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駆け落ちしたけれど

作者: 木山花名美

 

 辺境の小さな田舎町。

 愛と未来だけを信じた私達がここに辿り着いてから、三年の月日が流れた。


 由緒正しい伯爵家の長男と、没落した男爵家の娘。しかも主人と下女という間柄。そんな二人の恋が許される訳もなく……

 何もかもを捨てて、手を取る決意をしたのだ。


 家族も亡くし、何も失うものはない私とは違い、彼は多くのものを捨ててくれた。そのことは大きな負い目となって、私にまとわりついている。言い換えれば、私は彼から、あまりにも多くのものを奪ってしまったのだから。


 綺麗だった彼の手が、力仕事で次第に荒れていく度に。質素な食事を、綺麗な所作で口に運ぶのを見る度に。もし私と出逢わなければ、彼には別の幸せがあったはずだと胸が痛んだ。

 だけど、こんな暮らしを幸せだと笑ってくれる度に、私の罪悪感は優しい布で覆われてしまった。



 彼とは違い、私は下働きには慣れている。力仕事も夜の内職だって。出来るだけ彼の負担を減らそうと必死に働いた。いつか彼には糊の利いた上等なシャツを着せて、テーブルには精のつく食事を何品も並べてあげたい。それは私の意地でもあった。

 ────妊娠して倒れてしまうまでは。


 彼は私の手を取り、泣きながら言った。

「そんなに僕は頼りないかな?」と。


 震える私の口に、高価な鮑の粥を食べさせてくれる彼。どうやって手に入れたのか、生活費は大丈夫なのか。訊きたい言葉を、しょっぱい温もりと共に飲み込んだ。


 彼は身重の私を気遣い、よく働いてくれた。

 頭が良く手先が器用な彼は、力仕事の傍ら、廃材でからくり玩具を作り、隣街へ売りに出掛けるようになった。珍しく色形も美しいそれはよく売れ、玩具店や雑貨店からまとまった注文が入るまでになる。

 その頃、私は長男を出産した。



 息子は小さく身体が弱かった為、しょっ中医者に掛かった。

 夫が頑張ってくれているお蔭で、ここで暮らし始めた頃に比べれば家計も安定してきたが、それでも息子の医療費に忽ち消えていく。

 私は隙間時間に、再び内職をするようになった。


 夫は息子を可愛がった。

 気まぐれに抱き、気まぐれにあやし、気まぐれに高価な既製品のベビー服を買ってくる。

 端切れで作ったベビー服を脱がし、綺麗な服を着せては可愛いと褒めちぎる夫に、ほんの少しだけもやりとした感情を抱いた。

 夫似の息子は、確かにこうして着飾ると、良家のお坊っちゃまに見える。生まれながらの品、血統……そういったものが、再び私を罪悪感に苦しめた。


 いつかは息子に、良い暮らしをさせてあげたい。

 その一心で、育児と内職をこなした。部屋は散らかる一方だし、食事も手抜きになっていくが、夫は何も言わない。手伝いもしない。息子が泣いていても、絶対に起きない。

 ……彼は今、忙しいのだ。資金を貯め、隣街で店を構えるという夢もある。育児や家事なんかで、貴重な時間を奪ってはいけない。文句を言わないでいてくれるだけ、有難いじゃないか。


