プロローグ:夜凪とおばあさんの出会い
満月が海面を銀色に染める夜。
波打ち際を一匹の小さな猫がとことこと歩いている。月の光を受けて白く輝く金色の毛並み、そして可愛らしいピンク色の耳を持った猫だ。
「はぁ……お腹、空いたなぁ……」
猫——まだ名前のないこの猫は小さく呟く。
村の仲間たちはこの猫のことをちょっと変わり者だと思っている。みんなが人間を警戒しているのに、この猫だけは人間が大好きで興味津々なのだ。
「うーん、人間ってどんな生活してるんだろう?」
「ねぇねぇ、人間の作るご飯って美味しそうじゃない?」
「あっ、人間と仲良くなれたらいいと思わない?」
そんなことを口にするたびに、村の仲間たちは首を傾げて理解してくれなかった。
猫は浜辺で月を見上げる。
「私は……人間のこと好きなんだけどなぁ…」
お腹が空いて少し元気がなくなってきた。でも、諦めずに食べ物を探そうと歩いていたその時——
「あら、こんなところで何しているの?」
優しい声が聞こえた。
顔を上げるとそこには一人のお婆さんが立っている。薄いピンク色の髪、眼鏡の奥の優しい瞳、紫色のカーディガン。そして何より、温かい笑顔をしていた。
「随分と痩せてるわね。お腹空いてるの?」
お婆さんはカバンをごそごそと探り始める。
「ちょうど温泉の帰りでね。あ、あったあった。これ食べる?」
差し出されたのはカルパスだ。
香ばしい匂いが鼻をくすぐり猫の目がきらきらと輝く。
「にゃあ!」(食べたい、食べたい!)
嬉しくて思わず大きな声で鳴いてしまう。お婆さんは優しく微笑んで、カルパスを小さくちぎって差し出してくれる。
「ゆっくり食べてね。喉に詰まらせないように」
猫は夢中でカルパスを食べる。初めて出会ったのに躊躇いもなくカルパスをくれたお婆さんの優しさに触れて猫は自然と笑顔になった。
「いい子ねぇ。あなた、名前はない…みたいね? それなら静かな夜の海で出会ったから……夜凪って名づけようかしら?」
「夜凪……わぁ! 私の名前!! えへへ、凄くピッタリで嬉しい!」
「にゃあ、にゃあ!」(ありがとう、ありがとう!)
嬉しくてお婆さんの足元にすりすりと体をこすりつける。お婆さんは優しく撫でてくれた…その手の温かさがじんわりと心に染みていく。
「ふふっ、ありがとう。夜凪ちゃんと出会えて癒されたわ。さて、そろそろ帰らないと」
お婆さんは立ち上がる。
「元気でね、夜凪ちゃん」
お婆さんは手を振って歩き出す。
「あっ、待って!」
夜凪は慌てて追いかけようとした。でもお礼を言いたい気持ちともっと一緒にいたい想いとは裏腹に、体はまだ思うように動かず数歩進んだところでふらついて転んでしまう。
顔を上げた時にはもうお婆さんの姿は見えなくなっていた。
「……お婆さん」
夜凪はぽつりと呟く。
月明かりの下、白く輝く金色の毛並みを風になびかせながら夜凪は心に誓う。
「いつか絶対にお礼を伝える」
手がかりはお婆さんが「温泉の帰り」と言っていたこと。そして薄いピンク色の髪、眼鏡、紫色のカーディガンを着たその優しい姿。
「わかっているのはそれだけだけど…諦めない!」
夜凪はより一層人間を好きになり、必ずまたお婆さんに会うという固い決意が芽生えた。
それから数年後——
山の奥深くに一軒の温泉旅館が建つ。
看板にはこう書かれている。
温泉旅館「夜凪の家」
金髪をポニーテールにした、猫耳の少女が旅館の入り口で笑顔を浮かべている。
「いらっしゃいませ。ようこそ、夜凪の家へ」
女将となった夜凪の新しい物語が始まろうとしている。




