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十字架の女神

海辺(十字架の女神 外伝)

作者: 光城佳洲

【登場人物、作品設定】


八重神 真唯佳

小学6年生。彬の従姉妹として同居しているが、彼と血の繋がりはない。

ほぼ普通の女生徒だが、実は異世界の国、ニーベルの王女、マディラ。

本来なら国王をも凌ぐ特殊能力を持っているが、ニーベルでの記憶とほぼ全ての能力を封じ込められ、日本のとある街に、彬と叉夜と住んでいる。


笹薙 彬

小学校で6学年に所属しているが、本来は真唯佳より年上。

ニーベル人。本名ジュリアン・ソレイユ・ヴィンランド。別名、英知の翁子。

本国では士官学校「学院」の上級学年。博学で結界の名手。

国王の密命を受けて、騎士として歳を誤魔化して真唯佳の護衛についている。


叉夜

笹薙家の若い住み込みの家政婦。

ニーベル人で猫に姿を変えることができる。



・赤の世界

いわゆる妖怪、怪物、亡霊、魔法使い、その他異形の者と見なされている者達が住む世界。人間と違い、大抵は特殊能力がある。

名前の由来は、上空から見た時に、水の色が赤く見えるため。土に含まれる成分比が、青の世界と違うと言われおり、水質も多少違う。


・ニーベル国

赤の世界最大の国で、世界の全面積の1/4を支配している。

異形のものも多数住んでいるが、能力が高い魔術師等が国家の中枢におり、国全体を統括している。

国家形態は絶対君主制であり、王家が絶大な権力を持ち、圧倒的な特殊能力で支配している。官僚機構が存在しており、大多数が貴族と言われる上級の能力者達である。

赤の世界 ニーベル国


青の世界とも呼ばれる、人間界での任務の合間に王都に戻ったジュリアンは、すぐに士官学校の、通称「学院」の学院長室へ呼び出された。

王都の空は澄み渡り、風は心地よく肌を撫でていたが、学院長の声は乾いていた。


「これを。陛下からの極秘任務だ」

重々しく渡された封筒を開くと、中には分厚い紙束──魔法の触媒に関する生成手順と成分の分析だった。表紙には、厳かに刻まれた王家の印章。


「……これが、あの噂の触媒ですか」

ジュリアンの声は低く、眉間にしわが寄っていた。


「そうだ。長年、王直属の研究班が密かに開発してきた。命令は単純明快。この触媒を元に兵器を新規開発し、導入した際にどれだけ国力を増強できるか、理論・実地の両面で見積もれ。期限は一ヶ月以内だ」

手にした資料に目を通すにつれ、ジュリアンの表情が硬くなる。

触媒の反応速度、拡張性、威力は確かに、前評判通り驚異的だった。

だが──


「これは、使用者の魔力への負荷が大きすぎます。長期使用すれば体内組織の劣化や崩壊の可能性もある。さらに副生成物の大気・水質汚染も……」

頭の中で、瞬時にその触媒の性能を見積もったジュリアンが書類から目を離し、戸惑いの声を上げる。

しかし、学院長は冷めた目で言い放った。


「だとしても、陛下の命令は絶対だ。君の感情や理想は求められていない。現実を見ろ、英知の翁子。これは戦略だ」

強い口調に、ジュリアンはそれ以上何も言えず、紙束を鞄に収めて、マントのフードを被り、仮面を着けて学院長室を後にした。



――――――――――



騎士(ナイト)」の極秘任務中に姿を見られては不都合なため、仮面をはめたジュリアンが人目を避けるように校舎を出て裏庭を横切ると、少し先に見覚えのある大柄な背中が目に入った。