「うるさくて眠れないでしょう?」

 と訊いたら、

「僕は一度眠ったら、朝まで絶対に起きないから大丈夫だよ」

 と笑ってくれたし。


「散らかっていてごめんなさい」

 と謝ったら、

「ほとんど作業場にこもっているから大丈夫だよ」

 と本当に手洗いと食事以外出てこないし。


「手の込んだ食事を作れなくてごめんなさい」

 とまた謝ったら、

「街で時々食事しているから平気だよ。今度は君も一緒に行こうね」

 と誘ってくれたし。


 にこにこにこにこ。

 いつも笑ってくれる彼に、感謝をしなければいけないの。



 息子が一歳の誕生日を過ぎた頃のことだった。

 この日は内職の納期が迫っていた為、息子の世話をしつつ、必死に作業をしていた。

 夕方近くなった頃、ふと目の痛みに気付き鏡を見れば、左目が真っ赤に腫れている。さっきから視界がぼやけて針が通しづらかったのは、これのせいだったのねとため息を吐く。

 このままだと納期に間に合わない。医療費は惜しいが、信用を失うよりは、すぐに診てもらった方が良いと判断した。


 夫は街に出ていて不在の為、頼ることは出来ない。……いたとしても頼らなかったけど、とぼんやり考えながら、息子を紐でおんぶする。

 むし暑いのか、ぐずる息子をあやしながら辿り着いたのは、町に一軒の小さな診療所。もうじき閉院時間だというのに、何故かその日はとても混んでいて、順番が来るまでに随分待った。それでも何とか診てもらった結果は……疲労と寝不足による腫れ。「休養を取って」と言われた時には、もう苦笑いするしかなかった。


 気休め程度の薬を手に外へ出た時には、もう日はどっぷりと暮れ、薄暗くなっていた。

 まだ泣き続ける息子を背に、さくさく歩きながら、この後の段取りを考える。まずは汗を掻いた息子を風呂に入れ、急いでご飯を食べさせる。機嫌が良い間に、夫の夕飯作りと風呂の後片付け。なかなか寝ない息子を何とか寝かしつけたら、一歳を過ぎても未だに続いている夜泣きに対応しながら内職の続きを…………

 一体、どうやって休養を取れと言うの?


 こんな時、母が生きていたら対処法を訊けたのだろうか。……ううん、私が小さい時には乳母や使用人がいたから、もっと育児も楽だったはずだ。

 友達も実家が没落してからは疎遠になってしまったし、第一駆け落ちした身で会える訳がない。

 町の人に訊けば教えてくれるのかもしれないけれど、色々と探られるのが怖い。みんな表向きは親切にしてくれるけど、内心は突然やって来た私達を怪しんでいるはず。だって夫は、明らかに『平民』ではないんだもの。


