が死ぬ。ならば他の命を犠牲にすればいいのに、この神はそれを絶対に良しとしなかった。

 息をするのすら面倒くさがるこの怠惰な神様は、かつて、得体の知れないハーフの赤ん坊だった私を生かすためだけに、己の無力さに絶望しながらも、なりふり構わず奔走してくれていたのだ。

 その不器用で、隠しきれない深い愛情を、私が嫌えるはずがなかった。


「……どうかしましたか? 私の顔に、何かついていて?」

「ううん。カノンは、お母さんに似て本当に綺麗だなって思って」

「母様をご存知なのですか?」

「……まあね。とても、優しくて美しい人だったよ」


怠惰の神は、目を伏せて紅茶をすする。その横顔には、いつも以上の疲労の色が濃く滲んでいた。

 気付かないふりをするのにも、限界だった。


「……最近、よく眠っていますね」

「んー……春だからねぇ……。春眠暁を覚えずって、人間界の言葉にもあるでしょ?」

「あなたの袖口に、血が滲んでいることも、春のせいですか?」


ピクリ、と怠惰の神の肩が揺れた。

 私は静かに歩み寄り、彼の手首をそっと掴む。だぼだぼの袖を捲り上げると、透けるような肌に、黒い呪いのような痣が幾重にも這い回っていた。


「……隠し通せると思っていましたか」


私の声は、ひどく震えていた。

 この庭園がなぜ他の神々に見つからないのか。怠惰の神が、自身の神格と命を削って、強固な『隠蔽の結界』を張り続けているからだ。

 そして何より残酷なのは、私には彼を救う術が何一つないということ。


「私の血を与えたところで、無意味なことは分かっています」

 ギリッと、唇を噛み締める。

「私がどれほど力をつけようと、所詮は半神の身。その神格は、弱った神と同等がせいぜい。……上位存在であるあなたの命を、エリクシルに匹敵する私の血をもってしても、救うことはできない……!」


万能の力などない。神格という絶対的な壁の前に、私はあまりにも無力だった。


「だーめ。そんな悲しい顔しないで」

 普段は決して声に芯を持たせない彼が、静かで、揺るぎない声で私を遮った。

 怠惰の神は困ったように眉を下げ、ゆっくりと私の銀髪を撫でた。


「お前は、生きてなきゃいけない。お母さんが、命懸けで護った子なんだから……僕が、絶対に護り抜くんだ……」


その言葉と共に、怠惰の神は限界を迎えたように瞳を閉じ、再び深い眠りへと落ちていった。

 彼の手首に広がる黒い痣は、昨日よりも確実に侵食を進めている。このまま私がここにい続ければ、間違いなくこの神様は死ぬ。私を隠すためだけに。


「……馬鹿な神様」


眠る彼の額にそっと触れる。ひどく冷たかった。

 私は立ち上がり、サンルームから自分の部屋へと戻った。

 迷いはなかった。私がここにいる理由が分からないのなら、外へ出て探せばいい。何より、私を愛してくれたこの不器用な親を、私自身のせいで殺すわけにはいかないのだ。


夜の帳が下りるのを待ち、小さな鞄に数冊の本と、少しばかりの金貨を詰めた。

 庭園の端、雲海へと続く境界線に立つ。

 私は自身の指先を僅かに噛み切り、滲んだ血を刃の形へと変える。血の短剣を突き立てると、強固なはずの結界は、まるでガラスのようにあっけなくひび割れた。私が出ていくための、人が一人通れるだけの小さな穴。


「……カノン」


振り返らなくてもわかる。結界が破られたことに気付き、這うようにして追ってきたのだろう。


「どこに、行く気……? 外は、危ないんだよ……僕の、そばにいなさい……」

「お世話になりました」


私は振り返らず、背筋を伸ばしたまま冷たく言い放った。


「こんな退屈で、停滞しただけの鳥籠には、もううんざりしていたのです。私は私の意志で、人間界へと下ります。止めないでください」

「カノン……」

「どうか、お元気で」


神の庇護を自ら捨てた、愚かな反逆者。

 そう思われた方がいい。追いかける気力すら起きないほど、私に愛想を尽かしてくれればいい。そうすれば彼は、彼らしく怠惰に眠って過ごせるのだから。


雲海から吹き上げる冷たい風が、私の銀髪を激しく揺らした。

 私は結界の穴を通り抜け、足場のない雲の海へと、迷うことなくその身を躍らせた。


一瞬だけ視界の端に映った怠惰の神は、泣き出しそうな、それでいて少しだけ安堵したような、ひどく優しい顔で笑っていた気がした。

 ――ああ、本当に。手のかかる、厄介な子だ。

 風の音に紛れて、そんな不器用な親の呟きが聞こえたような気がした。


真っ逆さまに落ちていく。

 これから始まる果てしない復讐と血の運命へと導かれるように。

 見開いた真紅の瞳で、私はまっすぐに人間界の大地を見据えていた。

怠惰の神

性別不明

年齢 / 身長:不明 / 148cm(中性的で大人と子供の間のようなスタイル)

種族: 神

イメージカラー: まどろみのペールブルー & 淡いラベンダー


ビジュアル: 手入れのされていないアッシュグレーのボサボサの髪に、常に眠たげな半開きの目。体型を隠すようなだぼだぼの寝巻きを着ていて、袖が余っている。その袖の下には、命を削って結界を張っている代償の「黒い呪いのような痣」が這い回っている。


武器・戦闘: 戦闘は「疲れるから」全力で拒否する。本来の力は、外界からの干渉を完全にシャットアウトする「絶対防御の結界」や「空間隔離」などの防御・隠蔽特化。自分から攻撃することはほぼなく、あくまでカノンを「守るため」「隠すため」に力を使う。


性格: 面倒くさがりで一日中寝ていたい超放任主義。しかしその本質は、神々の中で最も優しく倫理観が高い。他者の命を奪ってまで生き長らえることを絶対に良しとせず、カノンのためなら自分の命や神格が削れることもいとわない、不器用だけど深すぎる親心を持っている。


備考: カノンを赤ん坊の頃から隠して育てた親代わり。隠し書庫にこっそり「カノンの育児日記」をつけていた可愛い一面がある。カノンの母の死の真相や父親のことを知っているが、カノンを復讐の連鎖に巻き込まないためにずっと隠し通そうとしている。

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