「……父上」

自軍の戦術服の上に軽装の軍外套を羽織った、陸軍元帥であり土の支配者。

「──ジュリアンか。戻っていたのか」

マクシミリアヌスが気づいて声をかける。

──父の隣には、長い銀髪を揺らした女性がいた。


彼女の腕は、確かに父の腕に絡んでいる。

艶やかで、冷ややかな微笑を浮かべた彼女こそ、水の四元素の支配者。海軍を束ねる女将軍だった。

通常、学院には上流貴族の男子が入学するが、予言を受けた女子も数は少ないが在籍している。

水翁もそんな一人だった。


仮面の奥のジュリアンの視線は、水翁が自然に絡めた腕に注がれていた。

「父上は……今日はスカウトで?」

「そうだ。インターンの適性を見に来た。──イリナ、腕を」

息子の鋭い眼差しに気付き、土翁が目で促すと、イリナは「ふふ」と笑いながら腕を離したが、決して一歩も距離を取ることはしなかった。

彼女は、父の隣に堂々と立つ。

(四元素の支配者同士は特別な絆で結ばれている一方、結婚してはならない。それでも……)


この国は一夫多妻制が採用されているが、母からは、「王都で正妻は自分一人のみ」という約束で父親と結婚したと聞いていた。

しかし、男性から見たら「鬼神」と恐れられる硬派な父も、女性から見たら魅力に溢れるらしく、地方拠点にいる愛人達を黙認しているというが、ジュリアンは父親の隣に母以外の女性が並ぶ姿を実際には見たことがない。

けれど、こうして父親が他の女性といるのを目の当たりにすると、胸の奥に鈍い違和感が残った。

──例えそれが、「特殊能力の運命」による縁で、お互いに異性として見ていなくても。


(正妻がいても、外で他の女性と親しくする。それが大人では“当然”の世界なんだろうか。僕もいずれ、そうなるのか……?)

王の命令に背くこともできず、憂鬱な気持ちになったところに、家制度に組み込まれていく運命を思うと、彼の胸の奥がひどく冷たくなった。



――――――――――



ようやく人間界での自宅の地下室にたどり着いて、「彬」となったジュリアン。

青の世界への扉を潜ると、異界を繋ぐ魔法の扉は背後で淡く光りながら、ゆっくりと音を立てて閉じられる。


帰国したばかりの彼の表情は、いつになく冴えなかった。

学院長からの新たな指令に違和感を覚えて、偶然立ち話を交わした父親の言葉──「王に仕える以上、個人の感情は切り捨てるべきだ。誰に何を与え、何を奪うかは、己の好みでは決められん」

そして父親と遭遇した後、ふと思い出した、いつか士官学校の先輩に言われた無神経な一言──「堅物そうに見えるお前もいずれ父上のように、あちこちの貴族令嬢と親しくなるんだろ?」


胸の奥に沈んだそれらがじわりと重くのしかかり、仮面を外す手もどこか鈍かった。

手に抱えた分厚い書類の束。

任務報告書と、次の課題。

あの父のようになるのか──正式な妻を持ちながら、外では他の女性と笑いあう。

それが貴族の「当然」なのか? 