 目のせいで悪い視界が、更に昏くなる。

 影を飲み込んでは広がる闇に、とてつもない孤独感と恐怖心が押し寄せた。

 このままでは私まで飲まれてしまう……

 歩を速め、家路を急いでいると、ふと見慣れた人影が視界に入った。


 道端に積まれた丸太の上、すらりとした長身の貴公子が腰掛け、優雅に本を読んでいる。

 そこだけスポットライトで照らされているような、自分とはまるで別次元の場所に、私はそろそろと近付いていく。


「……あなた?」

「ああ、アリサ」

「何をしているんですか?」

「仕事が早く終わったから、本を読んでいるんだよ。家だとあまり集中出来ないから。君はどこへ行っていたの?」

「……診療所へ。あ、息子ルイではなく私です。目が痛んだもので」

「そうか……あまり無理してはいけないよ。今日は夕飯も作らなくていい。僕は昼食を食べすぎてあまりお腹が空いていないから」

「……はい。ありがとうございます」

「もう少し読んだら帰るから、先に帰っていて。日が完全に沈むのが早いか、僕が第一章まで読み終わるのが早いか。空と競争なんて、ロマンティックだろう?」


 悪気のないその微笑みは、完全にお貴族様のものだった。



 泣きすぎて疲れたのか、暑い背中から冷たいシーツへと下ろした途端、息子はすやすやと眠ってしまった。

 こんな時間に眠ったら夜眠れなくなる……それにお風呂にも入れないと……そう思うのに身体が動かない。

 窓を開け、小さな額の汗だけ軽く拭うと、その脇にぼんやりと座り込んだ。



「ただいま」


 日が完全に沈んでしばらくした頃、夫が帰って来た。

 寝室のドアを開け、私と息子の存在を確認すると、ホッとしたように言う。


「どうしたの? 灯りも点けないで」


 真っ暗な室内に広がる灯り。だけど私の心は昏いままだ。

 息子を起こさぬようにそっと寝室から出た途端、にこやかに問われる。


「ねえ、夕日と僕、どっちが勝ったと思う?」



────私の中で、何かが、ううん、全てが、壊れた。



「……夕日か僕か? んなくだらない競争してる暇があるなら、とっとと帰って来てよ」

「…………アリサ?」

「目が痛いって言ったわよね? ほら、これ! こんなに腫れてるのっ!」


 ずいっと顔を近付ければ、夫は目を瞠る。


「可哀想に……薬は」

「薬より休みたいの。休まなきゃ治らないの。ねえ、休ませて」

「もちろん! 早く寝な」

「寝られないの! まだ洗濯物取り込んでない! 朝と昼のお皿も洗ってない! ルイにご飯も食べさせてない! お風呂も入れてない! 夜も夜泣きで眠れない! 内職も……内職も終わってな……うっ、うわあああん!!」

「アリサ……」


 伸ばされた夫の手をパシッと払い除け、そこら中に散らばっているものを手当たり次第に投げ付ける。


「 “ そんなに僕は頼りない? ” ううん、それ以前に頼れないのよ! いつまで経っても貴方は伯爵令息様で、私は没落貴族の娘でメイドで……こんなに苦しいなら、駆け落ちなんかしなきゃよかった! 結婚なんかしなきゃよかった! 貴方だって後悔しているくせに! もっと本を読んで、ダンスをして……こんな乱暴な女じゃなくて、どこぞの高貴なご令嬢と出逢って結婚すれば良かったって、後悔しているくせに!!」