だとすれば、自分が今思っているこの気持ちは、果たして愚かな夢なのだろうか。


暗い感情を振り払うように、重たい足取りで居間へと向かう。

気分転換にお茶を飲むため、キッチンにいる叉夜に準備をしてもらおうと、人間界では不似合いな衣装を気にせず廊下の扉を開ける。


その瞬間だった。

「おかえりなさい」という、聞き慣れた言葉が耳に届いた瞬間──

目の前に、まばゆい金の光が広がった。

彬の意識は、どこか別の場所に引き込まれるように、静かに揺らいだ。


一瞬のまどろみ。

それは現実か、未来か、それとも夢の記憶か。

脳裏に浮かんだのは、重厚な扉の奥、光と静けさに包まれた「居間」だった。


そこは──中世西洋の王宮のような、最も格式高い、正妃の私室。

分厚い石壁には淡いアイボリーの漆喰が丁寧に塗られ、時を経た柔らかな白が午後の日差しをやさしく受け止めていた。


天井は高く、ゴシック様式の梁がアーチを描き、その先の高窓から絹のようにしなやかな光が差し込んでいる。

床にはダマスク柄の織物を重ねたカーペットが敷かれ、歩いても足音が立たないほど柔らかい。


壁際には金糸とロイヤルブルーで縁取られたソファや肘掛け椅子が並び、背後には蔦模様が美しいマホガニーの書棚。

魔導書や神学書、家系図が収められ、それぞれの装丁に職人の手仕事の気配が漂っていた。


暖炉の上には彩色の木彫り聖画。横には白檀を焚いた香炉があり、かすかな香りが空気に溶け込んでいる。

部屋の中央には楕円形のテーブルが置かれ、紋章入りの銀のティーセットから淡い湯気が立ちのぼる。

窓辺の緋色のカーテンは風に揺れ、隙間から覗く庭には剪定された白バラが整然と並んでいた。


そこにいたのは──愛しい妻。

まるで動かぬ絵画のような威厳と優雅さをまとう。

長く波打つ金髪を軽く結い上げた女性が、静かに刺繍をしながら、柔らかく微笑んでいる。

彼女のドレスは、真珠を編み込んだサテン地で袖口には紋章が刺繍されていた。


傍らには、まだ幼い少年が一人、絵本を抱えて床に座っていた。

彬をそのまま小さくしたような、静かな漆黒の瞳をした子ども。


誰も言葉は発さず、ただ静かに時が流れている。

何もかもが、優雅で、静謐で、そして──どこか、儚い。


ソファに微笑みながら座っている、金髪の気品ある美しい女性からは暖かな香りと優しい空気。彼女は優しく言う──「おかえりなさい」

けれど、その顔は、どうしても思い出せない。


「……おかえり」

幻想は唐突に消え、現実が戻ってきた。

目の前にいたのは、凛とした表情で見上げる真唯佳だった。

ソファの上で、両手を膝に置いて、小さく声をかけてくれた。

長い黒髪の間から覗く澄んだ目が、真っ直ぐと彼を見つめる。


「……ただいま」

彬は小さく微笑み返した。真唯佳の一言で、張り詰めていた心がふっと軽くなるのを感じた。

キッチンから振り返った叉夜が、彬の姿を見てにっこりと笑う。

「おかえりなさいませ、彬様。」


「……お茶を、淹れてもらおうと思って」

そう言って書類が入った封筒をダイニングテーブルに置くと、彬は静かに階段を上がっていった。


自室に入ると、着替えのために上着を脱ぎながら、先ほどの幻想を思い返した。

あの夢の中の妻は──暖かく、自分の心を包んでくれた。

「ただいま」と言えば「おかえりなさい」と笑ってくれる。

そんな女性が、もしこの先の人生にいたなら──その隣で、国や任務の重圧も忘れられるだろうか。


──それは、たとえば。

……今、目の前で「おかえり」と言ってくれた彼女のように。


軽装のシャツに着替えて階下へ戻ると、真唯佳はまだソファの端にちょこんと座り、彬の湯気立つティーカップをじっと見ていた。


「どうかしたの?」

彼がそう聞くと、真唯佳は小さく首を横に振った。

「……帰ってきたとき、ちょっと怖い顔してたから……」

彬は驚いたように目を見開いた後、すぐに顔を和らげて笑った。

「……ああ、ただ少し、帰り道で嫌なことがあってね。でも、父王から君に関する命令は、何もなかったよ。安心して」

真唯佳はほっとしたように胸に手を当てた。

「よかった……」

その仕草があまりにも純粋で、彬の胸にまた別の感情がわき起こる。


ああ、自分は──政略でも義務でもなく、どんなに心が荒んだ任務からでも、こうして「おかえり」と迎えてくれる、ただ一人の女性と生きていきたいんだ。

まだ誰にも言えない願い。

でも、その芽は確かに心の奥に根を張っていた。


彼はカップに口をつけながら、そっと真唯佳に目をやる。

静かに見守ってくれるその眼差しが、今の自分にとって何よりの癒しだった。


放課後のリビング。

カーテンの隙間から西日が差し込むなか、真唯佳は珍しくソファに座り込んだまま、じっと何かを考えていた。

学校から帰ってきてすぐのままらしく、足元にはランドセルも置かれている。

きっと、異世界に足を運んだ彬を、帰国後すぐに捕まえようとずっと居間にいたのだろう。

そんな彼女の様子に気づいて眉をひそめた。


「……どうしたの、学校で何かあった?」

声をかけると、少し間を置いて真唯佳がぽつりと口を開いた。

「……修学旅行の班決めがあったの。でも……」

「でも?」

「……行きたくない」

いつもなら「うん」か「いいえ」で終わるような短い返事しかない彼女。

躊躇いながら口を開くので、彼は話の続きを促すと、珍しい告白だった。


今の学校に転校して1年以上経っているが、内気で心に傷を負っている彼女が未だ学校に馴染んでいないのを、彼は知っていた。

宿泊ともなると、恐らく背中の傷も見られることになる。

彬はそっとティカップを机に置き、目線を合わせず、静かに言葉を返した。


「無理に行かなくていいよ。どうせ、ここに長くいるわけじゃないんだ。能力が戻れば、ニーベルに帰る。思い出なんて、無理して作る必要はないよ」


真唯佳は少しだけ目を見開き、視線を膝の上に落としたまま、小さく頷いた。


「……彬君は、修学旅行、行きたくないの?」

「いや。僕も、小学校に強い思い入れがあるわけではないから」

そう言いながら、彬はふと思いついたように表情をやわらげた。


「……なら、せっかくだし、同じ日程でどこか行ってみようか?考えてみれば、一緒に住むようになって、どこか遠くに行った記憶がない」

その提案に、キッチンで料理をしていた叉夜がふいに顔を上げた。

「彬様、それは──」

「理由なく学校をサボって良いわけじゃないのはわかっている。だけど見方を変えれば、休むに値する動機だよ。かと言って修学旅行中に、ずっと家に閉じこもっているのも息苦しいから。」

そう言いながらイタズラっぽく微笑む彬を見た叉夜は、しばらく考え込むようにしてから、しぶしぶ頷いた。

満足そうな顔をした彬は、真唯佳の方に向き直る。

「どこか、行ってみたい場所はある?」


沈黙。


けれど、やがて真唯佳は口元をかすかに動かした。

「……海。見たこと、ないから」



――――――――――



修学旅行当日


車のエンジン音が響くなか、三人は海沿いの温泉街を目指していた。

真唯佳は後部座席に座って、車窓の景色をじっと眺めていた。

肩に力が入っていて、落ち着かない様子が伝わってくる。


助手席の彬は、ちらりとルームミラーで彼女を見たが、あえて声はかけなかった。

高速を降りてしばらく走ると、突然、視界が開けた。


水平線がゆるやかに広がる、光の帯のような海。


真唯佳の目が、それに吸い寄せられるように見開かれた。

その変化に気づいた叉夜が、ほっと息をつくように言った。

「旅館にチェックインしてきますから、お二人は先にあの浜辺に行っててくださいな。すぐ戻りますから」

車が停まった。


彬と真唯佳は並んで歩き、波打ち際へと向かった。

オフシーズンの平日、浜辺には人影ひとつなかった。

風が少し冷たく吹き抜け、波が静かに寄せては返す。


彬は砂の上に腰を下ろし、黙って海を眺めた。

頭上には雲一つない青空が広がっていた。


ふと気になって横を見ると、真唯佳は靴を脱ぎ、白い足でそっと砂の上を歩いていた。

細い足が波に触れたとき、驚いたように身をすくめ、次の瞬間──


「……ふふっ」

初めて見る、真唯佳の無邪気な笑顔だった。

ほんのわずか、でも確かに笑っていた。

彬は思わず息をのんだ。いつもの無表情が、まるで嘘のように思えた。


(……こんな顔も、できるんだ)

その瞬間、心の中で何かが溶けるように、あたたかくなっていくのを感じた。


この子を、守りたい。

ただの任務じゃない。誰に命じられなくても、自分がそうしたいと思った。

この先どれだけ荒んだ任務が待ち受けていても──

帰る場所があって、笑ってくれる人がいるなら、それだけでいいと思えた。


「……楽しい?」

問いかけると真唯佳は、はにかんだように、こくんと頷いた。


彬は、空を見上げた。

潮風が、心地よかった。

波打ち際で足を濡らしてはしゃぐ真唯佳の姿を見ながら、彬はそっと息を吐いた。

(……これだけでも、来た甲斐はあった)