「アリサ!!」


 わああっと泣く息子の声で、ふと我に返る。

 頭は真っ白なのに、身体は勝手に動き、寝室へと向かう。可哀想な泣き顔を覗くと、汗ばんだ柔らかな身体を抱き上げた。


「お風呂……入れてあげなきゃ。お風呂に……」


 ぼんやり呟いていると、横からすっと長い腕が伸び、息子を簡単に奪われる。


「入れるよ、お風呂。休んでて」


 逆光に浮き上がる、夫の広い背中と小さな頭。

 離れてしまうのが切なくて、でもふっと楽になって……そのまま私は、湿っぽいベッドへと身を横たえた。




 風に乗って歌が聞こえる。

 優しくて波みたいに心地好いメロディー。

 何を言っているか分からないから、きっと外国語なんだろう。


 何とか開けた気怠い瞼の先、少し開いた窓の隙間から、その歌は流れ込んでいた。

 ゆっくり身体を起こし窓辺へ近寄れば、月明かりの射す庭に、父子のシルエットが浮かび上がっている。

 私は誘われるように、ふらふらと外へ出た。



「……何の歌?」


 急に現れた私に、彼は少し驚いた顔をしながらも、まるで歌の続きみたいな柔らかな声音で答えてくれた。


「ムジリカ国の子守唄だよ」

「どんな歌詞なの?」



『優しい夜の優しい闇よ

 どうか真っ暗に染めておくれ

 坊やの夢が光るように

 描いた道が光るように


 静かな夜の静かな音よ

 どうか喧騒を消しておくれ

 坊やの歌が届くように

 明日に歌が届くように』



「……素敵な歌ね。私が作ったのとは大違いだわ」

「どんな歌?」


『は~やくねんね~

 とにかくねんね~

 ねるといいことあるかもよ~

 なくてもはやく~ねるんだよ~』


 私の下手くそな歌に、夫はぷはっと吹き出す。

 それに驚いたのか、ふええとぐずり出す息子の背を、慌ててトントンと叩く。


「……ルイ、ご飯食べた?」

「うん。パンとすりおろした林檎を食べさせた。スープも作ってみたんだけど、全然食べなくて」

「味付けと野菜の組み合わせにこだわりがあるの。結構舌が敏感なのよ、この子」

「僕に似たのかな。子供の頃は偏食だったらしいから。夜寝ないのもきっと僕似だな。……こんなに大変だとは思わなかった」


 それきり、会話が続かなくなってしまう。

 さらさらと擦れる草木に、心をくすぐられ言葉を促され……やっと口を開いた。


「ごめんなさい」

「ごめん」


 同時に出た言葉。

 はっと見上げれば、夫の淡い瞳が、零れ落ちそうな程に潤んでいる。この世でたった二人きりになった、あの初めての夜のように。


「……ごめん。何も気付かなくてごめん。君はずっとにこにこ笑っていてくれたから……そんなに思い詰めているなんて知らなかった」

「……笑うしなかったの。私よりも辛い貴方が笑ってくれているんだからって」

「どうして僕が君より辛いの?」

「だって、私には何も失うものはなかったけど、貴方は沢山のものを捨ててくれたじゃない。なのに……」


 感情に煽られ、言葉が喉に引っ掛かってしまう。

 情けない私の代わりに、彼がその先を紡いでくれた。


「僕は何も捨てたりしていないよ。君と歩く道を選んだだけだ」

「でも……でも貴方は……」

「君の手を取らなければ、この子にも会えなかった。こんな風に、君の可愛い歌を聴くことも。だから、僕は後悔なんてしていないよ。だけど、君は……」


 とうとう彼の瞳からは、涙が零れてしまう。


「本は全部捨てる。ルイの世話も、家事も仕事も全部やる。何でもやるから……。だから、僕を捨てないでくれ。お願いだ」


 いつの間にか、私の視界も涙で滲んでいる。

 こんなに泣いたら目が悪化してしまう……そう思っても止まらない。鼻水を啜りながら、私は素直な気持ちを口にする。


「全部やったりしたら、今度は貴方が倒れてしまうわ。こんな風に体調が悪くなる前に、負担を少しずつ共有出来たらいいの。あ、本はどうせ捨てるなら売ってくださいね。勿体ないから」


 切ない顔で頷く夫に、私はくすりと笑う。


「冗談よ。私はお屋敷のテラスで本を読む貴方に、一目惚れしたんだから」

「……僕は庭で洗濯をする君に一目惚れしたよ。泡の中で、変な歌を楽しそうに口ずさむ君が可愛かった」

「昔はね。でも、もう洗濯は一生分したわ。おむつを洗うの、飽きちゃった」

「明日は僕が洗うよ。君のおかしな子守唄を歌いながら」


 ふふっと笑い合う私達の間には、安心したように寝息を立てる息子。

 どちらからともなく距離は縮まり、寄り添いながら家へ戻った。



 その後、私は息子の残した少ししょっぱいスープと、紙袋の中でぺしゃんこに潰れていた、夫の土産のパンを食べた。

 その間にも夫は、私がやり残した内職をせっせと片付けてくれている。

 ……こんな内職よりも、夫の作る玩具一つの方が何倍もの価値があるのに。家計を助けるつもりが、結局夫に負担を掛けてどうするんだと、また涙が溢れてくる。


 だけど夫は、「いつもありがとう」と笑い、黙々と針を動かしてくれた。

 そして、「君がよければ、内職ではなく僕の仕事を手伝って欲しい」とも……。


 仕事の話から将来の夢、思い出話にまで花を咲かせたその夜。

 息子は一度も泣かなかった。



 ◇◇◇


 あれから十五年の月日が流れた今、二人で興した小さな玩具店は、国内トップの売上を誇る玩具メーカーへと成長した。

 身体の弱かった息子のルイも立派に成長し、現在は首都の学校の寮に入っている。二人の娘と末の息子はまだ手元にいるが、使用人も大勢いる為、何不自由ない生活だ。

 伯爵家は現在、夫の弟が襲爵しており、彼の仲介により、先代と和解することが出来た。弟が譲り受ける予定だった領地と子爵位は、伯爵家の強い希望で、夫に託された。



『大変だったあの頃が、一番幸せだった』


 そう言えたら美しいのだろう。

 だけど……



「何を読んでいるんだ?」

「今流行りの恋愛小説よ」

「いつ読み終わる?」


「……月が太陽と交代するのが早いか、私が最終章まで読み終わるのが早いか。空と競争なんて、ロマンティックでしょう?」


 気まずそうな顔をする夫。舌をベッと出せば、本は忽ち奪われ、唇を塞がれてしまう。


 そう、私はいつだって、『今』が一番幸せなのだ。



ありがとうございました。


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