まるで殻の中に閉じこもったように、これまで誰にも笑顔を見せなかった少女が、いま目の前で波と戯れて笑っている。

その笑みは作り物ではなく、自然にこぼれたものだった。

これほど柔らかな笑みを、彼女が浮かべる日が来るとは──。


だがふと、現実が脳裏をかすめた。

(……こんな時間に小学生が海にいたら、通報されるかもな)

少し警戒して周囲を見回していると、駐車場から戻ってくる叉夜の姿が見えた。


「お待たせしました。チェックイン、済ませましたよ」

「ああ、ありがとう。そろそろ行こうか」

彬はそう言って立ち上がると、真唯佳に声をかけた。


「真唯佳、そろそろ行こう。宿で休もう」

彼女は名残惜しそうに海を振り返りながらも、小さく頷いた。



――――――――――



旅館に着くと、その静けさと上質さに、彬も思わず感心した。

広々とした敷地に、離れのような静かな部屋。露天風呂付きの八畳間で、誰にも邪魔されない。

インターネットで検索して見つけたとはいえ、彬たちが身分を隠して滞在するには理想的な空間だった。


「少し早いですけど、順番にお風呂、いただきましょうか?」

叉夜が控えめに提案する。

「そうだな。じゃあ、僕は後で入るよ。ちょっと外を見てくる」

彬は部屋を出て、庭をぶらりと散策した。風の音と虫の声だけが響き、心が静まっていくようだった。


1時間ほどして戻ると、部屋の障子が静かに開かれ、出てきた叉夜と真唯佳が目に入った。

浴衣姿。

「……ああ」


声が漏れそうになるのを飲み込む。

ふだんは地味な服を着ている真唯佳の、淡い色の浴衣姿はなんとも新鮮で、儚げで、それでいて少女らしい柔らかさがあった。


(……これを、写真に残せたら)

思わずポケットに手が伸びかけたが、そこで我に返る。

極秘任務で護衛している相手の、こんな姿を記録に残すわけにはいかない。

それが少し、もどかしかった。


彬が風呂に入っているあいだ、叉夜と真唯佳は気を利かせて部屋の外に出て、宿の中を散策していたようだった。

戻ってくると、真唯佳が小さな紙袋を大事そうに抱えていた。

「それ……?」

「……お土産。地元の、干菓子」

声は小さいが、その口元はわずかに綻んでいた。


夕食は部屋でゆっくりと。

豪華な料理が並ぶ中、叉夜は普段よりも表情が和らいでいて、真唯佳も徐々に緊張がほぐれたのか、ときどき叉夜の方を見て小さく笑ったりしていた。


「……なんだか、家事を休むのって贅沢ですね」

叉夜が言うと、彬は笑って頷いた。

「たまには、いいね。こういうのも」


いつもは張りつめた空気の中で、どこかよそよそしいまま過ごしていた三人だったが、この夜だけは本当の“家族”のように、ゆったりとした時間が流れていた。


翌日、宿を出て自宅へ戻る車内。

真唯佳はお土産を膝に乗せ、車窓の海を静かに見つめていた。


(……あの笑顔、もう一度見たいな)

そう思った矢先、彼女がふと彬に向かって呟いた。

「……楽しかった。ありがとう」

それだけの言葉が、彼の胸にじんと染み込んだ。



――――――――――



数日が過ぎた。

真唯佳は以前より少しだけ口数が増え、彬の目を見て「おはよう」と言うようになった。ほんのわずかだが、確かに距離が縮まっている。


だが──。


(……こんなふうに、仲良くなってしまっていいのか)

任務が終われば、彼女は王宮へ戻り、彬は彼女のそばを離れなければならない。


いつか来る未来が、少しだけ、怖くなった。


笑顔を知ってしまった。

ぬくもりを知ってしまった。


だからこそ──別れの日を想像すると、以前より重たく、寂しく感じられるようになっていた。

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